秋山徳蔵の生涯-天皇の料理番に就任

TBSのドラマ「天皇の料理番」のモデルとなる秋山徳蔵の生涯を描く「実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレ」の実話編「秋山徳蔵の生涯-天皇の料理番に就任するあらすじとネタバレ」です。

このページは「天皇の料理番-秋山徳蔵の缶詰窃盗事件のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレの目次は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■秋山徳蔵が天皇の料理番に就任する背景
その昔、フランスはヨーロッパで最強の国だった。このため、フランス語は外交上の公用語として使用され、ヨーロッパ各国は正式なディナー(正餐)としてフランス料理を採用していた。

その影響でフランス語圏は広く、現在でも、国連や国際オリンピック委員会の公用語となっており、世界各国のほとんどが正式なディナーにフランス料理を採用している。このため、西洋料理と言えば、通常はフランス料理を指す。

日本にフランス料理が入ってきたのは、江戸時代である。江戸幕府は鎖国していたが、長崎の出島を開いてオランダと貿易をしており、オランダの商人によってフランス料理が出島に持ち込まれた。

そして、江戸時代にペリーが来航したとき、江戸幕府は和食でペリーを接待したのだが、和食が不評だったので、江戸幕府はフランス料理の研究を開始した。

その後、江戸幕府が外圧を受けて函館・新潟・横浜・神戸・長崎の5港を開港すると、開港に伴う外国人居留地でフランス料理が定着した。

また、フランス語が日本に到来したのも江戸時代である。ロシア帝国が鎖国する江戸幕府に開港を迫ったとき、脅迫状とも言える開国要求を江戸幕府に突きつけてきた。

このとき、フランス語は外交上の公用語だったので、ロシア帝国からの開港要求には、ロシア語の他にもフランス語などに翻訳した文章も添付されていた。

しかし、日本にロシア語やフランス語が分る人は居なかったので、フランス語が分る長崎のオランダ商人に、フランス語の文章をオランダ語に翻訳してもらい、長崎の役人がオランダ語を日本語に翻訳した。

ところが、ロシア帝国からの開国要求には日本を脅迫する言葉が使われてたので、オランダ商人は恐ろしくなって、言葉を換えてフランス語からオランダ語に訳したのである。

このため、日本語に翻訳すると意味の通じない文章になってしまったので、日本でフランス語の研究が始まった。

さて、フランス語は外交上の公用語だったため、不平等条約を改正する為に近代化を推し進める明治政府は、フランス語やフランス料理を重視した。

その後、普仏戦争でフランスがドイツに負けたので、明治政府は富国強兵に関してはドイツをモデルとしたが、外交面では引き続きフランス料理が重要であり、日本皇室も明治時代に正式な晩餐としてフランス料理を採用した。

そして、明治時代に宮内省(後の宮内庁)に大膳寮が置かれ、料理人が働いていたのだが、大正天皇の即位の大礼には2000人の国賓を招く国家の威信を賭けた大事業だったので、一流のフランス料理人が必要になった。

このとき、大正天皇は33歳と若かったので、料理人にも長く努めて欲しかったため、若い料理人を望んだ。そこで、フランスの元日本大使だった栗野慎一郎の強い推薦もあり、秋山徳蔵が「天皇の料理番」に内定したのである。

■天皇の料理番-秋山徳蔵が帰国
大正2年、フランス・ニースのオテル・マジェスティックで働いていた秋山徳蔵が呼び出されてフランスの日本大使館へ行くと、日本大使館から、天皇の料理番への就任を要請された。

日本大使館は、大正天皇の即位の大礼で出す料理を、秋山徳蔵に作って欲しいと頼んだのである。

秋山徳蔵はこの大役を断ったが、フランスで色々と世話になった日本大使・栗野慎一郎の強い推薦により、自分に内定していることを知ると、要請を引き受けた。

秋山徳蔵は次男で実家を継ぐ必要がなかったため、フランスで永住しようと考えるようになっていたが、日本大使館からの要請を受けて日本へ帰国する。ただ、このとき、秋山徳蔵は大正天皇の即位の大礼が終われば、再びフランスへ戻るつもりであった。

