真田幸隆(真田幸綱)の生涯

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する真田三代記「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の祖父・真田幸隆編「真田幸隆(真田幸綱)の生涯」です。

真田幸村の生涯のあらすじとネタバレも目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■真田幸村の祖父・真田幸隆(真田幸綱)
真田幸隆(真田幸綱)は永正10年(1513年)に生まれた信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族である。真田幸隆(真田幸綱)の父親には諸説が有り、一説によると、父親は滋野頼昌とされる。

そして、この真田幸隆(真田幸綱)こそが、真田幸村の祖父であり、真田家の基盤を築いた人物である。

真田幸隆(真田幸綱)は、信濃国の名門・滋野御三家の1つ海野氏の支流だとされ、信濃国小県郡を支配する海野氏28代当主・海野棟綱に属していた。

真田幸隆(真田幸綱)は、幼名を「次郎三郎」と言い、元服して「源太左衛門」を名乗り、剃髪して「一徳斎」と称した。

真田幸隆は、元々、海野棟綱から「綱」の一時をもらい「真田幸綱」という諱(本名)だったが、家系を詐称して信濃の名門・滋野御三家「海野氏」の嫡流を名乗るようになると、「綱」を使用していたは不都合が生じるため、諱を「真田幸隆」に変更したとされる。

■海野氏の出自
平安時代、時の天皇・清和天皇に第4皇子の貞保親王が居た。貞保親王は、ツバメの糞が目に入り、眼病を煩ったため、信州国(長野県)を訪れ、浅間山の温泉で深井氏の家に滞在して療養したが、眼病は回復せず、失明してしまった。

失明した貞保親王は、信州国小県郡望月郷海野に土着し、深井氏の娘との間に子供を儲けた。その時に生まれた子供が海野小太郎幸恒と名乗り、初代・海野氏となる。

その後、海野氏は朝廷から滋野姓を賜り、滋野を名乗るようになった。(注釈:貞保親王が京都の滋野という場所に住んでいたことから、子孫は「滋野」姓を名乗るようになったとも伝わる。)

しかし、滋野氏が清和天皇の系統というのは、後世の創作で、実際は滋野恒蔭という人物が信濃介に任じられて信濃国に任官し、信濃国に土着したことから、信濃・滋野氏が始まったとされる。

■真田家の出自
さて、信濃国(長野県)に土着した名門・滋野氏は、「海野」「根津」「望月」の3氏に別れた。この「海野」「根津」「望月」の3氏を「滋野御三家」と呼ぶ。

滋野御三家は鎌倉時代に御家人として活躍し、信州国(長野県)全域と隣国・上野国(群馬県)西部の吾妻郡に広まった。

このうち、滋野御三家の海野氏は、信濃国小県郡と小県郡に隣接する上野国(群馬県)吾妻郡に広まった。

そして、滋野御三家・海野氏の支流である真田幸隆(真田幸綱)が、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を支配したことから、真田氏を名乗るようになった(初代真田氏の誕生の逸話)。

■真田家の誕生に関する注釈
後に、枝族の真田幸隆(真田幸綱)は、本家・海野氏との力関係が逆転し、本家・海野氏の嫡流を名乗るようになります。

このときに、真田幸隆(真田幸綱)が、つじつまを合わせるために家系図を改ざんしたため、真田幸隆(真田幸綱)の祖先については諸説がある状態です。

真田幸村(真田信繁)の先祖を確実に遡ることができるのは、真田幸村(真田信繁)の祖父・真田幸隆(真田幸綱)まで、祖父・真田幸隆(真田幸綱)の父親については、諸説があって真偽不明です。

一般的に祖父・真田幸隆(真田幸綱)が「真田」姓を名乗り始めたと言われていますが、真田幸隆より前の資料に「実田」という一族が登場しており、この「実田」は当て字(誤字)で、真田幸隆より前に真田氏は存在していたという説が主流です。

確実に分ることは、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)に真田幸隆(真田幸綱)という豪族が存在していたことだけで、真田三代の物語は武田信虎(武田信玄の父)の信濃侵攻によって始まります。

■信濃国(長野県)の状況
室町時代、信濃国(長野県)は、守護職の小笠原氏の影響力が低迷しており、村上氏・木曽氏・小笠原氏・諏訪氏・仁科氏・高梨氏・滋野御三家などが割拠していた。

このとき、滋野御三家「海野氏」は、信濃国東部にある小県郡(ちいさがたぐん)を支配し、海野氏28代当主・海野棟綱の時代を迎えていた。

そして、海野一族で信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を拠点とする真田幸隆(真田幸綱)は海野棟綱に属していた。

信濃国小県郡は上野国(群馬県)に隣接していたことから、小県郡の海野棟綱は、上野国(群馬県)を支配する関東管領・上杉憲政の影響下にあった。

■武田信虎の信濃侵攻
一方、隣国・甲斐国(山梨県)の守護職・武田家は没落していたが、武田信虎(武田信玄の父)が甲斐国を統一したことにより、守護職・武田家は復権を果たしていた。

大永6年(1526年)、不安定な立場にあった室町幕府の12代将軍・足利義晴は、甲斐国(山梨県)を統一した武田信虎に注目し、武田信虎に上洛を要請する。

上洛要請を受けた武田信虎(武田信玄の父)は、上洛を目指すため、信濃国(長野県)東部へと侵攻し、信濃国諏訪の豪族・諏訪頼重と数度に渡り戦った末、天文4年(1534年)に諏訪頼重と同盟を結んだ。

このころ、信濃国小県郡を支配する海野棟綱は、信濃国北部を支配する豪族・村上義清と対立していた。

そして、信濃国北部の豪族・村上義清は、小県郡の海野棟綱と対立する一方で、信濃国東部の豪族・諏訪頼重とも対立していた。

しかし、甲斐の武田信虎(武田信玄の父)は、信濃(長野県)北部の豪族・村上義清に、信州国東部への共同侵攻作戦を持ちかけ、武田信虎・諏訪頼重・村上義清の3氏同盟を成立させた。

こうして、武田信虎・諏訪頼重・村上義清の3氏は共同作戦を発動して、武田信虎は信濃国東部の佐久郡へと侵攻し、村上義清・諏訪頼重は信濃国東部の小県郡へと侵攻したのである。

信濃国小県郡の海野棟綱は、隣国・上野国(群馬県)の関東管領・上杉憲政の影響下にあったので、関東管領・上杉憲政に援軍を求めたが、雨の影響で関東管領・上杉憲政の援軍が遅れた。

このため、信濃国小県郡の海野棟綱は、村上義清・諏訪頼重の侵攻を受けて大敗し、隣国・上野国(群馬県)へ逃れて、関東管領・上杉憲政の元に身を寄せた(海野平の戦い)。

信濃国小県郡真田郷を本拠地にしていた真田幸隆(真田幸綱)も「海野平の戦い」で破れて滋野一族と共に隣国・上野国(群馬県)へ逃れ、信濃国小県郡の大半は、信濃国北部の豪族・村上義清の領土となったのである。

真田幸隆(真田幸綱)が武田信玄の家臣になる理由のあらすじとネタバレ」へ続く。

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