黒田長政の石田三成襲撃事件

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政と石田三成襲撃事件のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田如水と黒田長政が徳川家康に味方するあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■文治派と武断派
豊臣政権には、政務を担当する「文治派」という派閥と、戦線で戦う「武断派」という派閥とがあった。

文治派と武断派は以前から仲が悪かったが、豊臣秀吉の死後、文治派と武断派とが対立していた。

文治派は石田三成・小西行長と言った官僚で、武断派は加藤清正・福島正則・黒田長政と言った猛将でああり、いわば、官僚と現場武将の対立である。

■石田三成襲撃事件
朝鮮出兵のとき、黒田如水(黒田官兵衛)は石田三成の訪問を無視して囲碁を打ち続けた。石田三成はこれを恨みに思い、黒田如水の悪口を言いふらし、終いには豊臣秀吉に讒訴した。

この結果、黒田如水は豊臣秀吉の怒りを買い、切腹を命じられる直前まで行ったが、黒田長政の謝罪により、切腹を免れた。

(注釈:黒田官兵衛の囲碁事件のあらすじとネタバレは「黒田官兵衛(黒田如水)の囲碁事件のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

このため、黒田長政は、囲碁事件で石田三成を恨んでいた。

また、朝鮮出兵のとき、石田三成は朝鮮軍事奉行を務め、諸将の活動を日本に居る豊臣秀吉に報告していた。

しかし、石田三成は朝鮮半島で奮闘する武断派の悪口ばかりを豊臣秀吉に告げたので、武断派の諸将は正当な恩賞を得られないばかりか、領土を没収された者も居り、石田三成を恨んでいた。

そこで、黒田長政は、福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明と謀り、朝鮮出兵で石田三成が犯した罪を書き連ねた。

(注釈:黒田長政・福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明の計7人を武断派七将と呼ぶ)

そして、黒田長政ら七将は、徳川家康に訴状を提出し、石田三成の処分を求めた。しかし、徳川家康は訴状の提出を認めなかった。

次に、黒田長政ら七将は、前田利家に訴状を提出して石田三成の処分を求めたが、前田利家も訴状の提出を認めなかった。

このようななか、慶長4年慶長4年(1599年)閏3月3日、病床にあった前田利家が大阪の屋敷で死去する。行年62歳であった。

その後、石田三成ら五奉行は伏見城に居る徳川家康の元を訪れた。このとき、徳川家康は向島の下屋敷に住んでいたが、向島の下屋敷では用心が悪いため、五奉行と三老中が協議して、徳川家康を伏見城に入れた。

こうして、徳川家康は慶長4年慶長4年(1599年)閏3月13日に伏見城へと引っ越し、伏見城を居城とした。

さて、前田利家が武将同士の対立の仲裁に当たっていたため、大きな揉め事は起こらなかったが、前田利家が死ぬと諸将の衝突を仲裁する者は居なくなった。

そこで、石田三成の提訴に失敗した黒田長政ら七将は、前田利家が死んだ日の夜に石田三成の襲撃を企てた。

しかし、石田三成の育ての親・桑島次左衛門が、黒田長政ら七将が石田三成を襲撃する計画を企てている事を聞きつけ、密かに石田三成に教えた。

桑島次左衛門から知らせを受けた石田三成は慌てて、親交のある上杉景勝・宇喜多秀家・佐竹義宣と相談する。そして、石田三成は、佐竹義宣の提案により、徳川家康を頼ることにした。

その日の夜、石田三成は、兄・杢介(石田正澄)を大阪の邸宅に留守として残し、密かに女乗物(女駕籠)に乗って、佐竹義宣と共に伏見城へと逃げ込んだ。

(注釈:石田三成は徳川家康の元に逃げ込んだのではなく、伏見城にある石田三成の屋敷「治部少丸」に逃げ込んだという説もある。)

黒田長政ら七将は、石田三成が密かに伏見城へと逃げた事を知ると、手勢を率いて伏見の向島に陣取った。

このとき、徳川家康は伏見城を居城にしていたので、黒田長政ら七将は、徳川家康に事情を説明する使者を送った。

すると、徳川家康は黒田長政らに返答の使者を送り、「秀頼はまだ幼い。そのうえ、豊臣秀吉が死んでから間もないのに闘争に及ぶとは無禮(無礼)である。和睦すれば、悪いようにはしない」と命じ、朝鮮出兵での恩賞の見直しを約束した。

また、徳川家康は生駒雅楽頭(生駒親正)を派遣して、石田三成に「豊臣秀吉の喪中なのに無礼だ。本国の佐和山に帰って隠居し、息子・隼人をもり立て、貴殿の職を継がせて五奉行に入れれば、相違なきように計らう」と命じた。

これを受けた石田三成は上杉景勝・佐竹義宣と相談して、上杉景勝が会津(福島県)で謀反を起こし、石田三成と上杉景勝・佐竹義宣で徳川家康を挟み撃ちにする計画を立てたと伝わる。

石田三成は上杉景勝らとの協議の結果、徳川家康の隠居勧告を受け入れて、佐和山(滋賀県彦根市)へと引いて隠居することにした。

黒田長政ら七将は、憎き石田三成が中央政権から退き、朝鮮出兵の恩賞も見直されることになったので、徳川家康に感謝して兵を引いた。こうして、石田三成襲撃事件は終結した。

■石田三成の隠居
慶長4年(1599年)閏3月27日、石田三成は伏見を出て本拠地・佐和山(滋賀県彦根市)へと向かう。

石田三成の軍師・島左近は、黒田長政ら七将の襲撃を警戒して、佐和山より6000の兵を呼び寄せ、3000の兵で帰路を警備させ、残り3000の兵を江州(滋賀県)にある「鏡の宿」(滋賀県竜王町鏡)に待機させた。

徳川家康も黒田長政ら七将が石田三成を襲撃することを警戒し、徳川家康の次男・結城秀康に石田三成の護衛を命じ、次男・結城秀康に安藤帯刀を同行させた。

まだ、中村式部少輔(中村一氏)と生駒雅楽頭(生駒親正)の2人は、石田三成と幼なじみだったため、結城秀康とともに石田三成の護衛を命じられた。

こうして石田三成は結城秀康らに警護されて伏見を発ったが、石田三成は帰路の途中で数回も警護を断るため、結城秀康らは仕方なく、伏見城へと戻った。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「徳川家康の加賀征伐のあらすじとネタバレ」へ続く。