実話・細川ガラシャの自害のあらすじとネタバレ
NHK大河ドラマに登場する明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生涯を実話で紹介する「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」の「実話・細川ガラシャの自害のあらすじとネタバレ」です。
このページは「細川ガラシャと石田三成の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。
■細川ガラシャの自害当日
慶長5年(1600年)7月12日、石田三成は、細川家に仕えていた事のある比丘尼(びくに=尼僧)を2度にわたり、細川屋敷へ派遣し、細川忠興の正室・細川ガラシャを内々に人質にしようとした。
しかし、細川ガラシャは人質になる事を拒否したので、石田三成は内々に細川ガラシャを人質にする事を諦め、正式な使者を派遣して、細川ガラシャを人質にとることにした。
慶長5年(1600年)7月17日、石田三成は玉造の細川屋敷に使者を派遣し、正式に細川ガラシャを人質に出すように要求した。
細川屋敷の留守を任されている家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は、石田三成の使者に「細川屋敷は大阪城から遠くありません。そのままにしておいてください」と拒否した。
しかし、石田三成から再三にわたり使者が来て「是非是非、人質を出したまえ。さもなければ、押しかけて人質を取るぞ」と圧力を掛けてきたので、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は「あまりの申しようだ。このうえは切腹して申し開きをする」と言って使者を追い返し、細川家の家臣一同は切腹を覚悟した。
これを聞いた細川ガラシャは、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)に「大阪城に入って恥をさらす事はなりません。次ぎに使者がきたら、速やかに自害します」と告げた。
家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は「丹後へ逃げてください」と頼んだが、細川ガラシャは「夫・細川忠興は逃げる事を許しません。出陣前に言い残されたので、私が屋敷から1歩も出る事はありません」と答えた。
すると、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は泣きながら、「私も主・細川忠興から、『細川ガラシャ(明智珠)の名誉に危険が生じるようなことがあれば、細川ガラシャを殺して、みなも自害するように』と命じられています。一方を打ち破って丹後へ逃れる事は簡単ですが、細川ガラシャ様(明智珠)がそのように決断したのなら、私もお供いたします」と答えた。
すると、細川ガラシャ(明智珠)は、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)に「まことに敵が押しかけてきたならば、小笠原秀清(小笠原少斎)は奥の間に来て、私を介錯するように」と命じた。
長男・細川忠隆の正室・前田千世(前田利家の娘)も細川ガラシャに同調して自害を決断したので、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は2人を介錯する事を約束した。
■細川ガラシャの自害の当日
慶長5年(1600年)7月17日夜、石田三成は細川ガラシャを力ずくで人質に取るため、大阪・玉造の細川屋敷に兵を派遣し、玉造・細川屋敷を取り囲んだ。
細川屋敷の留守を任された小笠原秀清(小笠原少斎)と稲富直家と河北石見の3人は、敵が来た時の対応を協議しており、稲富直家が表で敵を防ぎ、敵が屋敷内に入ってくるような事があれば、小笠原秀清(小笠原少斎)が細川ガラシャを介錯する手はずになっていた。
一方、熱心なクリスチャンである細川ガラシャは、キリスト教が自殺を禁止していたため、自害が自殺にあたるのかどうかで悩み、大阪に潜伏している宣教師パードレ・オルガンティーノに手紙を出して、悩みを相談していた。
(注釈:司祭オルガンティーノは細川ガラシャに洗礼を与える決断をした人物で、離婚したいという細川ガラシャにキリスト教の教えを説いて、離婚を思いとどまらせた。司祭オルガンティーノは、それ以降、細川ガラシャの為に大阪に潜伏し、細川ガラシャを導いていた。)
宣教師パードレ・オルガンティーノが細川ガラシャの悩みに対してどのように答えたのかは不明だが、細川ガラシャは宣教師パードレ・オルガンティーノの言葉を聞くと、安心して自害する事を決断し、自害の当日は極めて心穏やに礼拝堂で祈りを捧げていた。
他方、長男・細川忠隆の正室・前田千世は、姉・前田豪から「宇喜多屋敷へ逃げて来なさい」と誘われていた。
正室・前田千世の姉・前田豪は、宇喜多秀家の正室で、宇喜多秀家の屋敷は細川屋敷の隣にあった。
姉・前田豪は、石田三成の兵が細川屋敷を取り囲んだ事を知ると、細川屋敷に使者を送り、妹・前田千世に「宇喜多屋敷へ逃げてきなさい」と勧めた。
