島津義弘の関ヶ原の戦い-島津の退き口と島津の捨て奸

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「島津義弘の関ヶ原の戦い-島津の退き口と島津の捨て奸のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田長政の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■島津の退き口
薩摩の島津家は1万の軍勢を有する大国であったが、関ヶ原の前年(慶長4年)にお家騒動「庄内の乱」が起きた影響で、島津義弘は本国の兵が動かせず、上方に居る手勢200を率いて東軍・徳川家康に属した。

島津義弘は徳川家康の命令を受けて東軍の京都・伏見城へ入ろうとしたが、京都・伏見城を守る徳川家康の家臣・鳥居元忠が島津義弘の入城を拒んだため、島津義弘は仕方なく西軍へと転じた。

(注釈:島津義弘が鳥居元忠に入場を拒否されたのは、後世の創作という説もある。)

また、最初は東軍に属していた小早川秀秋も京都・伏見城に入ろうとしたが、鳥居元忠に入場を拒まれたので、成り行きで西軍に属した。

■島津義弘の関ヶ原の合戦
さて、島津義弘は関ヶ原の戦いのとき、本国から駆けつけた家臣・山田有栄などの軍勢を加えて、1500程度の軍勢になっていた。

慶長5年9月14日(関ヶ原の戦い前日)、東軍の拠点・赤坂に徳川家康が着陣すると、西軍の拠点・大垣城に居る島津義弘は夜襲を提案したが、石田三成は夜襲を却下し、関ヶ原へと転陣した。

慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)、島津義弘は、島津豊久を先陣とし、西軍・石田三成の先手・島左近の南側にある桑畑に陣を敷いた。

慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)午前8時、東軍・井伊直政の抜け駆けして、宇喜多秀家に発砲すると、東軍の先手・福島正則が慌てて宇喜多秀家に突撃し、関ヶ原の戦いが始まった。

東軍の攻撃は、西軍の主力部隊である石田三成と宇喜多秀家の陣営に集中したため、石田三成と宇喜多秀家の間に陣取っていた島津義弘の陣営にはあまり、東軍は攻めてこなかった。

島津義弘は関ヶ原の戦いが始まっても守りに徹して動かず、攻めてきた東軍を鉄砲で追い返すのみであった。

通説では、関ヶ原の戦いの前日に島津義弘が夜襲を提案したが、石田三成が夜襲を却下したため、島津義弘は遺恨に思い、積極的に戦わずに傍観したとされる。

■島津軍が八十島助左衛門に激怒
慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)の午前11時、西軍・石田三成は西軍が優勢と見ると、総攻撃の合図となる狼煙を上げた。

しかし、南宮山に布陣する毛利秀元も、松尾山城に布陣する西軍・小早川秀秋も動かなかった。

慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)の正午、東軍・黒田長政が西軍・石田三成の先手・島左近の軍勢を側面から攻撃して、島左近の軍勢が崩れ始めた。

松尾山城に布陣する西軍・小早川秀秋1万6000は、島左近の軍勢が崩れるのを見て、東軍へ寝返り、一気に東軍が有利になる。

これに驚いた西軍・石田三成は家臣・八十島助左衛門を遣わし、戦を傍観していた島津義弘の先陣・島津豊久に出陣を要請すると、島津豊久は「心得た」と答えた。しかし、島津豊久は動かなかった。

石田三成は再度、家臣・八十島助左衛門を遣わし、島津豊久に出陣を要請したが、八十島助左衛門は馬に乗ったまま島津陣営に入り、馬上から口上を述べたので、これに激怒した島津豊久の家臣が八十島助左衛門に発砲して八十島助左衛門を追い返した。

(注釈:馬の上から口上を述べるのは軍規違反で、無礼な行為であった。)

八十島助左衛門が慌てて石田三成の元に逃げ帰ると、今度は石田三成が単身で島津陣営を訪れ、島津豊久に出陣を要請した。

しかし、島津豊久が「それぞれ、手柄次第に戦うつもりなので、そう心得て下さい」と答えたので、島津家の出陣を諦めた石田三成は「非常に良いことだ」と言って帰陣した。

そして、石田三成が本陣に戻ったとき、既に石田三成の本陣は西軍・黒田長政に攻められ、崩れ始めていたという。

慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)午後2時、西軍の主力部隊・宇喜多秀家1万7000や西軍・小西行長1000も崩れて敗走し、石田三成も本陣が崩れたので、佐和山城へ戻って再起を図るため、関ヶ原から逃げだした。

