真田昌幸と武田勝頼の滅亡-木曾義昌と小山田信茂の裏切り

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を実話で描く真田三代「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「真田昌幸の生涯-木曾義昌と小山田信茂の裏切りと武田勝頼の滅亡のあらすじとネタバレ」です。

このページは「実話・真田昌幸-御館の乱と沼田景義の挙兵と海野幸光の裏切り」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■これまでのあらすじ
武田信玄の死後、武田家の家督を引き継いだ武田勝頼は、徳川家康の三河(愛知県東部)侵攻へと侵攻したが、「長篠の戦い」で織田信長・徳川家康の連合軍に大敗して大勢の武将を失った。

次第に領土を縮小していく武田勝頼は、この状況を打破するため、相模(神奈川県)の北条氏政と甲相同盟を結んだ。

そのようななか、越後(新潟県)の上杉謙信が死去し、上杉景虎(北条氏康の7男)と上杉景勝(上杉謙信の甥)が上杉謙信の後継者を争った(御館の乱)。

武田勝頼は北条氏政の要請を受けて上杉景虎(北条氏康の7男)を支援するため、越後(新潟県)へと侵攻したが、上杉景勝(上杉謙信の甥)から黄金と領土の譲渡を提示され、上杉景勝(上杉謙信の甥)と同盟を結んだ。

最終的に上杉景勝(上杉謙信の甥)が「御館の乱」を制して上杉謙信の後継者になると、武田勝頼は外交方針を転換し、上杉景勝との甲越同盟を強化した。

これに怒った北条氏政は武田勝頼との甲相同盟を破棄し、三河の徳川家康と同盟を結んで、武田勝頼の駿河・遠江(静岡県)へと侵攻を開始したのであった。

■高天神城の戦い
遠江国にある高天神城(静岡県掛川市)は、天正3年(1575年)に武田勝頼が長篠の戦いで敗北して以降も、徳川家康に抵抗し続けていた。

高天神城は徳川家康の兵糧攻めに遭うが、武田勝頼は高天神城に援軍を送ることが出来ず、天正9年(1581年)1月に高天神城は落城してしまう。

武田勝頼は高天神城に援軍を送れなかった事により、信用が失墜し、武田家滅亡の道を歩み始めることになる。

■武田家の滅亡のあらすじ
北条氏政・徳川家康の侵攻を受け、駿河・遠江(静岡県)方面で劣勢に立たされた武田勝頼は、織田信長との和睦を模索していたが、武田勝頼は織田信長との和睦に失敗してしまう。

このため、武田勝頼は天正9年(1581年)、織田信長・徳川家康への備えとして新府城(山梨県韮崎市中田町)の建設を命じ、新府城の普請を開始した。

(注釈:通説では真田昌幸が新府城の普請や縄張りを担当したとされているが、実際は作事奉行だったされる。)

さらに、武田勝頼は家臣の反対を押し切り、新府城への転居を決定し、未完成の新府城へ移った。しかし、武田勝頼に付いてきたのは、武田勝頼の側近だけだったという。

■木曾義昌の離反のあらすじとネタバレ
甲斐の武田家は金山を有していたが、武田信玄の末期になると、金の産出量が激減しており、武田家の財政は悪化していたという。

武田信玄は兵役を果たした者の税金を免除する特例を設けていたが、武田勝頼はその特例を廃止していたので、家臣は新府城の普請の負担が重くのしかかり、不満が募っていた。

また、武田勝頼は、徳川家康に攻められていた高天神城に援軍を送れず、高天神城は天正9年に落城したため、信頼を失っていた。

このようななか、天正10年(1582年)2月、美濃との境を守っていた信濃(長野県)の豪族・木曾義昌は、武田信玄の娘を妻に迎えた武田家の一門であったが、新府城普請などの重い負担に嫌気が差し、織田信長に寝返ったのである(木曾義昌の離反)。

すると、織田信長は木曾義昌の寝返りを切っ掛けに、信濃国(長野県)へと侵攻し、徳川家康も駿河国(静岡県)へと侵攻する(織田信長の野望-甲斐征伐)。

武田勝頼は家臣の信頼を失っていたため、織田信長・徳川家康の侵攻を受けた豪族は戦うこと無く、織田信長・徳川家康に下っていく。

さらに、天正10年(1582年)2月に浅間山(長野県北佐久郡軽井沢町)が噴火する。浅間山の噴火は異変の前兆と信じられており、武田勝頼に付いていた神々が武田勝頼を見放したという噂が流れ、武田軍の間に大きな動揺が起こった。

このようななか、駿河国にある江尻城(静岡県静岡市清水区江尻町)の城主・穴山信君(母親は武田信玄の姉)が徳川家康に寝返ったのである。

武田勝頼は織田信長を迎え撃つため、信濃国諏訪まで出陣していたが、穴山信君(梅雪斎不白)が徳川家康に寝返ったという知らせを受け、撤退を余儀なくされ、軍議を開いた。

■武田勝頼の野望の最終回
天正10年(1582年)2月、武田勝頼が信濃国諏訪で軍議を開くと、真田昌幸は「甲斐(山梨県)へ戻っても周りは敵ばかりです。それがしの領地である吾妻郡の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へお入りください」と進言した。

