細川ガラシャの死後、細川忠隆の廃嫡事件

NHK大河ドラマに登場する明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生涯を実話で紹介する「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」の「細川ガラシャの死後、細川忠隆の廃嫡事件のあらすじとネタバレ」です。

このページは「実話・細川ガラシャの自害のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■細川ガラシャの死後
慶長5年(1600年)7月17日、細川ガラシャが玉造にある細川屋敷で自害すると、大阪に潜伏している宣教師パードレ・オルガンティーノはその数時間後に、キリシタンの女性に細川ガラシャの骨を拾いに行かせた。

細川屋敷の警備を担当していた家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は、屋敷中に火薬を撒いて火を放ったため、細川ガラシャの遺体は残っていなかったが、わずかに骨が焼け残っていたので、キリシタンの女性は細川ガラシャの骨を拾って持ち帰った。

宣教師パードレ・オルガンティーノは細川ガラシャの骨を受け取ると大いに悲しみ、教会で細川ガラシャの葬儀と埋葬を行った。

(注釈:宣教師パードレ・オルガンティーノは、清原マリアを通じて細川ガラシャに洗礼を与えた司祭で、細川ガラシャに離婚を思いとどまらせた。宣教師パードレ・オルガンティーノは細川ガラシャのために大阪に潜伏していたが、細川ガラシャは外出が禁じられていたので、宣教師パードレ・オルガンティーノに会うことは出来なかった。)

細川ガラシャは、豊臣秀吉がキリシタン追放令を発令して以降、キリスト教の為に殉教する事を強く望んでいたが、細川ガラシャは細川家の名誉のために自害したので、キリスト教のために死んだ「殉教者」には数えられなかった。

(注釈:細川ガラシャはキリシタンとして有名だが、あくまでも細川家の為に死んだので、キリスト教は細川ガラシャを「殉教者」や「聖人」には認定しなかった。)

しかし、宣教師パードレ・オルガンティーノは、細川家のために死んだ細川ガラシャに殉教者と同等の敬意を表し、細川ガラシャの死を賞賛した。

夫・細川忠興は、細川ガラシャの死後、教会が細川ガラシャの死を高く評価したことに感謝し、キリスト教への理解を示した。

このため、細川ガラシャの1周忌は、夫・細川忠興の希望により、キリスト教形式で行われた。ただし、細川忠興がキリスト教に入信することはなかった。

■黒田長政と加藤清正と細川ガラシャ
徳川家康に属して上杉討伐(会津討伐)に加わった黒田長政と加藤清正の2人は、大阪屋敷の留守を務める家臣に、「妻子を連れて本国へ逃げろ。逃げられない場合は、妻子を殺して自害しろ」と指示を与え、上杉討伐(会津討伐)へ向かった。

このため、黒田長政の家臣も加藤清正の家臣も、主君の妻子を逃がす準備を整え、大阪から逃げだす機会を狙っていた。

しかし、石田三成は、大阪から大名の妻子が逃げ出さないように各地に関所を設けていたため、黒田長政の家臣も加藤清正の家臣も、大阪から出ることが出来なかった。

そのようななか、細川忠興の正室・細川ガラシャが、慶長5年(1600年)7月17日に玉造の細川屋敷で自害したのである。

細川ガラシャが自害した玉造にある細川屋敷は、大阪城の直ぐ南にあり、玉造の細川屋敷は細川ガラシャの自害後、家臣・小笠原秀清(小笠原少斎)らは屋敷中に火薬を撒き、火を放って自害したので、細川屋敷は炎上した。

関所には大勢の兵が居たが、大阪城の近く(玉造の細川屋敷)で火の手が上がったので、大勢の兵が火事の様子を見に行ったため、関所は手薄となった。

黒田長政の家臣も加藤清正の家臣は、この隙に大阪から脱出し、主君の妻子を本国へ連れ帰ることに成功したのである。

(注釈:黒田家の大阪脱出については、実話・黒田官兵衛の「母里太兵衛と栗山四郎右衛門(栗山善助)が天満屋敷を脱出したあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

■関ヶ原の戦いへの影響
徳川家康は慶長5年(1600年)6月に上杉討伐(会津討伐)を発動し、丹後の大名・細川忠興も徳川家康に従軍して、関東へと下向した。

石田三成は、近畿から徳川家康の勢力が居なくなった隙を突き、慶長5年(1600年)7月に大阪で挙兵した。

そして、石田三成は、徳川家康に従って上杉討伐(会津討伐)に参加した大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川ガラシャは石田三成の要請を拒否し、慶長5年(1600年)7月17日に玉造の細川屋敷で自害した。

石田三成は細川ガラシャの死によって、大名の妻子を人質に取ることを諦め、既に人質に取っていた東軍・池田輝政や藤堂高虎の妻子を解放した。

さて、細川ガラシャが自害した日(慶長5年7月17日)、夫・細川忠興は関東に駐留していた。

江戸に留まっていた徳川家康は、石田三成が大阪城で挙兵したという知らせを受けると、下野国へと入り、慶長5年(1600年)7月25日に下野国の小山(栃木県小山市)という場所へ諸将を集め、小山で評定を開いた(小山評定)。

