真田幸隆(真田信繁)が戸石城を乗っ取る

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する真田三代記「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の祖父・真田幸隆編「真田幸隆(真田信繁)が戸石城を乗っ取る」です。

このページは「武田信玄と村上義清の戸石崩れ(砥石崩れ)」からの続きです。

真田幸村の生涯のあらすじとネタバレも目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■こまでのあらすじ
信濃国の北部・埴科郡にある葛尾城の城主・村上義清は、最盛期には信濃4郡を有し、武田信玄を2度に渡り撃退した強豪である。真田幸隆(真田幸綱)や海野一族から、信濃国小県郡(長野県上田市)を奪ったのも、この村上義清である。

さて、信濃国小県郡(長野県上田市)には、真田幸隆(真田幸綱)が築いた戸石城(砥石城)があった。戸石城(砥石城)は、神川や断崖を利用した天然の要害で、断崖が戸石(砥石)が連なったように見えることから「戸石城(砥石城)」と呼ばれた。

村上義清は、戸石城(砥石城)を改修して信濃国小県郡の拠点としており、戸石城(砥石城)は信濃国小県郡の要所となっていた。

甲斐国(山梨県)の武田信玄は、村上義清から信濃国小県郡を奪うため、戸石城(砥石城)へと攻め寄せたが、戸石城(砥石城)を攻め落とせなかっただけで無く、村上義清の援軍に追撃され大敗してしまう。

村上義清の追撃は悲惨を極め、勇猛果敢な武田軍が武器を捨てて逃げ、武田信玄も影武者を使って命からがら逃げ延びたという有様であったと伝わる。

この戦いは「戸石崩れ(砥石崩れ)」と呼ばれ、武田信玄の2度目の敗北にして、武田信玄の歴史上で最大の失策であった。

■真田幸隆が戸石城を乗っ取る
ところが、翌年の天文20年(1551年)5月26日、真田幸隆(真田幸綱)は、武田信玄が攻めをとせなかった戸石城(砥石城)を簡単に乗っ取ったのである。

詳しい方法は分らないが、真田幸隆(真田幸綱)は調略を使って戸石城(砥石城)を乗っ取ったとされる。

一説によると、真田幸隆(真田幸綱)の弟・矢沢頼綱が村上義清に属しており、矢沢頼綱の内応によって真田幸隆(真田幸綱)は戸石城(砥石城)を乗っ取ったという。

これを受けた武田信玄は、真田幸隆(真田幸綱)を支援するため出陣するとともに、信濃国東部の小県郡・佐久郡へと侵攻し、小県郡・佐久郡の抵抗勢力を一掃し、小県郡・佐久郡を完全に支配下に置いた。

この功績により、真田幸隆(真田幸綱)は外様の家臣にありながら、武田信玄の信頼を勝ち取り、武田信玄から直接、命令を受ける立場に出世し、武田家の家臣・小山田虎満や飯富虎昌とともに信濃国北部侵攻の先鋒を任されたのである。

■真田幸隆(真田幸綱)が旧領土を回復
戸石城(砥石城)の戦いで武田信玄を撃退した信濃国(長野県)北部の豪族・村上義清は、攻勢に出ていた。

しかし、真田幸隆(真田幸村の祖父)が戸石城(砥石城)を乗っ取ると、一気に形成が逆転し、武田信玄に敵対する信濃国(長野県)の豪族の間に動揺が走る。

信濃国佐久郡と小県郡を平定した武田信玄は天文22年(1553年)、村上義清との雌雄を決するため、信濃国(長野県)北部へと侵攻すると、村上義清に属していた豪族は次々と武田信玄に寝返った。

すると、村上義清は居城・葛尾城が敵方に包囲されそうになったため、天文22年(1553年)4月に居城・葛尾城を捨てて隣国の越後(新潟県上越市)へと逃れ、越後(新潟県)の大名・上杉謙信(長尾景虎)を頼ったのである。