こうして、黒田如水(黒田官兵衛)が長引くと予想していた天下分け目の決戦は、わずか半日で決着が付いたのである。

関ヶ原の戦いの体勢が決し、西軍・石田三成が敗走すると、西軍・島津義弘は「薩摩勢を5000も連れてきていれば、今日の戦いに勝てたものを」と2度、3度つぶやいた。

■島津の退き口-中央突破
さて、西軍・宇喜多秀家も総崩れとなり、西軍・石田三成も再起を図るために撤退すると、東軍は首級を増やすために、西軍・宇喜多秀家や西軍・石田三成を追撃した。

島津義弘の西には、西軍・宇喜多秀家や石田三成を追撃する東軍が充満しており、既に退路は断たれていた。

島津義弘の南には、東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢が居た。島津義弘の北と東には、東軍の主力部隊が居た。島津義弘は完全に包囲されており、退路はなかった。このとき、島津軍は300人程度になっていたという。

そのようななか、撤退を迫られた島津義弘が「敵は何方が猛勢か」と尋ねると、家臣は「東方の敵がもってのほか猛勢なり」と答えた。

すると、島津義弘は「東方にあい駆けよ」言い、西軍の主力部隊が居る東側に攻め進む事を命じた。

島津軍は、最も勢いのある東の敵を引きつけ、鉄砲を一斉に放つが、敵は大勢なので、後からも続々と攻めてくるため、2発目を放つ余裕は無く、鉄砲を刀に持ち替えて切り込んだ。

敵味方が入り乱れての混戦となり、本陣の島津義弘は、先陣の島津豊久や山田有栄と分断されてしまった。

島津義弘の家臣・木脇休作(木脇祐秀)は、身の丈八尺(2m40cm)の大男で、「薩摩の今弁慶」「薩摩の小弁慶」の異名を持つ一騎当千の武将だった。

木脇休作(木脇祐秀)は混戦のなか、「島津兵庫頭(島津義弘)の小弁慶」と大声を上げて長刀を振るい、数多くの敵を討ち取り、島津義弘の側を守り戦った。

やがて、分断されていた先陣の山田有栄が手勢を率いて島津義弘の救援に駆けつけると、山田有栄は島津義弘の周りを囲って敵陣の中を突き進んだ。

東軍は島津軍に討たれるか、島津軍の殺気に負けて道を空けた。東軍の猛将・福島正則も殺気に満ちた島津軍には手を出さず、島津軍を見送った。島津軍は福島正則の前を「えいとう、えいとう」と声を上げて走り去っていった。

さて、島津軍が東軍の主力部隊を中央突破して南進していると、横側に徳川家康の本陣が見えた。徳川家康は初め、桃配山に布陣していたが、東軍が優勢に転じたので、徳川家康は本陣を前進させ、東から西へと進んでいたのだ。

島津軍は徳川家康の本陣の近くを一気に駆け抜けようとすると、これに気づいた徳川軍の井伊直政・本多忠勝・松平忠吉が、島津軍を追いかけた。

そして、井伊直政の軍勢が島津軍の前に立ちはだかりると、井伊直政は「何をぐずぐずしている。島津兵庫(島津義弘)を討て」と大声で命じた。

すると、島津軍の中から柏木源藤が進み出て、鉄砲を撃つと、弾は井伊直政に当たり、井伊直政は落馬した。

このとき、柏木源藤は、島津義弘の家臣・川上四朗兵衛(川上忠兄)の家人だったので、「川上四朗兵衛(川上忠兄)が討ち取った」と主人の名前を名乗ったため、柏木源藤は出世できなかった。

なお、井伊直政はこの時の鉄砲傷が原因で破傷風となり、2年後の慶長7年(1602年)2月に死亡する。

■島津の捨て奸(すてがまり)
さて、東軍・井伊軍は井伊直政が落馬したので動揺していた。西軍・島津義弘は動揺する井伊軍を中央突破して駆け抜けたが、東軍・本多忠勝と東軍・松平忠吉が執拗に追いかけてきた。

島津家の島津豊久は殿(しんがり=最後尾)を買って出ると、手勢13人を率いて、追撃してくる本多忠勝に立ち向かい、島津豊久と手勢13人は討ち死にした。

さらに本多忠勝などが追撃してくるので、島津家の家老・長寿院盛淳は島津義弘から羽織りを拝領すると、島津義弘の身代わりとなり、島津義弘の名前を名乗って敵陣に向かった。

島津家の家老・長寿院盛淳は奮闘したが、やがて観念すると、「島津義弘は運が尽きて腹を切る。諸将は決して、我が首を取ったなどと広言するな」と大声で叫び、腹を割いて自害した。

このように、家臣が捨て身で敵を食い止め、主人を逃がす時間を稼ぐ作戦を「捨て奸(すてがまり)」と言う。

その後も東軍は西軍・島津軍を追撃したが、井伊直政の落馬、松平忠吉の負傷などもあり、伊勢街道を一里ほど南下した牧田という場所で西軍・島津軍の追撃を諦めて引き返した。