前田千世は細川ガラシャと一緒に自害する決意をしていたが、姉・前田豪が逃がしてくれるというので、細川ガラシャに「一緒に宇喜多屋敷へ逃げましょう」と誘った。
しかし、細川ガラシャは夫・細川忠興の言いつけがあるので同心せず、前田千世に「1人で逃げなさい」と命じたのである。
このため、前田千世は下人に扮装して、1人で宇喜多屋敷へと逃れ、その後、実家の前田家へと戻った。
(注釈:細川ガラシャは前田千世と一緒に自害しようとして、前田千世の部屋に使いを送ったが、前田千世は勝手に1人で逃げていた、という説もある。)
■細川ガラシャの自害
そのようななか、事前の取り決めの通り、細川忠興の家臣・稲富直家は表門で石田三成の手勢を防いでいたが、稲富直家が途中で石田三成側に寝返ってしまったのである。
稲富直家は鉄砲の名人で、元々は丹後の領主・一色義清(一色五郎)の家臣だったが、本能寺の変の後に細川忠興が一色義清(一色五郎)を滅ぼしたさい、稲富直家は鉄砲の腕を買われて、細川忠興の家臣となり、細川屋敷の警護を任されていた。
稲富直家が敵に寝返ったという知らせを聞いた小笠原秀清(小笠原少斎)は、鉄砲の名人が相手では分が悪いと思い、急いで細川ガラシャの元を訪れ、細川ガラシャに「今が最期にございます」と告げた。
それを聞いた細川ガラシャは、礼拝堂での祈りを終え、奥の部屋で自害する準備を始めた。
さて、細川ガラシャの侍女は、細川ガラシャを敬愛していたので、細川ガラシャと一緒に死ぬことを望んだが、細川ガラシャは「細川忠興の言いつけ通り、1人で死にます」と言い、侍女の自害を禁じ、侍女を玉造の細川屋敷から逃がした。
このとき、侍女「霜」と侍女「をく(おく)」は細川ガラシャと一緒に死ぬ事を強く望んだが、細川ガラシャは「夫・細川忠興や長男・細川忠隆は、私の最期を知りたいでしょう」と諭し、侍女「霜」に遺書や形見の品を託して玉造の細川屋敷から逃がした。
そして、細川ガラシャが奥の部屋に入り、髪をキリキリと巻き上げて首を露わにすると、障子を隔てて部屋の外に居る小笠原秀清(小笠原少斎)は「そうではございません」と告げた。
細川ガラシャは心得たりとして、胸元を開くと、小笠原秀清(小笠原少斎)は「もう少し、こちらへお寄り下さい」と告げた。
細川ガラシャが障子の側へ行き、胸元を開くと、小笠原秀清(小笠原少斎)は手にしていた長刀で、障子越しに細川ガラシャの胸を突いて殺した。
(注釈:奥の部屋に入った細川ガラシャは、髪をキリキリと巻き上げて首を露わにし、ゼウスとマリアの名前を繰り返し唱えると、小笠原秀清[小笠原少斎]は心得たりとして、長刀で細川ガラシャの首を切り落とした、という説もある。)
このとき、細川ガラシャは自刃して、小笠原秀清(小笠原少斎)に介錯させたとも、キリスト教は自殺を禁止しているため、キリシタンの細川ガラシャは自刃せず、小笠原秀清(小笠原少斎)に介錯させたとも伝わる。
また、小笠原秀清(小笠原少斎)は介錯したのではなく、胸を突いて殺したという伝承や、長刀ではなく、槍で胸を突いたという伝承もある。
なお、細川ガラシャが子供を殺した後に自害したという説があるが、細川ガラシャが子供を殺して自害した事を裏付ける資料は見つかっていない。
こうして、細川ガラシャは夫・細川忠興の名誉を守り、細川家のために壮絶な最期を迎えた。細川ガラシャが死んだのは慶長5年(1600年)7月17日、細川ガラシャが38歳の時の出来事であった。
細川ガラシャの辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」であった。
■細川ガラシャの死後
小笠原秀清(小笠原少斎)らは屋敷中に火薬を巻いており、小笠原秀清(小笠原少斎)は細川ガラシャを殺すと、細川ガラシャの死体に着物を掛け、その上に大量の火薬を撒いた。これは細川ガラシャの遺体を残さないためだとされている。
そして、小笠原秀清(小笠原少斎)や家臣は、細川ガラシャと同じ部屋で死ぬ事を遠慮して、別室へ行き、屋敷に火を放つと同時に全員が切腹して自害した。
こうして、細川ガラシャは壮絶な最期を迎え、玉造にある細川屋敷は大炎上したのであった。
石田三成は、徳川家康に味方している池田輝政・藤堂高虎ら数人の妻子を人質に取り、大阪城の本丸に入れていたが、細川ガラシャの死を受けて、人質を取ることを諦め、人質に取っていた妻子を解放した。
さて、石田三成は大名の妻子が大阪から逃げ出せないように、各地に関所を設置していたが、関所に居た兵は大阪城の方角(細川屋敷)に火の手が上がったため、様子を見に行った。
こうして、細川屋敷の火災により、関所の警備が一時的に弱まったので、黒田長政と加藤清正の家臣は、関所の警備が弱まった隙を突き、黒田長政と加藤清正の正室を連れて本国へと逃げ帰った。
その後、石田三成は細川忠興を改易し、細川忠興の領地を西軍の諸大名に与えたため、細川忠興の領土は西軍の侵攻を受けた。
実話・細川ガラシャ(明智珠)の生涯のあらすじとネタバレの「細川ガラシャの死後、細川忠隆の廃嫡事件のあらすじとネタバレ」へ続く。
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