五百木竹四郎(いおき・たけしろう)の生涯

ドラマ・原作小説「天皇の料理番」の主人公となる秋山徳蔵の生涯をあらすじとネタバレで描く「天皇の料理番・秋山徳蔵のあらすじとネタバレ」の登場人物の実在モデル編「五百木竹四郎(いおき・たけしろう)の生涯」です。

■五百木竹四郎の生涯
五百木竹四郎(いおき・たけしろう)は明治20年に愛媛県北宇和郡裡町(現宇和島市裡町)で生まれた。父親は魚の行商人で、五百木竹四郎は4男であった。

五百木竹四郎が10歳の時に父親が死に、残された家族は非常に貧しい生活を続け、五百木竹四郎も14歳の時から行商を始めて家計を助けた。

さて、五百木竹四郎には五百木熊吉という兄が居た。兄の五百木熊吉は、詳しい経緯は不明ながら、横浜で人力車を引く仕事(人力車夫)をしていた。

人力車の客は外国人が中心で、兄の五百木熊吉は真面目な性格だったため、外国人に気に入られた。特に外国人の夫人に気に入られ、送り迎えの先々でお菓子やケーキを貰うようになり、西洋料理に興味を持った。

兄の五百木熊吉は人力車で外国人を乗せていた関係で、片言の外国語を覚えており、仲良く成ったフランス人から西洋料理を教えてもらい、人力車を辞めて料理人へと転職した。

そして、兄の五百木熊吉は人力車時代に覚えた片言のフランス語が料理の修業で役立ち、西洋料理業界で頭角を現した。

一方、弟の五百木竹四郎は、兄・五百木熊吉の影響で、16歳の時に横浜へ出て西洋料理の修業を開始する。

やがて、弟の五百木竹四郎も料理人として頭角を現し、五百木兄弟は西洋料理でその名を知らない者は居ないほどの名人になった。

後に「天皇の料理番」となる秋山徳蔵が華族会館で働いていたとき、五百木竹四郎はイギリス公使館で料理長をやっていた。秋山徳蔵は五百木竹四郎を尊敬しており、華族会館で働きながらも五百木竹四郎の元に通い、西洋料理を学んでいる。

その後、五百木竹四郎は明治40年に東京・築地にある精養軒(築地精養軒)に就職し、東京ステーションホテルに出店した精養軒の支配人を経て、35歳で精養軒の社長となり、経営方面で尽力することになるが、料理の技術は現場の料理長以上だったという。

築地精養軒の最盛期を築いた第5代料理長・鈴木敏雄は、五百木竹四郎を「料理の面でも五百木竹四郎が必要だった」と高く評価している。

第5代料理長・鈴木敏雄は「天皇の料理番」となった秋山徳蔵が「自分よりも上」と認めた唯一の西洋料理人で、秋山徳蔵は西洋料理の命とも言えるデミグラスソースを鈴木敏雄に発注していた程の料理人である。

さて、五百木竹四郎は大正10年に欧米各国のホテルを視察し、新しい経営方針を掲げたが、精養軒の株主と対立して精養軒を退社する。

五百木竹四郎は精養軒から独立(のれん分け)する形で、その後は丸之内会館、丸ビル精養軒、松島パークホテル、長良川ホテル、札幌グランドホテルなどを手がけ、香港やシンガポールにも進出し、日本のホテル業界に貢献した。そして、昭和18年に死去した。享年56だった。

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天皇の料理番・秋山徳蔵のあらすじとネタバレについては「天皇の料理番・秋山徳蔵のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。