黒田官兵衛と黒田長政の朝鮮出兵の最終回

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田官兵衛と黒田長政の朝鮮出兵の最終回のあらすじとネタバレ」です。

このページは「三路の戦い-小西行長と順天城の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■日本軍が朝鮮半島から撤退
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)8月18日に死ぬと、豊臣政権を運営する五大老は朝鮮出兵の中止と李氏朝鮮との和議を決定した。そして、宮城豊盛・徳永寿昌を朝鮮半島に派遣した。

慶長3年(1598年)10月1日、宮城豊盛・徳永寿昌は朝鮮半島の釜山に入ると、豊臣秀吉の死は秘匿したまま、全軍に釜山へ撤退するように命じた。

日本軍は三路の戦い「第2次蔚山城の戦い」「泗川城の戦い」「順天城の戦い」で明・李氏朝鮮連合を撃退しており、有利な状況であったが、撤退命令により、釜山へ撤退を開始する。

しかし、泗川城と順天城は、明軍を撃退したものの、明軍が撤退しておらず、明軍との撤退交渉が必要であった。

泗川城に居る島津義弘は、捕虜を返還する代わりに、明軍から人質を取り、泗川城から撤退する。

一方、「順天城の戦い」で大敗した明軍の大将・劉挺は、降倭・阿蘇宮越後守を順天城へ派遣し、小西行長に和睦を求めた。

降倭とは、明に降った日本人武将の事で、阿蘇宮越後守は加藤清正の元家臣とされる。阿蘇宮越後守は、加藤清正の家臣で明軍に降った岡本越後守と同一人物という説もあるが、詳しい事は分らない。

小西行長は安全に撤退するため、大将・劉挺の和睦に応じ、明軍から人質を取ると、撤退を開始する前日の慶長3年(1598年)11月9日に小西行長は順天城沖の船上で宴会を開いた。

しかし、慶長3年(1598年)11月10日、李氏朝鮮の水軍大将・李舜臣は、小西行長と劉挺の和睦に同調せず、明・李氏朝鮮連合軍の水軍を率いて順天城沖を封鎖した。

小西行長は明・李氏朝鮮の水軍を見て大いに驚き、陸へ上がって、李氏朝鮮の水軍大将・李舜臣に「既に劉挺と和睦が成立している」と説明したが、水軍大将・李舜臣はこれに応じず、海上封鎖を続けた。

このとき、島津義弘は泗川新城から巨済島まで撤退していたが、小西行長が撤退できずに難儀していることを知り、日本水軍を率いて救援に駆けつけた。

すると、順天城沖を封鎖していた明の水軍大将リンチンと李氏朝鮮の水軍大将・李舜臣は、島津義弘の動きを察知して西へと進み、露梁海で島津義弘ら日本水軍を迎え撃った。

その結果、両水軍は露梁海において海戦に及び、日本水軍が明・李氏朝鮮連合軍の水軍を撃破し、李氏朝鮮の水軍大将・李舜臣は露梁海戦で戦死した。

順天城で海上封鎖されていた小西行長は、日本水軍の勝利を受け、露梁海を迂回して釜山へと戻った。

さて、豊臣秀吉が死んだため、日本軍を撤退させる事になったが、豊臣政権としては戦争を起こした大義名分が必要なので、引き続き李氏朝鮮に王子の上洛を要請した。

しかし、李氏朝鮮との講和交渉に進展は無く、朝鮮半島に渡っていた日本軍は、慶長3年(1598年)11月から12月にかけて、日本へと帰国した。

黒田長政と加藤清正は慶長3年(1598年)11月23日に朝鮮半島を発って帰国した。講和交渉は残ったままになったが、こうして、第2次朝鮮出兵(慶長の役)は終了した。

第2次朝鮮出兵が終わったのは慶長3年(1598年)12月、黒田如水が58歳、黒田長政が31歳の事であった。

■明軍が朝鮮出兵で大勝利したネタバレ
さて、順天城から小西行長が撤退すると、明の大将・劉挺は順天城(順天新城)へ入った。劉挺が順天城へ入ると、順天城には大量の首が残っていた。

小西行長は劉挺との撤退交渉で「日本軍が挙げた首を順天城(順天新城)に残して行くので、その首を本国に持ち帰り、自分の功績とすればいい」と約束しており、小西行長は約束を守って多くの首を順天城(順天新城)に残していったのである。

このため、順天城(順天新城)に入った劉艇は、順天城の残されていた首をかき集め、さらに朝鮮人捕虜の首をはねて首級を増やした。

そして、劉艇は、こうして得た大量の首級を明(中国)に持ち帰って皇帝に献上し、明の大勝利を報告して、自分の功績を喧伝したのであった。

これで朝鮮出兵編は終わりで、次は関ヶ原の戦い編です。実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田如水と黒田長政が徳川家康に味方するあらすじとネタバレ」へ続く。

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