秋山徳蔵の生涯-華族会館時代のあらすじとネタバレ

TBSのドラマ「天皇の料理番」のモデル秋山徳蔵の生涯を描く「実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレ」の実話編「秋山徳蔵の生涯-華族会館時代のあらすじとネタバレ」です。

このページは「天皇の料理番-秋山徳蔵の生涯」からの続きです。

実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレの目次は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■天皇の料理番-秋山徳蔵が華族会館で修行
明治32年(1899年)3月に武生町の尋常高等小学校を卒業した秋山徳蔵は、明治37年(1904年)に宿願が適い、東京へ出て華族会館で料理の修業を始める。このとき、秋山徳蔵は16歳であった。

華族会館は、明治政府が明治16年(1883年)に外国人を接待する為の施設「鹿鳴館(ろくめいかん)」として建築され、絢爛豪華な接待や舞踏会が開かれ、西洋料理がテーブルを飾った。

鹿鳴館は、明治政府の欧化主義(ヨーロッパ化)政策の象徴となっていたが、明治政府の外交政策に批判が高まり、明治20年に鹿鳴館は閉鎖され、その後、建物は華族会館に貸し出され、華族(明治時代に存在した身分)の交流の場となった。

華族会館は、華族(お金持ち)の交流場だっため、料理の値段に文句を言う客はおらず、高級食材をふんだんに使えたという。

華族会館の料理長は宇佐見シェフであった。宇佐見シェフは温厚で優しく、秋山徳蔵は宇佐見シェフを尊敬してフランス料理の修業をしていた。

■天皇の料理番-フランス語を学ぶ
さて、華族会館が働くようになった秋山徳蔵は、フランスの原書から料理を学ぶため、築地・明石町で個人授業をしているフランス語の先生の元に通い、フランス語の勉強を開始する。

華族会館の仕事が9時に終わるので、先生の自宅へ行くのは、どうしても9時半になってしまう。寒い夜道を行くのは苦にならないが、遅くなると先生が嫌な顔をするのが辛かった。断れると困るのである。

そこで、秋山徳蔵は、先生のご機嫌を取るため、先生にカレーライスの作り方やカステラの焼き方などを教えた。

すると、次第に先生の方が秋山徳蔵が来るのを待ちかねるようになり、フランス語の勉強によりも、料理教室の方が主になってしまった。

秋山徳蔵はフランス語の料理本を持って行き、先生に訳してもらうのだが、先生は文法通りに訳すので、それでは料理にならなかった。

そこで、秋山徳蔵が「先生、こういう風に訳せませんかね?そうれすれば、料理になるのですが」と尋ねると、先生は「なるほど。どういう風にも訳せるか」と言って感心した。

■天皇の料理番-肉を盗んで鍋焼きうどん
秋山徳蔵はフランス語の先生の所から戻っても、夜更けまで勉強していた。早番の者は朝5時に厨房に火を入れなければならないのだが、当時の若者はよく勉強したもので、秋山徳蔵の他にも何人かの若者が夜更けまで勉強していた。

ある日の夜、鍋焼きうどんを売る声が聞こえてきたので、秋山徳蔵は思わず顔を上げると、勉強している仲間と目が合った。

みんな、考えている事は同じでだった。秋山徳蔵らは相談すること無く、あうんの呼吸で、1人は窓を開けて、うどん屋を呼び止め、1人は厨房へ走ってとびきり上等の肉の塊を持ってくる。

夜泣きうどんなので、せいぜい、鶏肉が1切れと薄く切った鳴戸が入っているだけだろうから、秋山徳蔵らは厨房から盗んできた肉の塊を店主に渡し、「この肉をたっぷりと入れてくれ。余ったのは、おやじにあげるからな」と言うと、店主は喜んで、とびきりに美味い鍋焼きうどんを作ってくれた。

■天皇の料理番-五百木竹四郎に師事す
明治30年代、西洋料理界に兄・五百木熊吉と弟・五百木竹四郎という兄弟の料理人が居た。五百木兄弟は、西洋料理業界で名前を知らない者は居ないほどの西洋料理の名人であった。

弟・五百木竹四郎はメキシコ公使館やイギリス公使館などで働いた料理人で、秋山徳蔵が華族会館で働いていたころ、弟・五百木竹四郎がイギリス大使館の厨房で料理長をしていた。

