原作小説「天皇の料理番」のあらすじと結末ネタバレの後編

佐藤健が主演するTBSの料理ドラマ「天皇の料理番」の原作となる杉森久英の原作小説「天皇の料理番」のあらすじと結末ネタバレのあらすじ後編です。

このページは「天皇の料理番-原作小説のあらすじとネタバレ」からのです。

■天皇の料理番-高浜篤蔵の凱旋
3年ぶりに帰国した高浜篤蔵(秋沢篤蔵)は、フランスで料理を学んだ2人目の日本人として有名になっており、引く手あまたで、高額の報酬で多くのレストランやホテルから誘われたが、天皇の料理人という最高の名誉を選び、全ての誘いを断った。

ところが、宮中で働くには身元調査をクリアしなければならず、身元調査の結果が出るまで、しばらく時間がかかるということで、直ぐに天皇の料理番として働くことは出来なかった。

このため、高浜篤蔵は正式な採用が出るまでの間の時間を利用して、東京料理倶楽部の料理長に就任する一方で、フランス料理の大家エスコフィエの料理本「フランス料理全書」を翻訳し、日本風にアレンジして出版する。

さて、高浜篤蔵が下宿している秋沢家に、秋沢敏子という美人の娘が居た。秋沢敏子は、高浜篤蔵の初恋の女性・八千代に似ていたので、秋沢敏子の事が気になり、秋沢敏子と結婚する。

高浜篤蔵は次男で家を継ぐ必要が無かったので、秋沢家の養子に入り、秋沢篤蔵となる。

その年の11月、秋沢篤蔵は正式に宮内省大膳寮の司房長(天皇の料理番)として採用され、宮中の厨房で働くようになる。

■天皇の料理番
秋沢篤蔵は、宮内省大膳寮司房長(天皇の料理番)となったが、短気で勝ち気な性格は宮中でも変わらず、上司や年上の部下にでも平気で罵声を浴びせた。

そんな秋沢篤蔵(高浜篤蔵)だったが、大膳頭(大膳寮の責任者)の福羽逸人だけは尊敬し、福羽逸人の元で大正天皇の即位の大礼の料理を成功させた。

ところが、大正8年に宮内省の再編が行われ、福羽逸人が野菜や果物を栽培していた新宿御苑は、大膳の管轄から、内匠寮の管轄になった。

新宿御苑を奪われた大膳頭・福羽逸人は辞表を提出すると、秋沢篤蔵(高浜篤蔵)も福羽逸人と一緒に辞職すると言ったが、福羽逸人は「私は年だ。いずれ辞めるつもりだった。君は宮内省に必要な人間だ」と言い、思いとどまらせた。

■天皇の料理番-ヨーロッパ外遊
第1次世界大戦の終戦から2年後の大正10年(1921年)、皇太子(後の昭和天皇)がヨーロッパ外遊を行った。

秋沢篤蔵はヨーロッパ外遊に加えられておらず、料理研究という独自の名目でフランスへと渡り、パリで娼婦フランソワーズの行方を捜してたが、娼婦フランソワーズは見つからなかった。

そうこうしているうちに、皇太子(後の昭和天皇)がフランスのパリに到着したので、秋沢篤蔵は皇太子(後の昭和天皇)のヨーロッパ外遊に加わった。

皇太子(後の昭和天皇)がイギリスを訪問し、イギリスの皇太子が返礼のために日本を訪問する事になっていたので、料理の責任者である秋沢篤蔵はイギリス皇太子の返礼に備えて、イギリス側の用意する料理を見ておく必要があったのである。

秋沢篤蔵はイギリスのバッキンガム宮殿で行われた晩餐の厨房を見学したほか、行く先々で晩餐の料理を見せて貰い、多くのことを吸収していった。

こうしたなか、秋沢篤蔵はフランスで画家を目指している矢島新太郎の自宅を訪れた。

矢島新太郎は高浜篤蔵と別れた後、娼婦フランソワーズと結婚し、第1次大戦を迎えたが、フランソワーズを連れて日本に帰ることも出来ず、フランソワーズを残して1人で日本へ帰ることも出来ないため、フランスに残っていたのだという。

