黒田長政と細川忠興の対立の理由-年貢持ち逃げ事件

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編細川忠興が黒田長政に激怒-黒田長政の年貢持ち逃げ事件のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田如水の筑前御討入-博多が福岡に対立する理由のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■細川忠興と黒田長政が仲が悪い理由
細川忠興は関ヶ原の合戦のとき、豊後の杵築に飛び領地を持っており、豊後・杵築城は、旧領地を回復する為に兵を挙げた大友義統に攻められた。

これを助けたのが、豊前・中津城で挙兵した黒田如水(黒田官兵衛)で、黒田如水(黒田官兵衛)は豊後の石垣原において大友義統と合戦に及び、大友義統の軍勢を撃破して、大友義統を降伏させた(石垣原の戦い)。

このように、黒田家と細川家は、良家の関係は良好であった。しかし、関ヶ原の戦いの後、黒田家と細川家は急激に関係が悪化し、犬猿の仲となる。その原因が黒田長政の年貢持ち逃げ事件である。

■黒田長政の年貢持ち逃げ事件
慶長5年(1600年)10月、豊前・中津城18万石の大名・黒田長政は、関ヶ原の合戦で東軍を勝利に導き、筑前52万石を拝領し、増加転封となった。

一方、丹後・宮津(京都府宮津市)18万石の大名・細川忠興も東軍として活躍したので、慶長5年(1600年)11月に豊前39万石へと増加転封となり、黒田如水(黒田官兵衛)の後釜として豊前・中津に入国した。

当時の国替えの作法として、出て行く側の大名は年貢を徴収せず、入国する大名の為に年貢を残しておき、入国先で年貢を徴収するのが通例であった。

しかし、黒田長政は、豊前から筑前へ移るさい、国替えの作法を無視して、豊前・中津で年貢を徴収してから、筑前へと移ったのである。

その後、豊前・中津に入国した細川忠興は、黒田長政が年貢を持ち逃げしていたので、豊前で年貢を徴収する事が出来ず、黒田長政の行為を不当として慶長6年(1601年)3月に徳川家康に提訴した。

しかし、徳川家康は江戸幕府を開く前だったので、大名間の問題に立ち入らず、細川忠興に「好きなようにしなさい」と答え、黒田長政の年貢持ち逃げ事件に関知しなかった。

このため、細川忠興は黒田長政に徴収した年貢の返還を求めたが、黒田長政は年貢の返還を拒否した。

これに激怒した細川忠興は、関門海峡に細川水軍を配置し、筑前から大阪へ向かう年貢米を載せた黒田家の船を襲い、力ずくで年貢米を奪い返そうとした。

すると、黒田長政とも細川忠興とも親しい片桐且元と山内一豊が、これに驚いて徳川家康に仲裁を頼み、徳川家康の家臣・榊原康政らが仲裁に入った。

こうして、榊原康政ら仲裁により、黒田長政は豊前で徴収した年貢を期限を定めて分割返済する事を約束し、黒田長政の年貢持ち逃げ事件は一件落着したのであった。

しかし、黒田長政の年貢持ち逃げ事件が原因で、黒田家と細川家は遺恨を残し、細川忠興は家臣に「細川家の家臣は、他の大名の者とすれ違ったとき、相手に無礼があっても、礼儀正しく振る舞わなければならない。しかし、黒田家の者が無礼を働いたときは、この限りではない。もし、黒田家の者に礼儀正しく接するような者は処罰する」と厳命したのであった。

(注釈:上杉景勝も越後から会津に転封になったとき、越後の年貢を徴収してから会津に入った。このため、越後へ入った堀秀治は、越後で年貢が徴収できなかったので、堀秀治の家老・堀直政が激怒して上杉家に抗議したたが、上杉景勝の家臣・直江兼続に「慣習でしかない。年貢を徴収してこなかったのは、堀家の落ち度である」と言い返され、堀家と上杉家は犬猿の仲に成ったという逸話がある。)

■黒田長政の農民逃げだし事件
黒田如水(黒田官兵衛)・黒田長政が豊前から筑前へ移るさい、豊前の農民や商人が大勢、黒田如水(黒田官兵衛)を慕って筑前へと移り住んだ。

