徳川家康が激怒-徳川秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻した理由
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「徳川家康が激怒-徳川秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻した理由のあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田長政が黒田如水の家臣・山中市内に激怒した理由のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■徳川家康の出陣
慶長5年(1600年)8月26日、江戸に留まっていた徳川家康は、東軍が岐阜城を攻め落とし、合渡川(木曽川)の戦いにおいて西軍・石田三成らの軍勢を撃破したという知らせを受けると、出陣の日を慶長5年9月1日と定めた。
家臣・石川家成は「9月1日は『西塞がり(にしふさがり)』の悪日です。出陣を2日延期してください」と出陣の延期を求めた。
しかし、徳川家康は「既に西は塞がっておる。私は進軍してそれを開けるのだ」と言い、予定通り、慶長5年9月1日に江戸を発し、慶長5年(1600年)9月11日に清洲城(愛知県清須市)へ入った。
清洲城に入った徳川家康は、いまだ徳川秀忠が率いる3万の軍勢が東軍の先発隊と合流していない事を知り、驚いた。
■徳川秀忠の遅刻
会津討伐(上杉討伐)に向かった東軍の諸将は、慶長5年(1600年)7月25日に栃木県小山市で行われた小山評定の後、西へと転進したが、徳川秀忠は宇都宮(栃木県宇都宮市)に残り、会津の上杉景勝に備えていた。
さて、小山評定により、会津討伐(上杉討伐)に参加した武将の大半はそのまま徳川家康に属して東軍となった。
会津討伐(上杉討伐)に参加していた信濃(長野県)の真田家は、兄・真田信幸はそのまま東軍・徳川家康に属したが、弟・真田昌幸(真田信繁)は西軍に転身して信濃の上田城(長野県上田市)に立て籠った。
(注釈:兄・真田信幸が東軍に属し、弟・真田昌幸が西軍に属したのは、どちらが勝っても真田家が生き残るための戦略とされる。)
そこで、江戸に留まっていた徳川家康は、徳川秀忠に信州討伐を命じた。
このため、宇都宮(栃木県宇都宮市)に留まっていた徳川秀忠は、慶長5年(1600年)8月24日に宇都宮を発して中山道を進み、真田昌幸が籠もる上田城(長野県上田市)を攻めたのである。
ところが、慶長5年(1600年)8月26日、東軍が岐阜城を攻め落とし、合渡川(木曽川)の戦いにおいて西軍・石田三成らの軍勢を撃破したという知らせが、江戸の徳川家康の元に届いた。
報告を受けた徳川家康は、時間に猶予が無いと考え、出陣の日を慶長5年(1600年)9月1日に決めると、徳川秀忠に使者・大久保忠益を送り、信州征伐を中止して、東軍に合流するように命じた。
使者・大久保忠益は慶長5年(1600年)8月29日に江戸を発したが、折からの大雨で利根川が増水しており、足止めされたため、使者・大久保忠益が徳川秀忠の元に到着したのは慶長5年(1600年)9月9日であった。
使者・大久保忠益から命令を聞いた徳川秀忠は、上田城を中止して、慶長5年9月10日に上田を発して赤坂を目指したが、折からの大雨で道はぬかるんでおり、難渋しながらも、昼夜を押して中山道を西進した。
徳川家康の算段では、徳川秀忠は慶長5年9月10日に東軍と合流しているはずであったが、使者・大久保忠益が足止めを食らったため、徳川秀忠は関ヶ原の合戦に間に合わず、徳川秀忠が到着したのは関ヶ原の合戦が終わった後の慶長5年9月20日日であった。