岩櫃城は上野西部で有数の要害だったので、岩櫃城に籠もって国境を塞ぎ、同盟国の上杉景勝の支援を受ければ、織田信長・徳川家康に対抗できると、真田昌幸は考えたのである。

すると、武田勝頼が真田昌幸の提案を受け入れたので、真田昌幸は武田勝頼を受け入れる準備を始めるため、一足先に武田勝頼の元を離れて岩櫃城へ戻った。

ところが、真田昌幸が武田勝頼の元を離れた後、武田家一門の小山田信茂が、武田勝頼に自分の居城・岩殿城(山梨県大月市)に籠城する事を勧めた。

さらに、武田勝頼の側近・長坂長閑斎(長坂光堅)も「真田は新参者の外様で信用できない」と言い、小山田信茂の意見を支持したので、武田勝頼は岩殿城に籠城する事になった。

こうして、新府城へ戻った武田勝頼は、織田信長や徳川家康に寝返った家臣の人質を殺して新府城に火を放ち、小山田信茂の居城・岩殿城へと向かった。このとき、武田勝頼は、真田昌幸から人質にとっていた真田幸村らを解放したという。

しかし、武田勝頼が岩殿城へ入場する前に、小山田信茂は織田信長に降伏しており、武田勝頼は岩殿城へ入ることは出来なかった。

このため、武田勝頼は天目山棲雲寺を目指したが、織田軍・滝川一益の軍勢に追撃されたため、滝川一益との決戦に及び、武田勝頼は壊滅的な被害を受け、最期は自害した(武田家の滅亡)。

■真田昌幸(真田幸村の父)が織田信長に属す
さて、岩櫃城へと入った真田昌幸は、武田勝頼を迎える準備をしていたが、武田勝頼が岩殿城へ向かったという知らせが来たので、武田勝頼の援軍に向かった。しかし、途中で戦況を聞き、引き返したという。

その一方で、相模(神奈川県)の北条氏政が上野(群馬県)へ侵攻していたので、真田昌幸は沼田城の矢沢頼綱に兵糧を放出して浪人を雇い入れるように命じて北条氏政に備えさせた。

そのようななか、天正10年(1582年)3月12日、北条家の北条氏邦から「八崎城主・長尾憲景への2通の手紙を見た。この度の武田家滅亡の件は是非も無いことだ。北条氏政に忠義を示すのは今しかない」という書状が届いた。

この書状を根拠に、真田昌幸は武田家の滅亡前から、上野国の八崎城の長尾憲景を通じて、北条氏政と帰属交渉をしていたと考えられている。(注釈:しかし、この手紙は北条氏邦からの一方的な勧誘の手紙だと反論する説もある)

さて、武田家が滅亡して、織田信長の5男・織田勝長(織田源三郎信房)が上野(群馬県)へと侵攻すると、上野国(群馬県)の豪族が続々と織田信長に帰順した。

真田昌幸は武田家の滅亡前から、北条氏政への帰属交渉を始めていたが、交渉役となっていた八崎城の長尾憲景らも織田信長に下ったので、真田昌幸も織田信長に帰順した。

こうして、武田家の領土のうち、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の3国が織田信長の支配下となった。

そして、織田信長は、論功行賞で家臣・滝川一益に上野(群馬県)1国と信濃(長野県)の小県郡・佐久郡を与え、関東管領に任じて関東方面を治めさせた。

真田昌幸は織田信長に下り、領土の一部を安堵されたが、沼田城などは明け渡し、滝川一益の傘下に組み込まれたようである。

こうして、関東管領となった滝川一益は、箕輪城(群馬県高崎市)を経て、天正10年(1582年)5月に厩橋城(群馬県前橋市)へ入り、甥の滝川儀太夫(滝川益重)を沼田城(群馬県沼田市)に入れた。

ところが、武田家の滅亡から3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日、織田信長は京都の本能寺で、家臣・明智光秀に討たれて死去するという事態が発生した(本能寺の変)。

すると、織田信長の領土となっていた旧・武田領は空白地帯となり、越後(新潟県)の上杉景勝、相模(神奈川県)の北条氏政、三河(愛知県東部)の徳川家康の3氏が旧・武田領へと侵攻を開始するのであった。

こうして、世に言う「天正壬午の乱」が勃発したのであった。

真田昌幸の生涯-天正壬午の乱-依田信蕃と徳川家康のあらすじとネタバレ」へ続く。

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しかし裏切り者・小山田信茂の子孫(娘・香具姫)が後に武田宗家立て直し(伊豆大島流刑後、磐城平藩内藤家による保護と香具姫の娘との結婚)や、松代藩真田家3代目(昌幸の曾孫と信茂の曾孫が結婚していた為)のピンチを助けるとは誰も想像していなかった。…と言う話もあり人の縁って面白いものです。

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