司法官・弄花事件(ろうか事件)のあらすじとネタバレ

TBSドラマ「天皇の料理番」のモデルとなる秋山徳蔵の生涯をあらすじとネタバレで描く「実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレ」の番外編「司法官・弄花事件(花札事件)のあらすじとネタバレ」です。

このページは「実話・大津事件(湖南事件)のあらすじとネタバレ」からの続きです。

■司法官・弄花事件(ろうか事件)の概要
弄花(ろうか)とは、花札遊戯や花札賭博のことで、司法官・弄花事件(ろうか事件)とは、大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙が向島の待合「初音屋」などで花札賭博を行なった司法界を揺るがす事件である。

■司法官弄花事件(花札事件)のあらすじとネタバレ
大津事件によって「護法の神様」と呼ばれるようになった大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙は、過去に賭博罪の廃止や緩和を求める意見書を提出しており、賭博を容認する考えを持っていた。

院長・児島惟謙がいつ頃から花合わせ(花札賭博)を始めていたのかは不明だが、大津事件で大津に出張した明治24年(1891年)5月に花合わせ(花札賭博)を行なっている。

さて、司法官・弄花事件(ろうか事件)を語るのに重要な人物が居る。それは、大審院(最高裁判所)の検事・磯部四郎である。

検事・磯部四郎は、色町で同僚や芸者と花合わせ(花札賭博)をする事を大変好んでいた人物で、院長・児島惟謙が頻繁に花合わせ(花札賭博)をするようになったのは、検事・磯部四郎に誘われた事が切っ掛けとも言われる。

そして、院長・児島惟謙は明治24年(1891年)12月以降、向島の待合「初音屋」などで頻繁に、大審院(最高裁判所)の検事・判事と花合わせ(花札賭博)を行なうようになった。

ところが、大津事件の翌年の明治25年(1892年)3月、大審院(最高裁判所)の検事・磯部四郎が同僚検事に児島惟謙らとの花合わせ(花札賭博)について話してしまった。

このとき、大審院(最高裁判所)の検事と判事は対立しており、検事同士でも対立があった。

逸話によると、花合わせ(花札賭博)の事を聞いた検事総長・松岡康毅は、大審院(最高裁判所)の院長の座を狙い、院長・児島惟謙を追い落とすため、判事・児玉淳一郎に協力を要請したという。

明治25年(1892年)3月、大審院(最高裁判所)の判事・児玉淳一郎は、大審院の院長・児島惟謙など数人の検事・判事が向島の待合「初音屋」などで花合わせ(花札賭博)を行なっている事を聞き、彼らを訪問して諫めた。

その後、判事・児玉淳一郎は司法次官・三好退蔵(大津事件の時は検事総長)の元を訪れ、賭博行為を報告すると、児島惟謙は花合わせ(花札賭博)の事実を認めた。

その後、児島惟謙は、賭博行為については否定したが、その後、賭博行為についても認めたという。

(注釈:児島惟謙は「賭博と花札遊戯は別の問題である。私は花札を引いたと明言するが、金銭を賭したとは言っていない」という主旨の事を話しているが、金銭を掛けていなくても、当時の法律では飲食物以外を賭ければ、全て賭博罪となる。)

さらに、児玉淳一郎は、それらの事実を松岡検事総長など司法上層部の数人に内部告発し、大審院の院長・児島惟謙らに対する処罰を求めた。

ところで、司法官・弄花事件は賭博事件であるが、現行犯ではないため、司法官・弄花事件を刑事事件として扱うことは出来なかった。しかし、懲戒法は刑事裁判の結果に関係無く、対象者を処罰する事が出来たのである。

このため、東京地裁の検事正・野崎啓造は、明治25年4月22日に司法官・弄花事件に関わった芸子18人を呼んで取り調べを開始し、敵対する判事との全面戦争の準備を開始した。

そして、判事との対決に検事・磯部四郎が居ては困ったのだろう。司法官・弄花事件(ろうか事件)の発端とも言える検事・磯部四郎は、明治25年5月7日に依願免本官となる。