こうして、島津義弘は「捨て奸(すてがまり)」によって、関ヶ原を脱出したが、兵糧にも事欠き、大阪へ到着するまでも、苦労の連続であった。なお、大阪にたどり着いた島津軍は80人程度であったと伝わる。

(注釈:黒田長政も「城井谷の戦い」で負けたとき、家臣6人が黒田長政を逃がすため、時間稼ぎのために敵と戦い、黒田長政を逃がした。黒田長政の捨て奸(すてがまり)については「黒田長政と城井鎮房-城井谷の戦い」をご覧下さい。)

■島津義弘と黒田如水(黒田官兵衛)の戦い
西軍は関ヶ原の戦いで負けたと言えど、大阪城には西軍の総大将・毛利輝元や豊臣秀頼が居り、関ヶ原の本戦に参加できなった別部隊の立花宗茂らも未だ健在であった。

大阪城に集結した諸将は東軍との徹底抗戦を主張したが、西軍の総大将・毛利輝元は、東軍の黒田長政から「本領を安堵する」という約束を取り付けたため、徹底抗戦に反対し、大阪城を徳川家康に明け渡してしまう。

これに激怒した島津義弘や立花宗茂は、大阪城を出て、本国へと帰ることにした。島津義弘は、人質として大阪屋敷に置いていた島津義弘の正室と島津忠恒の正室を回収して、船4艘で本国・薩摩を目指した。

一方、九州では、豊前・中津城の黒田如水(黒田官兵衛)が挙兵して、九州平定に乗り出しており、隣国・豊後にある西軍の富来城(大分県国東市国東町富来浦)を包囲していた。

慶長5年(1600年)9月26日の夜、島津家の船4艘のうち3艘が道に迷って、筑前沖で富来城を包囲している黒田如水(黒田官兵衛)の黒田水軍に遭遇してしまった。

島津家の船2艘は黒田水軍に焼かれ、島津義弘の家臣・伊集院左京などが戦死したが、島津家の船2艘は難を逃れて日向(宮崎県)へと逃延びた。

さて、日向にある飫肥城(宮崎県日南市飫肥)の城主・伊東祐兵は上方で病床にあったので、伊東祐兵の家臣・稲津祐信が黒田如水(黒田官兵衛)と手を組み、宮城城(宮崎県宮崎市)を占領していた。

島津義弘は無事に日向(宮城県)に上陸すると、島津豊久の居城・佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)に入るが、宮城城を占領した稲津祐信が佐土原城へ攻めてくるという噂が聞こえてきたため、島津義弘は早々と佐土原城を立った。

その後、慶長5年(1600年)10月3日に兄・島津龍伯(島津義久)の居城・富隈城(鹿児島県霧島市隼人町)へ入ったが、兄・島津龍伯(島津義久)に「石田三成の暴挙に従うのは、武士の恥である」と叱責されてしまった。

その後、島津家は徳川家康から再三にわたり上洛を要請されたが、「本領安堵の証文が無ければ上洛しない」と言って上洛を拒否し続けた。

一方、東軍の黒田如水(黒田官兵衛)は、肥後・熊本城の加藤清正や肥前・佐賀城(佐賀県佐賀市)の城主・鍋島直茂を従えて、ほぼ九州を統一していた。

大阪城から戻ってきた柳川城の城主・立花宗茂は、黒田如水(黒田官兵衛)連合軍に抵抗したが、西軍・立花宗茂も終いには降伏し、九州に残す敵は西軍・島津家だけとなっていた。

そして、黒田如水(黒田官兵衛)連合軍は肥後(熊本県)と薩摩(鹿児島県)の境にある水股(熊本県水俣市)まで迫り、島津家は風然の灯火となっていた。

すると、島津龍伯(島津義久)は黒田如水(黒田官兵衛)に「弟・島津義弘が大阪方に投じて徳川家康に敵対したことは、私の与り知らないことである。ただ今、徳川家康に謝罪し、井伊直政に恩赦の斡旋を頼んでいるところでなので、薩摩へ攻めるのを先延ばしして欲しい」と頼んでだので、黒田如水(黒田官兵衛)はこれを了承し、島津征伐を待った。

このころ、東軍に属した諸将の間でも島津家を擁護する声も出始めたため、徳川家康は島津家の領土を安堵し、黒田如水(黒田官兵衛)に停戦を命じた。

徳川家康の要請に応じて上洛した西軍の大名は、徳川家康に難癖を付けられて改易されたが、島津家は本国・薩摩に引き籠もって上洛を拒否し続けたので、本領を安堵され、生き延びたのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「関ヶ原の戦いの後-石田三成の滅亡のあらすじとネタバレ」へ続く。

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