秋山徳蔵は五百木竹四郎を尊敬していたので、どうしても五百木竹四郎から料理を学ぼうと思い、イギリス公使館へ行き、「皿洗いをやります」と頼んだが、五百木竹四郎に「皿洗いは居るよ」と相手にされなかった。

しかし、当時のアイスクリームは手回し機で作っており、誰もが嫌がる重労働だったので、秋山徳蔵が「アイスクリームを回させて下さい」と食い下がると、五百木竹四郎も根負けして通うことを許してくれた。

当日、秋山徳蔵は「腹が痛い」と言って華族会館を抜け出してイギリス大使館へ行き、鍋を洗ったり、アイスクリームを回したりした。

そして、仕事が終わって、色々と料理の作り方を観察していると、五百木竹四郎は秋山徳蔵の意図を知っていたので、色々と教えてくれた。

こうして、秋山徳蔵は華族会館で働きながらも、ときどき、イギリス大使館に通い、五百木竹四郎から料理を学ぶようになった。

(注釈:五百木竹四郎の生涯については「五百木竹四郎(いおき・たけしろう)の生涯」をご覧下さい。)

また、番町にあった加藤高明の自宅にフランスのシャンパン会社の社長が1年ばかり滞在していたことがあった。

その社長はフランスから料理人を連れて来ていいたので、秋山徳蔵はどうしても通いたかったが、今度は流石に直接、頼むわけにはいかない。

そこで、秋山徳蔵は板倉にある西洋八百屋「梅屋」のオヤジに頼み込み、加藤高明の厨房で働けるようにしてもらい、皿洗いなどをしながら、西洋料理を学んだ。

■天皇の料理番-華族会館を辞める
華族会館の料理長・宇佐見シェフの下に荒木シェフが居た。荒木シェフは性格の悪い料理人で、仲間のコックが間違った事をしていると、「面白いとが始まるぞ」と言ってホール係や他のコックを呼んできて、失敗したコックに恥をかかせた。荒木シェフは、それを見てニヤニヤと歓ぶような人間だった。

この荒木シェフは、秋山徳蔵が五百木竹四郎の元に通っている事を知ると、秋山徳蔵をイジメるようになった。

秋山徳蔵が上手に料理を作ると、荒木シェフは注文を変えたり、料理を作っている秋山徳蔵にわざとぶつかったりした。

秋山徳蔵が荒木シェフが嫌いだったが、料理人は軍隊のように上司の命令は絶対なので、秋山徳蔵は荒木シェフに逆らわず、短気を押し殺して働いていた。

ある雨の日、華族会館に入ってきた料理長・宇佐見シェフが泥で汚れていたので、秋山徳蔵は直ぐに料理長・宇佐見シェフの元に駆け寄り、濡れた体を拭いて、靴に付いた泥をブラシで払った。

料理長・宇佐見シェフが秋山徳蔵に礼を言って奥の部屋へと消えると、荒木シェフがやって来て椅子に座り、「俺にも、たまにはそんな気遣いをして欲しいものだ」と言い、秋山徳蔵に足を投げ出した。

秋山徳蔵が荒木シェフの事が嫌いだったが、仕方なく、靴を払ってやると、荒木シェフは「お前はイギリス公使館の五百木の所に、しょっちゅう通ってるんだろ」と言った。

すると、秋山徳蔵は「五百木竹四郎の所に通っている事がバレているのであれば、どうせ華族会館には居られないだろう。もう我慢することはない」と思い、荒木シェフの足を持って、そのまま押し倒すと、荒木シェフに馬乗りになって殴り続けた。

そして、秋山徳蔵は寮に戻って荷物を津をまとめると、そのまま華族会館を後にし、翌年の明治38年(1905年)からホテル「築地精養軒」で働き始めることになる。

(注釈:一部の資料によると、秋山徳蔵はブラジル公使館でも働いていたようですが、詳細は不明です。秋山徳蔵がブラジル公使館で働いていたという資料は見つかりませんでした。)

実話・天皇の料理人の実話編「天皇の料理番-秋山徳蔵と築地精養軒のあらすじとネタバレ」へ続く。