黒田如水(黒田官兵衛)の石垣原の戦い-九州の関ヶ原

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)の石垣原の戦い-九州の関ヶ原のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田如水(黒田官兵衛)と大友義統-杵築城の戦い」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■石垣原の戦い
黒田如水(黒田官兵衛)は、杵築城が大友義統の軍勢に包囲されたという知らせを受け、井上九郎右衛門に3000の兵を与え、杵築城へと差し向けた。

慶長5年(1600年)9月12日、大友義統の家臣・田原紹忍(田原親賢)は杵築城の二の丸まで攻め込んでいたが、黒田の援軍・井上九郎右衛門に退路を断たれることを恐れ、杵築城の包囲を解いて立石城へと退却した。

慶長5年(1600年)9月12日、井上九郎右衛門は杵築城に着いたが、既に田原紹忍(田原親賢)は退却しており、戦う敵が居なかったので、杵築城の松井康之・有吉立行と軍議を行い、大友義統の拠点・立石城を攻める事を決めた。

そして、慶長5年(1600年)9月13日(関ヶ原の合戦の2日前)、井上九郎右衛門は杵築城の松井康之を先手として、立石城へと攻め寄せたのである。

さて、立石城(大分県別府市)は、杵築城から西南に6里(23.5km)ほど離れた立石山の中腹部に在り、南方を山に囲まれ、北方に傾斜した平原が広がる要害であった。

立石城の北に広がる傾斜した平原は、南北に20町(約2.2km)の広き原で、石垣原(いしがきばる)と呼ばれている。

石垣原には石が多いため、農民が一カ所に石を集め、所々に長い石垣を作ったいた。このため、農民の住む集落は「石垣村」と呼ばれるようになった。そして、石垣原は石垣村の西にあるため、「石垣原」と呼ばれるようになった。

ただ、石垣村の住人は「石垣原」の事を「鶴見原」と呼んでいたので、今でも「石垣原」を「鶴見原」と呼ぶこともある。

さて、立石城を拠点とした大友義統は、黒田如水(黒田官兵衛)の先発隊・井上九郎右衛門が攻めてくると聞くと、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)を総大将に、竹田津志摩・小田原又左衛門・深津七右衛門・木部山城・大神賢助・清田民部などを出陣させた。

そして、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は軍勢を3つに分けると、陣を3段に構えて石垣原に布陣し、黒田如水(黒田官兵衛)の軍勢がくるのを待ち受けた。

すなわち、第1陣を吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)、第2陣を宗像鎮統、第3陣を木辺兵部入道として布陣した。

一方、杵築城を出た井上九郎右衛門は、立石城の前に広がる石垣原で大友義統の軍勢と対峙すると、手勢を3つに分け、石垣原に3段に布陣した。

すなわち、第1陣を時枝平太夫・母里与三兵衛、第2陣を久野次左衛門・曾我部五右衛門、第3陣を井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助とした。

さて、井上九郎右衛門は、第1陣の時枝平太夫・母里与三兵衛を差し向けると、大友軍の第1陣・吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)はわざと引いて、石垣原の奥へと時枝平太夫・母里与三兵衛を誘い込んだ。

そして、大友軍の第1陣・吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は小川まで引くと、陣を立て直し、小川を隔てて黒田軍の先陣の時枝平太夫・母里与三兵衛とにらみ合った。

しかし、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は小川の近くに伏兵を配置しており、伏兵を起こすと、先陣の時枝平太夫・母里与三兵衛に一斉に襲いかかった。

先陣の時枝平太夫・母里与三兵衛はしばらく防ぎ戦うが、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の猛兵に押されて北へと逃げる。

先陣の時枝平太夫・母里与三兵衛は、兵を集めて丸くなって逃げるが、時々、引き返して敵と戦い、敵を追い返した。

このとき、大きな朱柄の槍を持った敵武者が1人、高名を心がけたるとみえ、先陣の時枝平太夫の手勢を討たんとて、大友の軍勢を離れて駆け寄ってきた。

すると、時枝平太夫の手勢に居る時枝作内という者が、槍を返し合わせ、大きな朱柄の槍を持った敵武者を討ち取った。

さて、黒田軍の大将・井上九郎右衛門は、第1陣の時枝平太夫・母里与三兵衛の敗走を見て、黒田軍の第2陣の久野次左衛門・曾我部五右衛門を投入した。

黒田軍の第2陣の大将・久野次左衛門は、黒田家の家老・久野四兵衛の嫡男である。父・久野四兵衛は朝鮮出兵の「平壌城の戦い」で負傷して死んだため、当時16歳の久野次左衛門が家督を相続して朝鮮半島へと渡り、父・久野四兵衛の後役を務めた。