なお、徳川秀忠は上田城攻めに戸惑って関ヶ原の合戦に遅刻したと言われる事が多いが、徳川秀忠が遅刻した理由は使者・大久保忠益が利根川の増水で足止めを食らったためであり、徳川秀忠に過失は無い。
徳川家康は怒って遅刻した徳川秀忠との面会を拒否したが、徳川秀忠の遅刻は利根川の増水が原因なので、徳川秀忠にも、徳川秀忠に従っていた大名にも、使者となった大久保忠益も、処罰されていない。
■徳川家康の着陣
さて、慶長5年(1600年)9月11日に清洲城(愛知県清須市)へ入った徳川家康は、徳川秀忠が東軍に合流していないことに驚き、風邪を引いたという理由で、清洲城に留まり、徳川秀忠の到着を待った。しかし、徳川秀忠が到着する気配は無かった。
そこで、徳川家康は東軍の赤坂陣営から藤堂高虎を呼び寄せて軍議を行った。徳川家康が恐れていたのは、西軍の総大将・毛利輝元が豊臣秀頼を擁立して出陣する事だったとされる。豊臣秀頼が出馬すれば、豊臣恩顧の武将が西軍に寝返る恐れがあったからだ。
軍議の結果、徳川秀忠は3万7000という東軍の主力部隊の1つだったが、徳川家康は時間の方が重要だと考え、徳川秀忠を待たず、慶長5年(1600年)9月12日に清洲城を出発した。
そして、徳川家康は慶長5年9月13日に岐阜城に入り、西軍に悟られぬように岐阜城から大きく迂回して、慶長5年9月14日に東軍が布陣する赤坂に着陣した。
赤坂着陣まで徳川家康は旗を隠して隠密に進軍していたが、赤坂に着陣すると、西軍・石田三成が居る大垣城に向かって徳川家康の旗を立てたと伝わる。
西軍・石田三成は徳川家康の行動を掴んでおらず、突然、赤坂に徳川家康が現れたので、度肝を冷やしたという。
■吉川広家と小早川秀秋
さて、東軍の黒田長政は、西軍の吉川広家と関係が深かったので、使者を送って宮山に布陣する吉川広家から「不参戦」の密約を取っていた。
また、黒田長政は、西軍・小早川秀秋の家老・平岡頼勝と親戚関係にあったので、小早川秀秋から東軍へ寝返る密約を取っていた。
これを聞いた徳川家康は大いに喜び、吉川広家と小早川秀秋の最終交渉を黒田長政に命じた。
徳川家康の命令を受けて自陣に戻った黒田長政は、小身の者を使者に立てようと思い、家臣の中から、南畝源次と恵良盛重の2人を使者に選んだ。
関ヶ原を領土に持つ東軍の大名・竹中重門(竹中半兵衛の子)は、黒田長政と幼馴染みだったので、黒田長政に協力しており、関ヶ原の道に詳しい家臣・富田市兵衛ら2人に、小早川秀秋の陣営へ行く使者・南畝源次らの道案内を命じた。
慶長5年9月14日(関ヶ原の合戦前日)の深夜、黒田長政の使者・南畝源次らは富田市兵衛らの道案内で、松尾山に布陣する小早川秀秋の陣中へ入り、家老・平岡頼勝に密書を渡した。
使者・南畝源次らは裏切りを約束する返書を受け取り、黒田陣営に帰ろうとしたが、敵の大軍に帰り道が塞がれており、どの方向にも進めなかったので、道案内の富田市兵衛ら2人は松尾山へ引き返した。
黒田長政の家臣・南畝源次と恵良盛重はどうすれば良いか悩んだが、「小早川秀秋の返書が無ければ、徳川家康も黒田長政も不安だろう。もし、我々が敵に捕まって小早川秀秋の寝返りが敵に知られたとしても、敵は小早川秀秋の寝返りに警戒して自由に動けなくなるだろう。我々が敵に殺され、返書が敵の手に渡ったとしても、苦に思う必要は無い」と言い、決死の覚悟で敵陣の中を駆け抜けて黒田陣中を目指したのであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「石田三成が関ヶ原へ転陣-島津義弘の夜襲のあらすじとネタバレ」へ続く。
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