細川ガラシャと明智光秀のあらすじとネタバレ

NHK大河ドラマでもお馴染みの明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生涯を実話で紹介する「実話・細川ガラシャ婦人の生涯のあらすじとネタバレ」の「細川ガラシャと明智光秀のあらすじとネタバレ」です。

実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■細川ガラシャと明智光秀
明智珠(細川ガラシャ)は、永禄6年(1563年)に越前で、明智光秀の3女(4女という説もある)として生まれた。明智珠(細川ガラシャ)の誕生日は不明である。母親は、妻木範熙の娘・妻木煕子である。

父・明智光秀は、美濃(岐阜県)の豪族・土岐氏の一族・明智氏の出身とされ、明智光秀の父・明智光綱は明智城の城主で、美濃(岐阜県)の斎藤道三に仕えていたとされる。

(注釈:明智光秀は土岐氏の一族で、明智城の城主というのが通説ですが、明智光秀の前半期は不明な点が多く、明智光秀の行動が明らかになっいるのは、織田信長に仕えるようになってからです。)

しかし、弘治2年(1556年)に美濃(岐阜県)の斉藤家でお家騒動があり、長男・斎藤義龍が父・斎藤道三を討ち、斉藤家を乗っ取った。

このとき、明智城は斎藤道三を討った斎藤義龍に攻め滅ぼされ、明智光秀は越前(福井県)の朝倉義景を頼り、朝倉義景に使えるようになった。

細川ガラシャ(明智珠)が生まれたのは永禄6年(1563年)で、父・明智光秀が越前の朝倉義景に仕えていた時期である。

朝倉義景に仕えていた父・明智光秀は、あまり重用はされず、非常に貧しい生活をしていた。その後、朝倉義景の元を離れて、織田信長に使えるようになり、台頭していった。

一方、細川ガラシャ(明智珠)の義父となる細川藤孝(夫・細川忠興の父)は、室町幕府の13代将軍・足利義輝の側近であった。

しかし、永禄8年(1565年)、室町幕府の13代将軍・足利義輝が、三好三兄弟や松永久秀らに襲撃されて討ち死にすると、細川藤孝ら側近は足利義輝の弟・足利義昭(後の15代将軍)を連れて京都から脱出した(永禄の変)。

そして、細川藤孝ら側近は、出家していた足利義昭を下俗させ、各大名に上洛を求め、足利義昭の将軍就任に奔走した。

やがて、足利義昭は越前(福井県)の朝倉義景を頼り、朝倉義景の元に身を寄せた。そして、足利義昭は朝倉義景に上洛を求めたが、朝倉義景は上洛に応じなかった。

このころ、永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いで今川義元を撃破した織田信長は、永禄10年(1567年)に美濃の斎藤家を滅ぼし、稲葉山城下の井之口を「岐阜」と改名して、天下布武を掲げていた。

そこで、越前(福井県)の朝倉義景に上洛を拒否された足利義昭は、織田信長を頼り、細川藤孝と和田惟政を織田信長に派遣した。

このとき、細川藤孝らを取り次いだのが、織田信長の家臣・明智光秀であった。細川藤孝は明智光秀の助言を受けて、足利義昭と織田信長の間を取り持った。

その結果、永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛して14代将軍・足利義栄を排除し、足利義昭は室町幕府の15代将軍に就任したのである。

さて、明智光秀は官僚として織田信長に仕えていたが、織田家は浅井・朝倉攻めの影響で人材不足になると、明智光秀は戦争へ参加するようになった。

明智光秀は織田信長に似た残忍性や攻撃性を持っていたとされ、戦場でも大きな功績を挙げた。明智光秀は、比叡山の焼き討ちで活躍し、近江国の滋賀郡(5万石)を拝領して、坂本城(滋賀県大津市)を築いた。

坂本城(滋賀県大津市)は、京都と岐阜(織田信長の拠点)を繋ぐ要所で、琵琶湖や本願寺や京都を監視する役割があり、明智光秀は織田信長に重要されていた。明智光秀の坂本城は、織田信長の安土城に次いで豪華な城だったと伝わる。

また、明智光秀は戦争で活躍する一方で、官僚としては、京都の商人から税金を徴収する重責を果たし、織田信長の重臣に加わっていた。

なお、明智光秀は織田信長に重用されていたが、明智光秀は新参者(中途採用)だったうえ、残忍だったため、諸将からは嫌われていたという。

さて、足利義昭は織田信長の庇護を受けて15代将軍に就任したが、次第に織田信長と対立していく。

すると、足利義昭の腹心だった細川藤孝は、足利義昭の元を離れて織田信長に仕えた。こうして、細川藤孝は織田信長の家臣となり、近畿各地の戦いで活躍した。

実話・細川ガラシャ(明智珠)の生涯のあらすじとネタバレの「細川ガラシャが細川忠興と結婚したあらすじとネタバレ」へ続く。

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