そして、徳川家康の家臣・井伊直政が小山評定で「上杉討伐(会津討伐)を中止して上洛する。石田三成に同心する者があれば、急いで大阪へ行き、石田三成の陣営に加わるがよい」と告げた。

すると、福島正則が率先して「徳川家康の味方する」と宣言し、その他の諸将も福島正則に続いて、徳川家康に忠誠を誓った(小山評定の通説)。

(注釈:このとき、福島正則は清洲城の城主であった。清洲城は西軍と戦うための拠点になるため、福島正則は一足先に清洲城へ向かっており、小山評定に参加していなかったという説もある。)

こうして、上杉討伐(会津討伐)に参加していた軍勢は、そのまま関ヶ原の戦いでいう東軍になった。

(注釈:ただし、小山評定に参加していなかった真田昌幸と田丸直昌の2人は、石田三成に味方した。)

さて、細川忠興の元に正室・細川ガラシャの死が届いたのは、小山評定の2日後の慶長5年(1600年)7月27日であった。

この知らせを聞いた諸将が大いに動揺したため、徳川家康は諸将に「各々は大阪に人質を置いている。石田三成に味方するのも勝手次第である」と告げた。

しかし、細川忠興は「私の正室は石田三成の人質にされようとしたため、自害に及んだ。何の面目があって石田三成に属そうか。諸将が大阪へ参られても、私は残り、先手を務める」と告げると、動揺していた諸将は細川忠興に賛同し、徳川家康に誓詞を差して忠誠を誓った。

こうして、細川ガラシャの死によって、東軍は一致団結して石田三成と対決する事を決めた。

徳川家康は豊臣秀吉の恩顧武将が大阪に味方するのではないかと心配しいたが、豊臣秀吉の有力な恩顧武将である細川忠興が徳川家康に味方することを宣言したうえ、細川ガラシャの死によって東軍が一致団結したので、徳川家康は大いに喜んだ。

そして、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利すると、「諸大名の妻子を取り返せたのは、細川忠興と細川ガラシャの忠義のおかげである」と感謝し、細川忠興に九州の豊前(福岡県東部と大分県の一部)34万石を与えたのである。

■細川忠隆の廃嫡事件
細川ガラシャの長男・細川忠隆の正室は、前田利家の七女・前田千世で、前田千世は細川ガラシャと同様に大阪・玉造の細川屋敷に住んでいた。

慶長5年(1600年)7月に大阪城で挙兵した石田三成は、内々に細川ガラシャを人質に取ろうとしたが、細川ガラシャが人質になる事を拒否したため、慶長5年(1600年)7月17日に兵を送り、細川屋敷を取り囲んだ。

長男・細川忠隆の正室・前田千世は、姑・細川ガラシャと共に自害するつもりであったが、姉・前田豪(宇喜多秀家の正室)から「逃げてきなさい」と勧められたため、正室・前田千世は姑・細川ガラシャに「一緒に逃げましょう」と誘った。

しかし、姑・細川ガラシャは同心せず、「1人で逃げなさい」と命じたので、正室・前田千世は下人の格好をして細川屋敷を抜け出し、姉・前田豪が嫁いだ宇喜多屋敷へと逃げ込み、その後、実家の前田家へと逃れた。

このため、細川ガラシャは1人で自害し、壮絶な最期を果てた。

関ヶ原の戦いの後、細川ガラシャの夫・細川忠興は、前田千世が自害せずに逃げた事に怒り、長男・細川忠隆に離縁を命じた。

しかし、長男・細川忠隆は「逃げたのは、母・細川ガラシャの強い勧めによるものです」と弁明し、離縁しなかったため、細川忠興は激怒して長男・細川忠隆を勘当した。

長男・細川忠隆は前田家を頼ったが、前田家に受け入れを拒否されたため、剃髪して「無休」と号して隠居した。その後、正室・前田千世と離縁し、正室・前田千世を加賀の前田家に返した。

■三男・細川忠利
細川ガラシャの三男・細川忠利は江戸で人質生活を送っており、2代将軍・徳川秀忠から信頼をえていた。

そこで、長男・細川忠隆を勘当した細川忠興は、慶長9年(1604年)に三男・細川忠利を後継者に選んだ。

■次男・細川興秋
細川ガラシャの次男・細川興秋は、父・細川忠興の弟・細川興元の養子になっており、細川興元の後継者となっていた。

しかし、細川忠興が慶長9年(1604年)に三男・細川忠利を後継者に選ぶと、次男・細川興秋は三男・細川忠利の代わりに人質として江戸に送られることになった。

こうして、慶長10年(1605年)、次男・細川興秋は三男・細川忠利の代わりに人質として江戸に送られることになったが、次男・細川興秋は人質として江戸に向かう途中で出奔してしまった。

その後、三男・細川忠利が元和6年(1620年)に家督を相続し、細川家を引き継いだのであった。

実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

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