真田昌幸と天正壬午の乱-依田信蕃と徳川家康

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を実話で描く真田三代「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「真田昌幸の生涯-天正壬午の乱-依田信蕃と徳川家康のあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田昌幸と武田勝頼の滅亡-木曾義昌と小山田信茂の裏切りのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■これまでのあらすじ
天正10年(1582年)3月、武田勝頼は織田信長・徳川家康の侵攻を受けて滅亡し、武田領のうち、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の3国が織田信長の支配下となった。

真田昌幸は武田家の滅亡前から、上野国の八崎城の長尾憲景を通じて、北条氏と帰属交渉を開始していたが、織田信長の上野(群馬県)侵攻を受けて、織田信長に帰属し、領土の一部が安堵された。

そして、織田信長は家臣・滝川一益に上野(群馬県)と信濃国の小県郡・佐久郡を与えたので、真田昌幸は岩櫃城などを明け渡し、滝川一益の与力となった。

ところが、天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺で家臣・明智光秀によって討たれて死亡し、旧武田領の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の3国は領主不在の空白地となった。

すると、越後(新潟県)の上杉景勝、相模(神奈川県)の北条氏直、三河(愛知県東部)の徳川家康が旧・武田領へと侵攻し、「天正壬午の乱」が勃発するのでった。

なお、相模(神奈川県)の北条家(後北条家=伊勢北条氏)は、4代目当主・北条氏政が隠居して、5代目当主・北条氏直が当主となっているが、実権は4代目当主・北条氏政が握っている。

■北条氏直の上野侵攻
天正10年(1582年)6月、相模(神奈川県)の北条氏直は、織田信長が死んだと確信すると、上野国(群馬県)へと侵攻し、「神流川の戦い」で織田家の家臣・滝川一益を撃破すると、上野国(群馬県)の平定に着手した。

戦いに敗れた滝川一益は諸豪族から集めていた人質を解放したので、真田昌幸はこれに感謝し、滝川一益を護衛して木曽路まで送り届けたので、滝川一益は本国・伊勢まで逃げる事が出来た。

しかし、滝川一益は信濃(長野県)に居たので、天正10年(1582年)6月27日に開かれた清洲会議に出られず、織田家での地位が失墜する。

一方、越後(新潟県)の上杉景勝が信濃北部へと侵攻しており、信濃(長野県)北部や信濃東部の豪族が上杉景勝に帰属する。

信濃国東部の小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を本領とする真田昌幸も、周辺の状況を見て上杉景勝に帰属するとともに、混乱に乗じて領土の拡大を図り、空白地となっていた上野(群馬県)西部の岩櫃城や、上野東部の沼田城に人を入れ、吾妻・沼田を真田家の領土とした。

一方、北条氏直は滝川一益を撃破した勢いで上野(群馬県)を完全に平定しようとしたが、沼田の豪族などの抵抗を受けたので、上野の平定を諦めて隣国・信濃(長野県)へと転進した。

そして、北条氏直が信濃国(長野県)東部へと侵攻すると、上杉景勝に帰属していた信濃国東部の佐久郡や小県郡の豪族が続々と北条氏直に寝返ったので、真田昌幸も上杉景勝から北条氏直へと寝返り、北条氏直に属した。

■徳川家康の信濃侵攻
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きたとき、徳川家康は堺(大阪府堺市)に滞在していた。

そして、織田信長の死を知った徳川家康は、落ち武者狩りを回避するため、伊賀国の山道を越え、2日後の6月4日に本国・三河(愛知県東部)へと逃げ延びる。

徳川家康は、天正10年(1582年)6月5日に明智光秀討伐の準備を開始し、翌6月6日には武田家の旧臣・岡部正綱に甲斐侵攻の準備を命じるとともに、武田家の旧臣を支援して、旧領土を回復させた。

その一方で、徳川家康は天正10年(1582年)6月15日に明智光秀討伐の兵を起こし、京都を目指して進軍した。

しかし、中国地方で毛利輝元と対立していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、毛利輝元と和睦して中国地方から舞い戻り、天正10年(1582年)6月13日に山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で明智光秀を撃破していた(天王山の戦い=山崎の戦い)。

徳川家康は尾張(愛知県西部)で明智光秀の敗戦を聞くと、直ちに兵を引き返し、甲斐(山梨県)侵攻へと切り替えた。

さて、甲斐(山梨県)は織田信長の家臣・河尻秀隆が拝領しており、河尻秀隆が甲斐の国主となっていた。織田信長の死後、織田信長の家臣は旧武田領から撤退を開始していてが、河尻秀隆は撤退せずに甲府の国主として残っていた。

徳川家康は甲斐(山梨県)を狙っていたものの、織田家とは対立できないので、家臣・本多信俊を派遣して、河尻秀隆に撤退を勧めたが、疑心暗鬼に陥っていた河尻秀隆は本多信俊を処刑してしまう。

