徳川家康の加賀征伐

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「徳川家康の加賀征伐のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田長政と石田三成襲撃事件のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■徳川家康の帰国勧告
慶長4年(1599年)閏6月、徳川家康は各大名に帰国を促した。帰国勧告を受けた上杉景勝は真っ先に暇を願い出て会津(福島県)へ帰国し、佐竹義宣も一揆の鎮圧を名目に常陸(茨城県)へ帰った。

前田利家の嫡男・前田利長は、亡父・前田利家の後を継いで五大老の職にあり、亡父・前田利家から「3年間は大阪に居て、豊臣秀頼を補佐せよ」と遺言されていた。

ところが、前田利長は、中央政治や派閥争いに馴染めなかったのか、徳川家康からの帰国勧告を受けると、重臣の反対を押し切って亡父・前田利家の遺言に背き、本国の加賀(石川県)へと帰国した。

こうして、淀君派や北政所派などの派閥に関係無く、各地の大名が徳川家康の勧告に従い、伏見城(京都)から本国へと戻った。

しかし、黒田如水と黒田長政の親子は、本国の豊前国中津(大分県中津市)には帰国せず、京都に留まって徳川家康と気脈を通じた。

■徳川家康の加賀征伐
さて、石田三成と密約を結んで会津(福島県)に帰国した上杉景勝は、軍師・直江兼続と協議して、道を整備して、城を修理し、各地に要塞を築いた。

一方、石田三成襲撃事件の仲裁に当った徳川家康の隠居勧告を受け入れた石田三成は、佐和山(滋賀県彦根市)へ戻って隠居していたが、密かに軍師・島左近と協議して、城を修復し、各地の大名に密使を送り、同志を集めて談合した。

そのようななか、大阪では「淀君派の浅野長政や大野治長が、前田利長を擁立して徳川家康を討とうとしている」という噂が流れた。

(注釈:この噂は、前田利長を成敗する大義名分を作るため、徳川家康が噂を流したという説もある。)

この噂を聞いた石田三成派の増田長盛が、徳川家康にこの噂を報告した。すると、徳川家康は、この噂を口実に大阪城を警護するという名目で大阪城を占拠した。

その後、徳川家康は、浅野長政と大野治長を処分すると、前田利長を成敗するため、加賀征伐を発表したのである。

加賀征伐の発令を知った宇喜多秀家と細川忠興は、前田利長と縁戚関係にあったため、加賀(石川県)へ行き、前田利長に加賀征伐の事を教えた。

すると、前田家は抗戦派と非戦派に別れて紛糾した。前田利長は徳川家康に決戦を挑むため、宇喜多秀家らを通じて豊臣家に支援を要請し、戦の準備を始めたが、前田利長の母・芳春院(前田まつ)が断固として開戦に反対した。

前田利長は豊臣家からの支援を得られず。母・芳春院(前田まつ)が「私は先が短い。母を捨てでも家を守れ」と説得し、前田利長は徳川家康との決戦を断念した。

こうして、母・芳春院(前田まつ)は重臣の横山長知(よこやま・ながちか)を大阪城へと派遣し、徳川家康に弁明すると共に、自らが人質になる事で加賀征伐を回避した。

そして、母・芳春院(前田まつ)は前田利家の1周忌が終わると、人質として江戸へ向かい、15年に渡る人質生活を過ごした。母・芳春院(前田まつ)は長男・前田利家の死後に人質生活を終え、加賀に戻った。母・芳春院(前田まつ)は長生きで71歳まで生きた。

こうして、徳川家康に単独で対抗する事が出来た加賀106万石の前田家は、前田利家の死後、決戦に及ぶこと無く、徳川家康に降り、関東八州250万石を治める徳川家康に単独で抵抗できる勢力は無くなったのであった。

(注釈:毛利輝元は中国地方に120万石を有し、上杉景勝は会津120万石を有していたが、徳川家康は朝鮮出兵で兵を消耗してないため、石高以上に力の差があったとされる。)

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政が栄姫と結婚-直江兼続の直江状のあらすじとネタバレ」へ続く。