武田信玄は村上義清が居城・葛尾城から逃げた勢いに乗じて、信濃国北部の川中島へと侵攻しようとしたが、武田信玄の先鋒は南下してきた上杉謙信・村上義清の連合軍に攻められ、葛尾城が奪われてしまう。

これを受た武田信玄は甲府(山梨県甲府市)まで撤退すると、村上義清は勢いに乗じて信州国東部へと侵攻し、信州国小県郡を武田信玄から奪い返した。

しかし、兵を立て直した武田信玄が再び信濃国小県郡へと侵攻すると、村上義清は次第に劣勢となり、終いには越後(新潟県)の大名・上杉謙信(長尾景虎)の元に亡命したのである。

こうして、村上義清は越後(新潟県)へと亡命したので、信州国小県郡は武田信玄の支配下になり、真田幸隆(真田幸村の祖父)は本願であった旧領土・信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を回復する事が出来た。

さらに、武田信玄が子供を人質として差し出すことを条件に、信濃国の秋和(長野県上田市)に350貫を与えると言ってきたので、真田幸隆(真田幸綱)は天文22年(1553年)8月、7歳の三男・真田昌幸(真田幸村の父)と四男・真田信尹を人質として武田信玄の元に送り、秋和(長野県上田市)350貫を拝領した。

大名が家臣から人質を取るのは一般的なことで、これは裏切りを防ぐための人質であると同時に、預かった人質を教育して優秀な武将を育成するためである。

こうして、真田幸隆(真田幸綱)は武田信玄の信濃侵攻で活躍し、武田家の家臣としての地位を確立すると共に、村上義清に奪われた旧領土・信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を回復し、真田家の基盤を確立したのであった。

■真田幸隆(真田幸綱)が海野嫡流を名乗る
元々、信濃国小県郡は滋野御三家の海野氏が支配していたが、海野一族は村上義清の侵攻を受け、隣国・上野国(群馬県)へと逃れ、関東管領・上杉憲政の元で失地回復を目指した。

しかし、真田幸隆(真田幸綱)は、関東管領・上杉憲政に見切りを付け、海野一族と袂を分かち、武田信玄の家臣となり、村上義清に奪われた旧領土・信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を回復した。

これによって、海野氏の支流の真田幸隆(真田幸綱)と本家・海野氏の力関係が逆転した。海野氏28代当主・海野棟綱の名前は登場しなくなっており、動向は分からない。一説によると海野棟綱は戦死したという。

このため、真田幸隆(真田幸綱)は、家系図を改ざんして海野氏の嫡流を名乗るようになる。そして、諱(本名)を「真田幸綱」から「真田幸隆」へと変更したという。

真田幸綱という諱(本名)は、本家の海野棟綱から「綱」の一字を拝領したものであり、家系を改ざんして海野氏の嫡流を名乗るようになると、「綱」の字が邪魔になったので、諱を「真田幸隆」へと変えたと考えられている。

■川中島の戦い
信濃北部の豪族・村上義清が武田信玄に破れ、越後(新潟県)の大名・上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後へと亡命すると、上杉謙信(長尾景虎)が信濃北部へと侵攻を開始し、世に言う「川中島の戦い」が始まることになる。

川中島とは、信濃国(長野県)北部を流れる犀川と千曲川の間にある三角地帯で、物流・経済の要所である。

天文22年(1553年)4月に信濃国北部の強敵・村上義清を追放した武田信玄は、順調に信濃国(長野県)北部を北上し、川中島へと迫った。

しかし、村上義清を保護した越後(新潟県)の上杉謙信が信濃国(長野県)を南下してきており、武田信玄と上杉謙信は川中島で激突したのである(第1次・川中島の戦い)。

以降、武田信玄と上杉謙信は、11年間の間に5度に渡り、川中島の覇権を争って劇とした。この5度の戦いを総称して「川中島の戦い」という。

武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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