納屋小左衛門の生涯

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ番外編「納屋小左衛門の生涯」です。

■納屋小左衛門の生涯のあらすじとネタバレ
納屋小左衛門は、以前は黒田家の奉公人で、関ヶ原の合戦(1600年)のとき、黒田家の大阪屋敷(天満屋敷)に出入りする商人であった。この納屋小左衛門が活躍するのは、関原の合戦が始まる直前である。

さて、豊臣秀吉の時代から、大名は人質として大阪屋敷に妻子を置く決まりになっており、関ヶ原の合戦が始まるとき、黒田家も黒田官兵衛(黒田如水)の妻・櫛橋光と黒田長政の妻・栄姫(保科正直の娘)を大阪屋敷(天満屋敷)に置いていた。

慶長5年(1600年)6月、徳川家康が会津討伐(上杉討伐)を発動すると、黒田長政も兵を率いて会津(福島県)へ向けて出発した。

このとき、黒田長政は栗山四郎右衛門(栗山善助)・母里太兵衛・宮崎助太夫の3家老を天満屋敷の守備に残し、「石田三成が挙兵するようなことがあれば、母・櫛橋光と妻・栄姫を連れて、なんとしても中津へ逃げよ。母と妻を敵に生け捕られるのは、黒田家の恥なり。逃げられないようであれば、2人を切って、お主らも自害してくれ」と命じていた。

天満屋敷に残った栗山四郎右衛門(栗山善助)らは、事前に協議して、石田三成が挙兵すれば、櫛橋光と栄姫を町屋に隠し、その後、中津(大分県中津市)へ送り届けることにした。

さて、天満屋敷には、納屋小左衛門という商人が出入りしていた。納屋小左衛門は元・黒田家の奉公人で、頼もしい人物だった。

栗山四郎右衛門(栗山善助)は特に納屋小左衛門と心やすく付き合っていたので、納屋小左衛門に櫛橋光と栄姫の2人を匿って欲しいと頼むと、納屋小左衛門は「両人のご内室がお越しになれば、内倉に匿いましょう」と快く引き受けた。

さらに、納屋小左衛門は寝床の床を畳1畳ほど剥がし、その下に畳1畳を敷き、隠し部屋を作って、訪問者があれば、預かった櫛橋光と栄姫の2人を寝室下の隠し部屋に隠すことにした。

やがて、大阪城で挙兵した石田三成は、大阪屋敷に残された妻子を人質に取れば、徳川家康から石田三成に寝返る者も現れるだろうと思い、まずは細川忠興の大阪屋敷(玉造屋敷)へ細川忠興の縁者を派遣し、細川忠興の妻・細川ガラシャ(細川玉)を人質として大阪城に入るように要請した。

ある日、黒田家の大阪屋敷(天満屋敷)に監視の兵が付いたので、櫛橋光と栄姫の2人を俵で包み、商人に変装した栗山四郎右衛門(栗山善助)が櫛橋光と栄姫の2人が入った俵を天秤棒で担いで、屋敷の裏にある風呂屋の壁に穴を開けて外に出て、納屋小左衛門の屋敷に櫛橋光と栄姫の2人を届けた。

納屋小左衛門は約束通り、櫛橋光と栄姫の2人を奥の内倉に匿うと、家人にもこの事を秘匿し、納屋小左衛門とその妻が密かに食事を運び、櫛橋光と栄姫の2人の世話をした。櫛橋光と栄姫の2人は、6~7日間、納屋小左衛門の内倉に隠れて過ごした。

さて、栗山四郎右衛門(栗山善助)と母里太兵衛は、船を用意しており、川から櫛橋光と栄姫の2人を連れて大阪湾へ出る予定で、中津城(大分県中津市)へ帰国する計画を立てていた。

しかし、石田三成は大名の妻子が逃げ出さないように、川にも関所を設けていたので、船で大阪湾へ出ることが出来ず、栗山四郎右衛門(栗山善助)は関所を偵察し、逃げ出す機会をうかがっていた。

さて、石田三成は細川忠興の縁者を細川家の大阪屋敷(玉造屋敷)へ派遣し、正室・細川ガラシャ(細川玉)を人質に成るように説得したが、細川忠興から屋敷から出ることを禁じられている正室・細川ガラシャ(細川玉)は人質になる事を拒否する。

やがて、石田三成は説得することを諦め、慶長5年(1600年)7月17日に細川家の大阪屋敷(玉造屋敷)に兵を差し向け、強硬手段に出た。

細川忠興から屋敷から出ることを禁じられている正室・細川ガラシャ(細川玉)は、自害する道を選んだが、キリシタンだったため、自害出来ず、家老の小笠原秀清に介錯させて死んだ(槍で胸を突かせたとも伝わる。)

その後、介錯した家老の小笠原秀清は、正室・細川ガラシャ(細川玉)に布をかぶせてその上から火薬を撒き、さらに屋敷中に火薬を撒いて、火を放ち自害した。

(注釈:細川ガラシャの生涯については、「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

さて、大阪城の方角(細川ガラシャが居る玉造屋敷)で爆発音がして、火の手があがったので、検問の兵は一斉に様子を見に行き、検問が手薄になった。

栗山四郎右衛門(栗山善助)と母里太兵衛は、これを好機とみて、納屋小左衛門の屋敷に匿っていた櫛橋光と栄姫の2人を船に乗せ、大阪を脱出した。

そして、栗山四郎右衛門(栗山善助)は播磨(兵庫県)を経て、櫛橋光と栄姫の2人を無事に、黒田如水(黒田官兵衛)が居る中津城(大分県中津市)へ送り届けたのであった。

この話を聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は納屋小左衛門の忠義に感謝し、慶長5年(1600年)9月7日、納屋小左衛門に自筆の感謝状を贈った。

また、栗山四郎右衛門(栗山善助)・母里太兵衛や他の家老も、納屋小左衛門に感謝状を贈った。

黒田長政も慶長5年(1600年)10月12日に折紙をもって納屋小左衛門の忠義に感謝し、納屋小左衛門に褒美として豊前国に知行100石を与えた。

その後、黒田長政は関ヶ原の戦いで活躍して筑前(福岡県)へ転封となると、慶長6年(1601年)3月20日、納屋小左衛門に鞍手郡大熊村で知行100石を与え、また、その翌年12月23日に鞍手郡新入村で知行100石を与えた。

なお、栗山四郎右衛門(栗山善助)らが櫛橋光と栄姫を連れて天満屋敷を脱出したあらすじとネタバレは、「母里太兵衛と栗山四郎右衛門(栗山善助)が天満屋敷を脱出したあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

黒田官兵衛(黒田如水)の生涯のあらすじとネタバレは「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。

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