久野次左衛門は朝鮮出兵のとき、唐人(中国人)を討ち取ろうとして馬で追いかけていたが、落馬してしまい、黒田家の家臣・野村市右衛門(野村隼人)に唐人を討ち取られてしまった。

久野次左衛門はこれを遺恨に思い、野村市右衛門(野村隼人)と武勇を競うようになり、久野次左衛門は諸将に勝る活躍をしていた。

黒田如水(黒田官兵衛)は久野次左衛門の働きに大いに感心したが、九州関ヶ原の合戦の(石垣原の戦い)とき、久野次左衛門は19歳の若武者だったので、黒田如水(黒田官兵衛)は心許なく思い、久野次左衛門の後見に歴戦の猛者・曾我部五右衛門を添えていた。

(注釈:曾我部五右衛門は、伊予小松の剣山城主・黒川美濃守の嫡子で、豊臣秀吉に滅ぼされて浪人となり、黒田官兵衛に仕えた。このとき、「黒」の字を避けるため、母方の姓「曾我部」を名乗った。曾我部五右衛門は石垣原の戦いのとき、38歳であった。)

さて、黒田軍の第2陣の久野次左衛門・曾我部五右衛門は果敢に防ぎ戦い、兵を立て直すが、大友軍も第2陣・宗像鎮統を投入したため、再び黒田軍の旗色が悪くなった。

久野次左衛門は朝鮮半島での遺恨から、野村市右衛門(野村隼人)と功を競い合っていたが故に功を焦り、黒田軍の旗色が悪くなると、「先手が敗戦したゆえ、敵は勢いに乗っている。激しく防ぎ戦わなければ、敵は益々、勢いに乗り、味方の不利となる。必死に戦い、敵を防ぐべし。義理を知る者は我に続け」と下知すると、士卒に先んじて駆けだした。

後見役の曾我部五右衛門は久野次左衛門が敵陣に向かって突き進むのを見て追いかけ、戻るように忠告したが、久野次左衛門は忠告を聞き入れず、「味方の敗軍を見ているのに、何時を待つのか。曾我部殿はここを引いて黒田如水(黒田官兵衛)に報告したまえ」と言って敵陣に突っ込んだ。

そして、久野次左衛門は敵陣で馬を下りると、槍を構えて、向かってくる敵兵を討ち取り、数人に負傷を追わせた。久野次左衛門は勇猛果敢に戦ったが、敵は大勢だったので、終いには討ち取られてしまった。久野次左衛門は行年19歳であった。

このとき、久野次左衛門の家臣である光留立右衛門・麻田甚内・卑田九蔵・山本勝蔵・久保庄助・下田作右衛門の6人は、命よりも義を重んじて、主・久野次左衛門の側で敵と戦い、終いには6人とも同じ場所で敵に討たれた。

後見役の曾我部五右衛門は、久野次左衛門を見捨てることが出来ずに敵と戦い、大友軍・第2陣の大将・宗像鎮統と一騎打ちに及び、宗像鎮統と差し違えて死んだ。

さて、石垣原か北に3kmの所に実相寺山(實相寺山)があり、実相寺山(實相寺山)の南にある小山に、杵築城の松井康之は布陣していた。

松井康之は、黒田軍の中陣の久野次左衛門・曾我部五右衛門の両将が討たれたのを見て、兵を進め、大友軍と激しく戦うが、死傷者を大勢出してしまい、本陣へと引いた。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「井上九郎右衛門と吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の一騎打ち-石垣原の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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コメント欄

黒川通貫五右衛門美濃守は伊予小松の剣山城の城主で天正13年7月14日落城 伊予松山の城主は河野通直

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  • 黒川茂

■黒川茂さんへ
ご指摘ありがとうございます。伊予小松の剣山城に訂正しました。

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  • 管理人