黒田如水と黒田長政が徳川家康に味方する

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田如水と黒田長政が徳川家康に味方するあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田官兵衛と黒田長政の朝鮮出兵の最終回のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田如水が上京
豊臣秀吉が死んだとき、黒田如水(黒田官兵衛)は中津で療養中だったため、病床から伏見を拝して豊臣家の行く末を心配した。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権は五大老・五奉行によって運営されており、それを知った黒田如水は「天下は再び乱れるだろう」と言い、豊臣政権には近づかず、中津で天下の形勢を見守った。

さて、豊臣政権には以前から「文治派」と「武断派」の対立があり、豊臣秀吉の死を切っ掛けに「文治派」と「武断派」の対立が表面化した。

文治派は、豊臣政権で政務を担当していた石田三成・大谷吉継・小西行長らであり、武断派は、戦線で戦う加藤清正・福島正則・細川忠興らである。

文治派の石田三成らは朝鮮出兵のとき、豊臣秀吉に武将の失敗を讒訴したので、武断派は石田三成らに激怒していた。

また、戦線で手柄を立てて恩賞を得る武断派には、戦わずして恩賞を得る石田三成らの事が許せなかったのである。

そのようななか、黒田如水(黒田官兵衛)は慶長3年12月に上洛して伏見の黒田邸へ入った。そして、黒田如水は派閥争いには近づかず、黒田長政に「徳川家康によしみを通じろ」と命じたのである。

■豊臣秀吉の形見分けで黒田如水は村八分
このころ、石田三成ら五奉行によって、豊臣秀吉の形見分けが行われた。遺品の分配は、石田三成ら五奉行によって決められた。

徳川家康には絵「遠浦帰帆」と金子300枚、前田利家には名刀「政宗」と金子300枚というように、各地の大名やその家臣にまで形見分けが行われ、黒田長政も金子20枚を拝領した。

豊臣秀吉の形見分けは、上は徳川家康から、下は御伽衆のごとき山名禅高(金子20枚)にまで配られたが、豊臣秀吉の軍師として活躍してきた黒田如水(黒田官兵衛)には豊臣秀吉の形見分けは行われなかった。

■徳川家康の台頭
豊臣秀吉の死後、有力な大名となったのは、関東八州に255万石を持つ徳川家康と、加賀(石川県)に102万石を持つ前田利家であった。徳川家康は伏見城で政務を取り仕切り、豊臣政権の事実上のトップであった。

一方、石田三成・増田長盛・長束正家・大谷吉継(大谷吉隆)が中心となり、幼い豊臣秀頼を擁立して大阪城の主導権を握った。

さらに、石田三成は前田利家を豊臣秀頼の後見人とし、伏見城に居る徳川家康から政権を奪い、大阪城で豊臣政権を運営しようと画策した。

さて、豊臣秀吉は秀次事件を切っ掛けに新たな掟を定め、大名間の無断結婚を禁止しており、大名間の無断結婚は御法度であった。

(注釈:秀次事件のあらすじとネタバレは「秀次事件-豊臣秀次は殺生関白のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

しかし、徳川家康は豊臣秀吉の死後、法度を破り、六男・松平忠輝を伊達政宗の長女・五郎八姫と婚約させ、政略結婚により勢力を拡大した。さらに、徳川家康は、福島正則と蜂須賀家正との政略結婚を画策した。

慶長4年(1599年)1月、豊臣秀吉の遺言によって秘匿されていた豊臣秀吉の死が公表される。

慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀吉の遺言により、伏見城に居た豊臣秀頼が大阪城へ移る。諸将は大阪城へ赴き、豊臣秀頼に新年の挨拶を行い、忠誠を誓った。

徳川家康も大阪城へ赴き、豊臣秀頼に新年の挨拶を行ったが、徳川家康は挨拶が終わると伏見城へ戻って政務を取り仕切った。

■徳川家康襲撃事件
慶長4年(1599年)1月、徳川家康による無断結婚が発覚し、石田三成ら奉行は慶長4年1月20日、「徳川家康は豊臣秀吉の遺命に背いて勝手に婚姻をしており、異心がある」として、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家正の3人を審問した。

しかし、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家正の3人は抗弁して非を認めなかったため、石田三成や小西長行らは怒って、徳川家康の屋敷の襲撃を密かに企てた。

伏見にある徳川家康の上屋敷は、石田三成や小西長行の屋敷に近かったため、徳川家康を襲撃するという噂を聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は、徳川家康を説得して向島にある下屋敷へと移らせた。

このとき、加藤清正や福島正則は未だに態度を決めていなかったので、黒田如水と黒田長政は知略を巡らせて、加藤清正や福島正則を徳川方に取り込んだ。

そして、黒田如水は黒田長政に命じて、池田輝政らと共に徳川家康の下屋敷の警備に当たらせた。徳川家康はこれに喜び、黒田長政の手を取って感謝したという。

■前田利家と徳川家康の和睦
さて、前田利家は豊臣秀頼の後見人であり、徳川家康に対抗できるのは、前田利家だけだったが、前田利家は老齢で病気にかかっており、死ぬのは時間の問題であった。

黒田如水・黒田長政親子の仲介により、徳川家康の元には武断派を中心に歴戦の猛将が次々と集まっており、前田利家の息子・前田利長では徳川家康に対抗できないことは目に見えていた。

そこで、黒田如水は前田利長の元に、前田利長の縁者である細川忠興を派遣して、「今のうちに和睦した方が良いぞ」と和睦を勧告した。

これに驚いた前田利長は慌てて父・前田利家に和睦を願い出ると、前田利家は同意して徳川家康に和睦を申し出てた。

こうして、慶長4年2月5日に徳川家康と前田利家が誓約を交わして和睦し、徳川家康の無断結婚問題は収束した。ただ、問題となった徳川家康の法度破りの政略結婚は黙認された。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政と石田三成襲撃事件のあらすじとネタバレ」へ続く。