さて、日本の司法の最高機関たる大審院(最高裁判所)の司法官が花合わせ(花札賭博)を行なっていたということは、法治国家となった日本にとって、最大の恥であった。

司法官・弄花事件(ろうか事件)は田中司法大臣に報告され、田中司法大臣と河野農商務大臣が院長・児島惟謙に勇退を説得したが、院長・児島惟謙は勇退を拒否し、院長・児島惟謙自らが懲戒裁判を求めたという。

このため、田中司法大臣は明治25年6月、松岡検事総長に懲戒裁判の申請を行なうと、司法界の恥を世間にさらした責任を取って辞職した。

こうして、大審院(最高裁判所)の院長・児島惟謙と判事6人(栗塚省吾・中定勝・加藤祖一・岸本辰雄・高木豊三・亀山貞義)が懲戒裁判の被告人なるという前代未聞の事態に発展した。

懲戒裁判の担当判事7人は、懲戒裁判の開廷に消極的であったが、受理した後に是非を決めるべきではないとして、懲戒裁判の開廷を決定し、懲戒裁判所は明治25年7月に取り調べを開始した。

そして、懲戒裁判所は明治25年7月12日、検事正・野崎啓造が芸子から聴取した調書は法律によらない取り調べなので無効とし、「賭博をした事を確認できる証拠は無い」として、院長・児島惟謙ら被告7人に免訴(罪を判断せずに裁判の打ち切ること)を言い渡した。

■司法官・弄花事件(ろうか事件)-その後
司法官・弄花事件の懲戒裁判で被告人となった児島惟謙・栗塚省吾・中定勝・加藤祖一・岸本辰雄・高木豊三・亀山貞義の7人は免訴となったが、新聞や世論は院長・児島惟謙ら7人に道義的責任を追求した。

河野司法大臣は事態の収拾にあたったが、事態を収拾することが出来ないまま、第1次松方内閣が倒れ、明治25年8月に第2次伊藤内閣が発足する。

山縣有朋は伊藤博文の下に付くことを嫌ったが、司法官・弄花事件の処理をするために司法大臣を引き受けたという。

司法大臣に就任した山縣有朋は関係者の説得し、検事総長・松岡康毅と司法次官・三好退蔵の2人を明治25年8月20日に依願免官で辞職させる。

院長・児島惟謙は「辞職は当初より決心していたが、ただ弄花事件の為に彼と共に罷免の名を官報に記録される事が忍びない」という願いが聞き入れられ、松岡康毅・三好退蔵の2人から3日遅れた明治25年8月23日に依願免官で辞職した。

その後、明治25年9月から11月にかけて、司法官・弄花事件に関わっていた検事側の高木秀臣・今井良一・野崎啓造が辞職し、判事側は中定勝・加藤祖一が辞職した。こうして、司法官・弄花事件に終止符が打たれた。

司法官・弄花事件を内部告発した判事・児玉淳一郎は2年後の明治27年4月に退職しているので、司法官・弄花事件の影響ではないと思われる。

■司法官・弄花事件(ろうか事件)の評価
司法官・弄花事件は一般的に「大津事件で辛酸を舐めた明治政府の報復」と解説されているが、大審院の院長・児島惟謙が花合わせ(花札遊戯)を行なっていたこと自体は事実であり、児島惟謙を懲戒裁判にかけるのは手続きに則った行為である。

司法官・弄花事件が内々に処理されず、明るみに出たのは、大審院(最高裁判所)の検事と判事の対立や判事同士の対立が原因であった。

通常なら辞任して懲戒裁判に発展する事は無いが、児島惟謙は説得に応じず、辞任を拒否して懲戒裁判の開廷を要求してと伝わっており、それが懲戒裁判に発展した大きな要因だとされる。

また、伊藤博文は大の女好きであったが、こと賭博に関しては潔癖症といれるほど嫌悪していたことも、懲戒裁判に発展した大きな要因だとされる。

さて、司法官・弄花事件の懲戒裁判で被告人となった栗塚省吾は、大津事件の時は司法大臣秘書官しており、司法大臣・山田顕義とともに、大津事件の担当裁判官・木下哲三郎を説得にあたった人物である。

一般的に司法官・弄花事件は「大津事件の報復や復讐」と解説されているが、大津事件の時に明治政府側として働いた栗塚省吾が司法官・弄花事件で処分されていることから、司法官・弄花事件は大津事件の報復や復讐ではないと考えられる。

実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレの目次は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。