しかし、1年前にフランソワーズも死に、矢島新太郎は画家としても成功せず、没落した生活を送っていた。

高浜篤蔵は、フランソワーズを探していた事を打ち明けず、矢島新太郎が画家として成功することを祈った。

■天皇の料理番-イギリス皇太子の来日
翌年の大正11年(1922年)、イギリスの皇太子が返礼のために来日し、高浜篤蔵はイギリスの皇太子を接待するため、鵜飼い見物や料理の献立を企画した。

イギリスの皇太子は東京都知事などの永い挨拶などにウンザリしたが、高浜篤蔵の料理に感激し、高浜篤蔵に勲章を贈り、日本は高浜篤蔵の料理によって面目を保った。

■天皇の料理番-妻・秋沢敏子の死
翌年の大正12年(1923年)、関東大震災が起こり、秋沢篤蔵(高浜篤蔵)の自宅は全焼したが、忠誠心の強い秋沢篤蔵(高浜篤蔵)は、職場を離れず、家族よりも仕事に心血を注いだ。

一方、留守を守っていた妻・秋沢敏子は、体調を崩して寝込み、やがて死んでしまった。

妻・秋沢敏子を愛していた秋沢篤蔵は失意に暮れるが、その後、秋沢篤蔵は料亭「百尺」の「お菊」と再婚した。

■昭和天皇の料理番
大正天皇が大正15年(1926年)12月25日に崩御し、昭和天皇が即位する。そして、元号が大正から昭和へと変わる。

秋沢篤蔵(高浜篤蔵)は大正天皇の引き続き、昭和天皇の料理番を務めた。

■天皇の料理番-第2次世界大戦後
戦後、田舎で療養していた兄・高浜周太郎が死んだ。次男の秋沢篤蔵(高浜篤蔵)は実家を出ていたため、三男が高浜家を相続した。

実家に帰省した秋沢篤蔵(高浜篤蔵)は、兄・高浜周太郎は和歌の勉強が切っ掛けで警察署の娘・八千代と恋仲になっていた事を知り、兄・高浜周太郎が幸せな晩年を暮らしていたことに安心した。

ある日、秋沢篤蔵は、フランスで別れた矢島新太郎と東京で再会し、旧交を温める。

矢島新太郎はフランスで画家として成功せず、第2次世界大戦の最終に日本へ帰国し、日本で画廊を経営していた。秋沢篤蔵は、その画廊の名前を聞いたことがあったので、画廊としての成功を喜んだ。

このころ、秋沢篤蔵は著書「味」を出しており、高浜篤蔵は著書「味」の表紙に自分でエビの絵を描いていた。

矢島新太郎が「揚げたら美味そうだった」とエビの絵を褒めたので、秋沢篤蔵は本業の料理を褒められるよりも、矢島新太郎にエビの絵を褒めて貰ったことが嬉しかった。

■天皇の料理番-引退
昭和46年、フランスの料理アカデミーから名誉会員として推薦され、秋沢篤蔵(高浜篤蔵)は日本人初となるフランス料理アカデミーの名誉会員となる。

その頃から秋沢篤蔵に衰えが見え始め、秋沢篤蔵は昭和47年10月に司房長(天皇の料理番)を辞職する。

秋沢篤蔵は天皇陛下に別れの挨拶をするにあたり、従事に「お上からお声が掛かると、きっと涙が出て見苦しいことになるだろうから、何も仰せられないように、貴方から頼んで欲しい」と頼んだ。

秋沢篤蔵は辞職から2年後の昭和49年7月に病状が悪化して昏睡状態が続き、7月14日に意識を取り戻したが、そのまま死亡した。

「天皇の料理番」のモデル・秋山徳蔵の人生をあらすじとネタバレで描いた「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。

「天皇の料理番」の登場人物の実在モデル一覧は「天皇の料理番-実在のモデル」をご覧下さい。