かつて、黒田如水(黒田官兵衛)が豊前・中津城へ入部したとき、黒田如水は太閤検地(役人による検地)では無く、指出検地(自己申告)を行い、豪族に石高を低く申請する事を許し、豪族の既得権益を認めて、治安の安定を優先させた。

しかし、見栄張りの黒田長政は、黒田家の格を上げるため、地検を行って大増税したうえ、見栄を張って石高を水増しして、筑前の石高を52万石と申請したのである(黒田長政の粉飾決算事件)。

この結果、福岡藩・黒田家は52万石に相応しい負担を強いられるようになるが、粉飾決算で52万石と申請したので、実態が伴っておらず、苦しい財政を迫られた。

さらに、大増税した黒田長政が新城・福岡城の普請を始めたので、農民の負担は重く、苦しい生活を迫らせた。

一方、豊前の細川忠興は借金したり、茶器などを売ったりして財政を賄い、増税を行わず、農民には優しかったため、筑前の農民が大勢、豊前・細川家へと逃げたのある。

通常は、隣接する大名間で「逃げた農民を返還する」(通称「人返し」)という約束が交わされるのだが、黒田長政は年貢持ち逃げ事件で細川忠興と険悪な関係になっていたため、黒田長政は細川忠興と人返しの取り決めを結ばなかった。

このため、筑前の農民は次々と豊前・細川家へと逃げ込み、細川忠興も逃げてきた農民を追い返さずに受け入れたので、黒田長政は細川忠興に激怒し、黒田家と細川家はさらに仲が険悪となった。

そこで、黒田長政は筑前と豊前の国境に、北から若松城・黒崎城・鷹取山城・大隅城(益富城)・松尾城(小石原城)・麻底良城という6城を築き、豊前の細川忠興に備えると共に、豊前へ逃げる農民を監視した。

なお、黒田長政が見栄を張って石高を水増(粉飾決算)した結果、財政が苦しくなると、高給取りの家老や家臣は邪魔な存在になり、福岡藩の2代目・黒田忠之(黒田長政の長男)はお家騒動「黒田騒動」が起きた事を切っ掛けに減俸や人員整理を行った。

■後藤又兵衛(後藤基次)事件
さて、黒田長政は、筑前と豊前の国境に6城を築くと、6城の1つ大隅城(益富城)に家臣・後藤又兵衛(後藤基次)を入れた。

後藤又兵衛(後藤基次)は「槍の又兵衛」の異名を取り、黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」「黒田八虎」の1人であったが、主君・黒田長政と仲が悪かった。

(注釈:後藤又兵衛の生涯については「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

諸説が有るが、大隅城(益富城)に入った後藤又兵衛(後藤基次)は、黒田家と険悪な関係にある豊前の細川忠興と手紙のやりとりをしていたらしい。

兎にも角にも、大隅城(益富城)に入った後藤又兵衛(後藤基次)は、主君・黒田長政との関係がさらに悪化し、筑前・黒田家を出て浪人となった。

黒田長政は近隣の諸大名に後藤又兵衛(後藤基次)を登用しないように圧力をかけたが、犬猿の仲の細川忠興は黒田長政の圧力を無視して後藤又兵衛(後藤基次)を豊前に招いて召し抱えた。

これに激怒した黒田長政は細川忠興に抗議したが、年貢持ち逃げ事件のお返しとばかりに細川忠興は抗議を無視したので、一触即発という状況にまで発展した。

すると、騒動を知って驚いた江戸幕府が仲裁に乗り出したので、後藤又兵衛(後藤基次)は細川忠興の元を立ち去り、黒田家と細川家の戦争は回避されたが、両国は国境付近を警備するなどして緊張状態が続き、犬猿の仲となった。

しかし、それから、約100年後、筑前・福岡藩の第6代藩主・黒田継高のとき、陸奥・守山藩の藩主・松平頼貞の斡旋により、黒田家と細川家は和睦し、仲直りしたのであった。

なお、黒田長政は「奉公構」という制度を使い、他の大名に「後藤又兵衛(後藤基次)を召し抱えないように」と根回しをして、後藤又兵衛(後藤基次)は他家に使えることができなくして、後藤又兵衛(後藤基次)の再就職を妨害し続けた。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の遺言-最終回と結末のあらすじとネタバレ」へ続く。