本能寺の変と細川ガラシャの幽閉

NHK大河ドラマでもお馴染みの明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生涯を実話で紹介する「実話・細川ガラシャ婦人の生涯のあらすじとネタバレ」の「本能寺の変と細川ガラシャの幽閉のあらすじとネタバレ」です。

このページは「細川ガラシャが細川忠興と結婚したあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■細川ガラシャが宮津城へ引っ越す
織田信長の家臣となった明智光秀は、天正7年(1579年)に丹波(京都府中央部など)を平定し、天正8年(1580年)に丹波を拝領するとともに、近畿方面の総司令官に任命された。

一方、織田信長の家臣となった細川藤孝は、天正8年(1580年)に明智光秀の助けを得て、丹後(京都府北部)南部を平定し、織田信長から丹後を拝領した。

しかし、丹後の北部には、丹後の旧領主・一色義清が依然として勢力を誇っていた。

そこで、明智光秀の助言により、細川藤孝は娘を一色義清と結婚させて、一色氏と和議を結び、丹後の北部3郡を一色氏が支配し、丹後の南部2郡を細川藤孝が統治した。

こうして、細川忠興は丹後の大名となり、細川藤孝・細川忠興親子と明智珠(細川ガラシャ)は、天正8年(1580年)8月に勝竜寺城から八幡山城へと移った。

ただ、八幡山城は山城で不便だったため、細川忠興は宮津城(京都府宮津市)を築いて宮津城を居城とし、宮津城を丹後の拠点と定め、明智珠(細川ガラシャ)も宮津城へと移った。

■細川ガラシャと本能寺の変
一方、織田信長と徳川家康の連合軍は、天正3年(1575年)5月に「長篠の戦い」で甲斐の武田勝頼を撃破し、天正10年(1582年)に甲斐の武田家を攻め滅ぼした。

天正10年(1582年)5月、武田家を滅ぼした織田信長は、徳川家康を安土城に招き、明智光秀に徳川家康の接待を命じた。

そのとき、織田信長の家臣・羽柴秀吉は、軍師・黒田官兵衛の献策を受けて、毛利勢の備中・高松城を水攻めにしており、同時に毛利輝元の大軍と対峙していた。そこで、羽柴秀吉は織田信長に援軍を要請したのである。

羽柴秀吉から援軍の要請を受けた織田信長は、中国親征を決定すると、徳川家康の接待を務めていた明智光秀を接待役から解任し、明智光秀に羽柴秀吉の援軍を命じた。

天正10年(1582年)6月、援軍を命じられた明智光秀は、居城・坂本城へ戻り、軍備を整えると、羽柴秀吉の援軍には向かわず、織田信長が宿泊する京都・本能寺を取り囲み、織田信長を討ったのである(本能寺の変)。

(注釈:明智光秀の本能寺の変のあらすじとネタバレ、実話・黒田官兵衛の、「実話-本能寺の変のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

織田信長を討った明智光秀は、織田信長の居城・安土城を占領して近江(滋賀県)を制圧し、天下を治めるため、朝廷へ献金を行い、京都へと入った。

その一方で、明智光秀は諸大名に上洛を求めた。

しかし、明智光秀は織田信長の首を取っておらず、天下に織田信長の首を示せなかったため、わずかに明智光秀に味方する大名は居たが、ほとんどの大名は明智光秀の要請に応じず、成り行きを見ていた。

また、明智光秀は、キリスト教(イエズス会)の宣教師パードレ・オルガンティーノに、キリシタン大名の勧誘を命じた。

(注釈1:宣教師パードレ・オルガンティーノは、後に細川ガラシャを導く事になる重要な人物です。)

(注釈2:パードレは名前ではなく、階級名です。司祭をパードレと呼び、司祭職より下の修道士をイルマンと呼びます。)

明智光秀から依頼を受けた宣教師パードレ・オルガンティーノは、明智光秀らに読まれても問題がないように日本語で「明智光秀に味方するように」という手紙を書いたが、その一方で、キリシタン大名だけが読めるようにポルトガル語で「磔にされても明智光秀に味方してはいけない」という手紙を書いた。

こうして、宣教師パードレ・オルガンティーノは、日本語とポルトガル語の2通の手紙をキリシタン大名に送り、キリシタン大名に明智光秀に加担する事を禁じたので、明智光秀はキリシタン大名からも協力を得られなかった。

■明智珠(細川ガラシャ)を幽閉
天正10年(1582年)6月、明智光秀が京都・本能寺で主君・織田信長を討ち取ったため、明智光秀の三女・明智珠(細川ガラシャ)は1夜にして謀反人の娘となった。

これに困ったのが、丹後の細川家である。細川藤孝の嫡男・細川忠興が、織田信長の勧めによって明智珠(細川ガラシャ)と結婚しており、細川家は一夜にして謀反人の親戚となったのである。

織田信長を討った明智光秀は、「100日のうちに近畿を平定したら、私は隠居して全てを細川忠興に譲る」と言い、細川藤孝に協力を求めたが、細川藤孝は明智光秀の要請を拒絶し、剃髪して名を「細川幽斎」と改め、家督を嫡男・細川忠興に譲って隠居した。

細川忠興は激怒して明智光秀の使者を斬り殺そうとしたが、父・細川藤孝(細川幽斎)に「使者に罪は無い」と諫められ、明智光秀の使者を見逃した。

その後、細川忠興は「御身の父親は主君(織田信長)の敵なれば、同室叶うべからず」と言い、正室・明智珠(細川ガラシャ)に離縁を言い渡して、明智珠(細川ガラシャ)を丹後国の味土野(京都府京丹後市弥栄町)という山奥へ流し、味土野で幽閉したのである。

こうして、明智珠(細川ガラシャ)は約2年間、味土野で幽閉生活を送ることになる。明智珠(細川ガラシャ)が丹後国の味土野に幽閉されたのは、明智珠(細川ガラシャ)が20歳のことであった。

(注釈:明智珠は絶世の美女で、細川忠興は正室・明智珠を異常なまでに愛しており、明智珠を救うために味土野に幽閉したという説もある。)

なお、キリスト教の知識を持つ侍女頭「清原いと(後の清原マリア)」が、幽閉された明智珠(細川ガラシャ)に付き従ったと言う説があるが、この説には否定派も居る。

■明智光秀の最期
天正10年(1582年)6月、謀反を起こして主君・織田信長を討った明智光秀は、わずかに味方する大名はいたものの、親しかった細川藤孝や筒井順慶からも協力を得られず、明智光秀は孤立した。

そこへ、備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉が、毛利輝元と和睦し、わずか10日間で備中から京都へと戻ってきたのである(羽柴秀吉の中国大返し)。

羽柴秀吉の行動を予期していなかった明智光秀は、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で羽柴秀吉を迎え撃ったが、明智光秀は羽柴秀吉の軍に敗れ、勝竜寺城に逃げだ(天王山の戦い-山崎の戦い)。

勝竜寺城は羽柴秀吉に包囲され、明智光秀は闇に紛れて勝竜寺城を抜け出したが、坂本城へ帰る途中で落ち武者狩りに遭い、死んだ(明智光秀の最期)。

実話・細川ガラシャ(明智珠)の生涯のあらすじとネタバレの「細川ガラシャが幽閉を解かれるあらすじとネタバレ」へ続く。

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