大津事件(湖南事件)のあらすじとネタバレ

TBSドラマ「天皇の料理番」のモデルとなる秋山徳蔵の生涯をあらすじとネタバレで描く「実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレ」の番外編「大津事件(湖南事件)のあらすじとネタバレ」です。

実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレの目次は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■大津事件(湖南事件)の注意事項
大津事件は琵琶湖の西南に位置する滋賀県大津市京町で起きた事から、明治24年(1891年)当時は「湖南事件(こなん事件)」と呼ばれていた。

大津事件は「湖南事件(こなん事件)」とよばれていたことから、漫画・アニメ「名探偵コナン」の事件と勘違いする人も多いが、名探偵コナンとは一切関係がありません。

■大津事件(湖南事件)のあらすじとネタバレ
明治24年(1891年)、ロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)は、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ウラジオストクに向かう途中で日本に立ち寄った。

日本は明治37年(1904年)に日露戦争を起こしてロシア帝国に勝利することになるが、明治24年(1891年)の時点では弱小国の日本が生き残るには大国のロシア帝国と友好を結ぶ意外に方法は無く、明治天皇の熱心な誘致が実り、ニコライ皇太子の来日が実現したのである。

ニコライ皇太子は親日派であったが、小国の日本はロシア帝国の脅威にさらされており、日本では「ロシア帝国が日本へ侵攻する下見に来た」という噂まで流れた。

ニコライ皇太子の来日は非公式であったが、明治政府は有栖川宮威仁親王を接待係に任命し、国賓として国を挙げてニコライ皇太子を接待した。

鹿児島・神戸を経て京都に入ったニコライ皇太子は明治24年(1891年)5月11日、滋賀県で琵琶湖を遊覧した後、滋賀県庁で昼食をとり、人力車で帰路に就いた。

ところが、ニコライ皇太子の一行が現在の滋賀県大津市京町2丁目を通りかかったとき、警備を担当していた滋賀県守山署の巡査・津田三蔵がサーベルを抜いてニコライ皇太子を襲撃し、ニコライ皇太子を負傷させたのである。

この異常事態に明治天皇は迅速に行動をし、ニコライ皇太子に会って謝罪する。一説によると、第2の襲撃を防ぐため、明治天皇がニコライ皇太子の盾になる計画があったとという。

一方、日本全土はこの大津事件によって、「ロシアが報復に攻めてくる」という恐怖に陥り、全国各地でニコライ皇太子の回復を願う祈祷などが行なわれた。

ニコライ皇太子は本国の指示で帰国する事が決まり、明治政府としては最悪な結果を招いたが、明治天皇の迅速な対応や、日本全土で回復祈願が行なわれた事などを受け、ニコライ皇太子の親日姿勢は崩れなかった。

ところで、明治政府は江戸幕府が結んだ不平等条約を解消するために近代化を推し進めた結果、日本は近代憲法を採用した大日本帝国憲法(明治憲法)を制定した法治国家となっており、国民の人権も保障されていた。

そして、明治時代の裁判は三審制をとっていた。ただ、特例として「皇室に危害を加える罪」など一部の罪については大審院(最高裁判所)での一審制であった。

犯人・津田三蔵はロシア帝国のニコライ皇太子を負傷させたが、日本の法律には他国の皇太子についての規定はなく、ニコライ皇太子は日本の法律上は一般人として扱われた。

このため、大津事件は通常のと同様に謀殺未遂事件として扱われ、犯人・津田三蔵は大津地裁へ送られており、大津地裁は謀殺未遂事件として予審を開始していた。

ところが、それは明治政府にとって外交上の大きな問題となった。以前、ロシア大使館に対する投石事件が起きたため、ロシア大使館はニコライ皇太子の訪日に際し、明治政府に安全対策で注文を付けていた。

その結果、外務大臣・青木周蔵とロシア公使シェービッチの間で、ニコライ皇太子に危害を加えた場合、「皇室に危害を加える罪」を適用するという密約を交わしていたのである。

ロシア帝国からの報復や領土の割譲要求を恐れた明治政府は、犯人・津田三蔵を死罪にしてロシア帝国との密約を守らなければならなかった。

拘留中の犯人・津田三蔵を暗殺する計画なども出たが、伊藤博文は日本が法治国家であることを理由に暗殺計画を退けた。

当時の法律では一般人を負傷させただけで死刑を求刑することが出来ず、犯人・津田三蔵を死刑にするには「刑法166条・皇室に危害を加える罪」を適用させる以外に方法は無かった。

このため、明治政府は犯人・津田三蔵に対して「刑法166条・皇室に危害を加える罪」を適用する事を閣議決定し、関係各所に通達した。

しかし、大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙は、「刑法166条・外国の皇室に対する規定は無い」と主張し、犯人・津田三蔵に対して「刑法166条・皇室に危害を加える罪」を適用することを反対し、一般人の場合と同様に謀殺未遂罪の適用を主張した。

また、裁判官・検事・お雇い外国人、それぞれの意見も児島惟謙と同様に、「刑法166条・皇室に危害を加える罪」を適用することを反対した。

しかし、ロシア公使から死刑を求められている明治政府は、「国家があるから、法律がある。国家無くして法律無し」として、検事総長・三好退蔵に圧力を掛け、「刑法166条・皇室に危害を加える罪」の適用を承諾させた。

