細川ガラシャと石田三成の関ヶ原の戦い

NHK大河ドラマに登場する明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生涯を実話で紹介する「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」の「細川ガラシャと石田三成の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「細川ガラシャと日本26聖人の殉教のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■石田三成の挙兵と細川ガラシャ
慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去すると、朝鮮半島へ侵攻していた日本軍は帰国し、2度に渡る朝鮮出兵(唐入り)は、豊臣秀吉の死によって終結した。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権は、5大老・5奉行によって運営されるようになり、関東の徳川家康が筆頭となった。徳川家康に対抗できるのは、加賀の前田利家だけで、前田利家が病死すると、徳川家康に対抗できる大名は居なくなった。

さて、前田利家が揉め事の仲裁役を務めていたが、前田利家が死ぬと、仲裁役が居なくなり、豊臣秀吉時代から内在していた軋轢が表面化する。

そして、前田利家の死後、黒田長政・加藤清正・福島正則などの武断派の7将が、朝鮮出兵の時に讒訴された遺恨から、朝鮮軍事奉行を務めた石田三成を襲撃した(石田三成襲撃事件)。

しかし、徳川家康が石田三成襲撃事件の仲裁に乗り出し、黒田長政ら武断派の7将は矛を収めた。一方、石田三成は徳川家康から隠居を勧告されたため、隠居して居城の佐和山城へと引き籠もり、豊臣政権から退いた。

そして、隠居した石田三成は、会津(福島県)の大名・上杉景勝と語らい、徳川家康を討つ準備を始めた。

その後、徳川家康は、会津(福島県)の大名・上杉景勝に謀反の兆しありと報告を受け、慶長5年(1600年)6月に上杉討伐(会津討伐)を発令し、諸将を伴って関東へと兵を進めた。

こうして、近畿から徳川家康派の勢力が居なくなると、佐和山城で隠居していた石田三成は慶長5年(1600年)7月、中国の毛利輝元を総大将にして挙兵したのである。

■細川ガラシャと関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)6月、丹後の大名・細川忠興は徳川家康派だったので、徳川家康の上杉討伐(会津討伐)を発令すると、細川忠興も兵を率いて関東へと向かった。

豊臣秀吉の時代から、各大名は大阪に屋敷を持ち、大名の妻子を大阪の屋敷に住まわせる決まりになっており、大名の妻子は人質であった。

細川忠興は大阪城の南にある玉造という場所に細川屋敷を作っており、妻の細川ガラシャや長男・細川忠隆の正室・前田千世(前田利家の娘)を住まわせていた。

そこで、上杉討伐(会津討伐)に加わる細川忠興は、小笠原秀清(小笠原少斎)・稲富直家・河北石見など数名の家臣を玉造・細川屋敷の警護に残し、小笠原秀清(小笠原少斎)らに「細川ガラシャ(明智珠)の名誉に危険が生じるようなことがあれば、細川ガラシャを殺して、みなも自害するように」と命じて、関東へ向かった。

慶長5年(1600年)7月12日、石田三成が大阪の屋敷に残っている妻子を人質に取るという噂が聞こえて来たので、細川ガラシャ(明智珠)は「石田三成は夫・細川忠興と仲が悪いので、人質を取るときは、最初にここへ来るでしょう。そのとき、どのように対応するのか決めておきなさい」と言い、玉造・細川屋敷で留守を守る家老・小笠原秀清(小笠原少斎)らに協議させた。

小笠原秀清(小笠原少斎)らは協議の結果、細川ガラシャ(明智珠)に「使者が来れば『長男・細川興元と次男・細川興秋は東に出陣しており、三男・細川忠利は江戸の人質になっています。ここには人質になる者が1人も居ません』と答えます。それでも人質を出せと要求されれば、『丹後の細川幽斎(細川藤孝)に使者を送り、細川幽斎に人質になってもらうか、もしくは何かの指図を扇ぎますので、それまで待って下さい』と答えます」と報告した。

それを聞いた細川ガラシャは、「では、そのようにいたしなさい」と答えたので、小笠原秀清(小笠原少斎)は上杉討伐(会津討伐)で東に出陣している細川忠興に手紙で報告した。

さて、慶長5年(1600年)7月、徳川家康の留守を突いて大阪城で挙兵した石田三成は、「諸大名の人質を取れば、味方になる大名の出てくるだろう」と思い、徳川家康の罪を糾弾する「内府ちかひ(違い)の条々」を発表するに先だって、徳川家康に属して上杉討伐(会津討伐)に向かった大名の妻子を人質に取ることにした。

石田三成は細川忠興と仲が悪かったので、石田三成は最初に細川忠興から人質を取って鬱憤を晴らそうと考えた。

ただ、最初の人質はその後の人質に大きな影響を与えるため、石田三成は細川家に仕えていた事のある「ちやうこん」という名前の比丘尼(びくに=尼僧)を玉造の細川屋敷に派遣し、内々に人質として大阪城の本丸へ入るように要請した。

しかし、細川ガラシャ(明智珠)は人質要請に応じなかったので、比丘尼は帰った。

ところが、比丘尼は再び細川屋敷を訪れ、今度は細川ガラシャ(明智珠)に西軍・宇喜多秀家(宇喜多八郎)の屋敷へ移って欲しいと頼んだ。

長男・細川忠隆の正室は宇喜多秀家の娘で、細川家と宇喜多家は親戚にあたり、親戚の家に移るのであれば、世間は人質とは思わず、細川家の面目も立つというのである。

しかし、細川ガラシャ(明智珠)は「宇喜多秀家は石田三成の一味と聞いております。宇喜多秀家の屋敷に移るのは、石田三成の人質になるのと同じです」と言い、受け入れなかった。

こうして、石田三成は内々に細川ガラシャを人質に取ることを諦め、慶長5年(1600年)7月17日に正式な使者を派遣し、細川ガラシャに人質を要求する事になる。

実話・細川ガラシャ(明智珠)の生涯のあらすじとネタバレの「実話・細川ガラシャが自害した当日のあらすじとネタバレ」へ続く。

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