大正2年3月、秋山徳蔵は24歳で日本へ帰国するが、宮内省で働くには身元調査が必要なため、直ぐには宮内庁に就職できず、秋山家に下宿しながら、大正2年4月から東京倶楽部の料理部長として勤務する。

その一方で、秋山徳蔵は大正2年6月に、フランス料理の権威オーギュスト・エスコフィエの著書を翻訳した「仏蘭西料理全書(フランス料理全書)」を出版する。

ところで、秋山徳蔵が下宿する秋山家には、17歳の秋山俊子という1人娘がいた。秋山俊子は明石町にある双葉女学校に通うクリスチャンであった。

大正2年7月、秋山徳蔵は次男だったので家を継ぐ必要は無く、下宿先の娘・秋山俊子と結婚し、秋山家へ養子に入る。

そして、宮内庁の身元調査は半年ほどで終わり、秋山徳蔵は大正2年10月に宮内庁大膳寮に就職し、大正2年11月に宮内省大膳寮司厨長(料理長)に任命され、「天皇の料理番」となる。

司厨長(料理長)は秋山徳蔵の為に新設された役職で、後に「主厨長」という名称に変更される。

■天皇の料理番-秋山徳蔵がコックをリストラ
秋山徳蔵は25歳の若さで宮内省大膳寮の司厨長(料理長)に任命され、「天皇の料理番」となったが、以前から宮内省大膳寮で働いている年配のコックは、洋行帰りの若造の下で働くことが面白くなかったので、秋山徳蔵に反発した。

秋山徳蔵が剥いたジャガイモは、テーブルで転がすと、一直線に転がる。どれを転がしても、同じように転がり、同じ場所で止まった。秋山徳蔵は高い技術と強い熱意を持っており、他のコックにも最高の仕事を求めた。

年寄りのコックが「そんなもの味には関係無い」と馬鹿にすると、秋山徳蔵は「ここは天皇陛下の食事を作る場所だ。常に最高の料理を作らなければならない」と断じた。

そこで、秋山徳蔵は、技術が足りなかったり、手抜きをするコックをクビにする一方で、クビにしたコックに紹介状を持たせ、再就職を斡旋した。そして、大膳寮には秋山徳蔵に付いていく気持ちのあるコックだけが残った。

■天皇の料理番-半蔵門への電話
ある日、大膳寮の若いコックが「こんな所、辞めてやる」と怒った。秋山徳蔵が目を掛けていたコックなのだが、秋山徳蔵以上に短気なところがあった。

秋山徳蔵が「ああ、辞めてしまえ」と言うと、若いコックが厨房を飛び出したので、周りに居たコックも心配した。

しかし、秋山徳蔵は心配もせず、司厨長室へ行くと、半蔵門(皇居の出入り口の1つ)に電話をかけ、「そっちへ、大膳の若いコックが行くと思うんで、話があるから引き返すように言ってください」と頼んだ。

大膳寮から半蔵門までは徒歩で10分ほどかかる。10分も歩けば、コックの頭が冷え、飛び出したことを後悔しているころなので、秋山徳蔵は半蔵門に電話して、コックに引き返す口実を与えていたのである。

■天皇の料理人-大膳頭の福羽逸人
この時の大膳頭(大膳の責任者)は、農学博士・福羽逸人であった。福羽逸人は学者にして栽培や接ぎ木の名人で、新宿御苑を手がけ、日本のイチゴ栽培に貢献した人物である。

秋山徳蔵は大膳寮司厨長になっても短気は変わらず、どんな偉い人にでもズケズケと物を言ったが、大膳頭の福羽逸人だけは心から尊敬した。

秋山徳蔵は尊敬する大膳頭の福羽逸人の元で、大正天皇の即位の大礼で出す料理の準備に取りかかった。

実話・天皇の料理番の実話編「天皇の料理番-秋山徳蔵のザリガニのスープ事件のあらすじとネタバレ」へ続く。