一方、大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙も主張を後退させ、「7人の合議裁判で出た判決については、どのような結果でも異議を唱えない」として、大審院(最高裁判所)での審議に同意した。

このため、大津事件は謀殺未遂事件として大津地裁で予審が始まっていたが、検事総長・三好退蔵の要請を受け、大津地裁は管轄違いとして大津事件の予審を打ち切り、大津事件は大審院(最高裁判所)特別法廷で審議されることになった。

さて、大審院(最高裁判所)特別法廷で大津事件を審議するのは、判事は堤正己・中定勝・土師経典・安居修蔵・井上正一・高野真遜・木下哲三郎の7人であった(裁判長は堤正己)。

7人のうち、安居修蔵・井上正一の判事2人は内閣との関係も薄く、「刑法166条・皇室に危害を加える罪」に強く反対していたので、説得するのは難しかった。一方、判事・土師経典は西郷内務大臣と親しかったので、明治政府の味方する事は見えていた。

そこで、明治政府は過半数を取得するため、堤正己・中定勝・高野真遜・木下哲三郎の判事4人の説得を開始した。

このとき、栗塚省吾は法務大臣の秘書官をしており、司法大臣・山田顕義とともに、大津事件の担当裁判官・木下哲三郎を説得にあたった。

その結果、明治政府は大津事件の担当裁判官7人のうち4人を説得することに成功し、賛成多数で犯人・津田三蔵を死刑にする見通しが立った。

しかし、大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙は、裁判開始の4日前に「刑法166条・皇室に危害を加える罪」の適用に反対する持論を展開すると、明治政府の方針を支持していた堤正己が意見を変えて院長・児島惟謙に同調した。

さらに、院長・児島惟謙は、明治政府の方針を支持していた木下哲三郎・土師経典の判事2人を説得することに成功した。

こうして、院長・児島惟謙は、「刑法166条・皇室に危害を加える罪」に反対していた安居修蔵・井上正一の判事2人に、堤正己・木下哲三郎・土師経典の判事3人を加えた5票を抑え、「刑法166条・皇室に危害を加える罪」は適用されない見通しが立った。

すると、大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙は検事総長・三好退蔵と連名で、司法大臣・山田顕義に「刑法166条を適用する見込みなし。犯人・津田三蔵を死刑にするには、緊急勅令を発する以外に方法はない」という主旨の申し入れを行なった。

これを受けた内務大臣・西郷従道と司法大臣・山田顕義は、検事総長・三好退蔵に要請して大津事件の裁判を延期させ、院長・児島惟謙と面会した。

内務大臣・西郷従道は「ロシア帝国の艦隊が殺到し、我が帝国は藻屑となるだろう」と恫喝して「刑法166条・皇室に危害を加える罪」の適用を迫ったが、院長・児島惟謙は「判事にしたいして刑法166条を適用しろという勅命ですか」と答えて話し合いは決裂した。

その後、司法大臣・山田顕義は院長・児島惟謙を通じて担当判事7人に面会を申し込んだが、判事は面会を拒否した。

一方、明治政府は院長・児島惟謙の要請を受けて緊急勅令について議論をしたが、官僚が犯人・津田三蔵に「刑法166条・皇室に危害を加える罪」を適用することに反対するとともに、緊急勅令を発して過去の事件を罰することを違憲と主張したらしい。

結局、明治政府は緊急勅令を出さないまま、明治24年5月27日に大津地裁で大審院(最高裁判所)特別法廷が開かれ、大審院(最高裁判所)は犯人・津田三蔵に謀殺未遂罪を適用し、無期懲役を言い渡した。

■大津事件(湖南事件)の結果
大津事件の結果、外務大臣・青木周蔵が辞任する。内務大臣・西郷従道と司法大臣・山田顕義の2人も、ロシア帝国に誠意を示すために辞職した。

日本はロシア帝国からの報復を恐れていたが、明治24年6月、在ロシア公使・西徳二郎から、ロシア帝国の皇帝陛下は彼の裁判に満足しているという知らせがあり、外交面も無事に終結した。

■大津事件(湖南事件)の評価
明治政府の圧力にくしなかった大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙は、司法の独立を守り抜き「護法の神様」として高く評価されるようになった。

しかし、院長・児島惟謙が主張した「司法の独立」は、三権分立における「司法の独立」ではなく、「日本の法律は他国の影響を受けない」という主権国家という意味であったと指摘されている。

また、児島惟謙は専門的に法律を学んだのでは無く、職務のうえで法律を学んだだけで、大津事件において、犯人・津田三蔵を死刑にするために司法大臣・山田顕義に緊急勅令を要請したり、担当外の裁判に口を出して判事を説得するなど、法律的に問題のある行動をしている。

■大津事件から司法官・弄花事件(ろうか事件)へ
児島惟謙は大津事件によって「護法の神様」として祭り上げられたが、大津事件の翌年の明治25年に司法官・弄花事件(ろうか事件=花札事件)が発覚し、失脚することになる。

司法官・弄花事件(花札事件)のあらすじとネタバレ」へ続く。