石田三成が関ヶ原へ転陣-島津義弘の夜襲

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「石田三成が関ヶ原へ転陣-島津義弘の夜襲のあらすじとネタバレ」です。

このページは「徳川家康が激怒-徳川秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻した理由のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■西軍の状況
西軍・石田三成は、岐阜城で東軍を食い止めるつもりであったが、岐阜城はわずか1日で落城してしまったうえ、岐阜城の援軍に向かった石田三成ら西軍は合渡川(木曽川)の戦いで、東軍・黒田長政らに敗北し、大垣城(岐阜県大垣市)へ逃げ帰った。

西軍の総大将・毛利輝元は一族の毛利秀元・吉川広家・小早川秀秋を前線へ派遣していたが、毛利輝元自身は豊臣秀頼と共に大阪城に留まったままだった。石田三成は毛利輝元に出陣を要請するが、毛利輝元は大阪城から動かなかった。

石田三成は、会津(福島県)の上杉景勝と共謀して徳川家康を挟み撃ちにする作戦だったが、上杉景勝は、小山評定を終えて西進する東軍の背後を突かず、北の最上義光・伊達政宗の連合軍と戦を始めた(東の関ヶ原の戦い)。

また、西軍の別部隊・立花宗茂ら3万の軍勢は、東軍の大津城(滋賀県大津市浜大津)などを攻めている最中で、石田三成らと合流できていなかった。

さらに、西軍・毛利秀元が大垣城の西にある南宮山に着陣したが、南宮山は険しい山だったため、西軍の諸将は「あんな険しい山に布陣して、どうやって戦うつもりなのか」と困惑していた。

そのようななか、慶長5年9月14日(関ヶ原の戦い前日)に突如として、徳川家康が東軍の赤坂陣営に現れたのである。

徳川家康は西軍に気づかれないように旗を隠し、迂回して東軍の赤坂陣営に入ると、西軍・石田三成が籠もる大垣城に向かって一斉に旗を立てたので、徳川家康の動きを掴んでいなかった石田三成は突然、現れた徳川家康に驚いたという。

一方、西軍・小早川秀秋も慶長5年9月14日(関ヶ原の戦い前日)に突如として、城の西にある松尾山(岐阜県関ケ原町)へと兵を進めた。

松尾山には松尾山城があり、西軍・小早川秀秋は松尾山城へ入っていた西軍・伊藤盛正を押し出して、松尾山に布陣したのである。

石田三成は毛利輝元を松尾山城に入れようと考えていた。もし、毛利輝元が動かない場合は、中国地方の毛利勢を松尾山城に入れようと思っていたので、小早川秀秋の行動は、石田三成の予期せぬ事であった。

小早川秀秋は西軍に属して京都・伏見城攻めには加わったものの、その後は病気と称して動かず、不穏な行動を続けていた。このため、西軍の間では「小早川秀秋が東軍に寝返った」という噂も流れていたのである。

寝返りの噂がある小早川秀秋が大垣城の西にある松尾山城(岐阜県関ケ原町)を占領したため、大垣城の石田三成は、北西にある赤坂に布陣する徳川家康と、西にある松尾山城の布陣する小早川秀秋に挟まれた。

しかも、徳川家康も小早川秀秋も慶長5年9月14日(関ヶ原の戦い前日)に行動を起こしたため、西軍・石田三成にしてみれば、徳川家康と小早川秀秋が示し合わせて行動をしたように写ったのである。

■島津義弘の夜襲
慶長5年(1600年)9月14日(関ヶ原の戦い前日)、西軍・石田三成は、徳川家康が赤坂陣営に着陣したことを受け、諸将を集めて軍議を開いた。

このとき、島津義弘が石田三成に「今夜、野郎どもを赤坂(東軍の陣営)に送り、敵陣を焼き払えば、敵は必ず動揺する。そこで夜合戦に持ち込み、一気に敵を討ち滅ぼすべきだ」と提案した。

しかし、石田三成は島津義弘の意見に従わず、「今度の合戦は、我々が勝つことが決まっているので、夜襲は必要ない。東軍の田中吉政が寝返り、我々に味方すると堅く約束してくれた」と反対した。

それでも、島津義弘は「田中吉政の裏切りは心許ない。裏切りの約束は、合戦が始まってみると、実行されないことが多い。敵を陥れるために、裏切りを約束することもある。田中吉政の裏切りを頼りに、明日の戦に勝ったと言うのは愚かである。徳川家康は長旅で着陣したばかりなので、兵士は疲れており、軍法も定まっていない。そのうえ、兵士は陣営を作り、食料も調達できず、疲れ果てて寝入っているだろう。そこへ、大軍をもって夜合戦をしかければ、必ず勝利する事ができる」と主張した。

しかし、石田三成は島津義弘の夜襲を聞き入れず、島津義弘の謀はむなしく終わった。

このため、島津義弘は石田三成に遺恨を持ち、関ヶ原の戦いの本戦では、積極的に戦わず、傍観したとされる(注釈:島津義弘が夜襲を提案したのは、後世の創作という説もある)。

なお、田中吉政は関ヶ原の戦いで西軍には寝返らず、関ヶ原の戦いの後の佐和山城(石田三成の居城)攻めで活躍し、佐和山城から落ち延びて隠れていた石田三成を生け捕りにするなどの活躍をした。

■石田三成が関ヶ原へ転陣
慶長5年9月14日(関ヶ原の戦い前日)の夜は雨が降っていた。西軍・石田三成は軍議の末、大垣城(岐阜県大垣市)を出て、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)に布陣する事を決定した。

西軍が関ヶ原に転陣した理由には諸説あるが、小早川秀秋が松尾山城(岐阜県関ケ原町)に陣取ったため、赤坂に布陣する徳川家康と小早川秀秋に挟み撃ちにされる事を警戒して、関ヶ原に転進したとされる。

(注釈:徳川家康が西軍に「徳川家康が和佐山城を攻める」という嘘の情報を流し、西軍・石田三成は嘘の情報を信じて徳川家康の進路を絶つために関ヶ原に転陣したという逸話は、後世の創作とされている。)

大垣城(岐阜県大垣市)から関ヶ原へ通じる中山道は、北西に陣取る東軍の監視下にあるため、西軍は雨のなか、南方へと大きく迂回し、牧田道を通り、西軍・毛利秀元が布陣する南宮山の南側を経由して、関ヶ原へと進んだ。

そして、西軍・石田三成は慶長5年(1600年)9月14日午後10時に大垣城を出て、9月15日午前1時に関ヶ原に着陣した。

西軍・石田三成は、馬の口を縛り、松明を消して、風雨の中を密かに進んだため、東軍・徳川家康に知られる事無く、関ヶ原へ転陣することに成功したのである。

■小早川秀秋を説得
慶長5年9月15日夜中(午前)、関ヶ原に着陣した石田三成は、関ヶ原の東に位置する南宮山に布陣する西軍の安国寺恵瓊・長束正家の元を訪れ、関ヶ原の戦いの打ち合わせを行った。

その後、石田三成は松尾山城を訪れ、小早川秀秋の家老・平岡頼勝と面会し、「豊臣秀頼が15歳になるまで関白を小早川秀秋に譲る」「筑前の他に播磨一国を与える」などと約束して、西軍への参加を要請した。

しかし、既に小早川秀秋は、東軍の黒田長政を通じて東軍・徳川家康に内応を約束していたのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「関ヶ原の戦いの開戦-井伊直政の抜け駆けと福島正則のあらすじとネタバレ」へ続く。

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