このため、徳川家康は、武田家の旧臣を支援して甲斐(山梨県)で一揆を起こさせたと伝わる。

河尻秀隆は甲斐(山梨県)で起きた一揆を鎮圧できず、一揆を起こした武田家の旧臣・三井弥一郎に殺害された。

こうして、織田家の家臣・河尻秀隆が死んで、甲斐(山梨県)が国主不在の空白地となると、徳川家康は甲斐へと侵攻し、甲斐を支配下に置いたのである。

また、徳川家康は信濃国(長野県)でも武田家の旧臣を支援しており、徳川家康の支援を受けた武田家の旧臣が信濃国の伊那郡・筑摩郡・安曇郡などを回復することに成功したので、徳川家康は信濃国南部も支配下に置いた。

しかし、徳川家康は信濃国諏訪の豪族との帰属交渉に失敗し、信濃国諏訪の豪族と戦に発展してしまう。

こうして、信濃国(長野県)は、上杉景勝・徳川家康・北条氏直の3氏が争う激戦区となった。

■北条氏直の甲斐侵攻
さて、北条氏直に帰属した真田昌幸は、調略によって上杉景勝に属している信濃国・海津城の城代・春日信達(高坂昌元)から内応の約束を取り付けていた。

これを受けた北条氏直は、春日信達(高坂昌元)の内応を切り札にして、信濃北部へと侵攻し、上杉景勝と対峙した。

しかし、春日信達(高坂昌元)の内応が上杉景勝に知られてしまい、春日信達(高坂昌元)は処刑されてしまう。

すると、切り札を失った北条氏直は、上杉景勝との決戦を避け、甲斐(山梨県)へと侵攻している徳川家康との対決に方針を転換する。

北条氏直は武田信玄の孫にあたるので、北条氏直が甲斐へ入れば、武田の旧臣が北条氏直に味方すると考えていたという。(注釈:北条氏直の母親は、武田信玄の娘です。)
一方、上杉景勝も本国・越後(新潟県)で家臣・新発田重家に不穏な動きがあるため、信濃北部を制圧すると、北条氏直の和睦に応じ、本国・越後へと引き上げた。

こうして、北条氏直は甲斐(山梨県)へと転進するが、真田昌幸は上杉景勝のと決戦を主張していたので、甲斐(山梨県)侵攻が不満だったらしく、殿(しんがり)を願い出て、上杉景勝への押さえとして信濃国小県郡へ留まった。

■真田昌幸が徳川家康に属す
天正10年(1582年)8月、北条氏直が甲斐(山梨県)へと侵攻すると、兵力差で劣勢に立たされた徳川家康は新府城(山梨県韮崎市中田町)へ入り、北条氏直の大軍と対峙した。

これに対し、北条家の北条氏忠・北条氏勝は、徳川家康の背後を突くため、1万の大軍を率いて甲斐(山梨県)西部へと侵攻したが、徳川家康の家臣・鳥居元忠ら2000の軍勢に敗北してしまう(黒駒合戦)。

このようななか、信濃国(長野県)東部の佐久郡では、佐久郡で唯一、徳川家康に属していた依田信蕃が三澤小屋に籠もり、ゲリラ戦を展開して北条軍と戦っていた。

春日城の城主・依田信蕃は武田家の旧臣で、徳川家康の調略を受けて徳川家康に属しており、信濃国佐久郡へと侵攻してきた北条軍と戦っていたが、北条軍に攻め込まれたため、居城・春日城を捨てて三澤小屋に籠もり、ゲリラ戦を展開して北条軍に抵抗していたのである。

信濃国佐久郡で徳川家康に属するのは、依田信蕃だけだったので、徳川家康は援軍や金を送って依田信蕃を支援したが、依田信蕃は兵糧不足に苦しんでおり、大きな成果は上げられなかった。

そこで、徳川家康はこの状況を打破するため、依田信蕃に信濃国小県郡の真田昌幸を味方に引き入れるように命じた。

一説によると、依田信蕃と真田昌幸は武田信玄の元で共に信濃先手衆として活躍した仲間で、依田信蕃も真田昌幸と同じ信濃の名門・滋野一族だとされる。

依田信蕃も以前から「小県郡の真田昌幸さえ味方に付ければ、後の小者はどうにでもなる」と考えていたので、徳川家康の要請を受けて、津金寺の僧を使者として真田昌幸の元に送った。

さて、真田昌幸は北条氏直に下ったが、北条氏直は上野国(群馬県)全土の平定を公言していたため、上杉への押さえという口実で、北条氏直の甲府(山梨県)侵攻には参加せず、信濃国小県郡真田郷に残っていた。

そして、真田昌幸は、北条氏直の侵略に備えて、上野国(群馬県)の吾妻領・沼田領の備えを強化しているところだったので、依田十郎左衛門の誘いに乗った。

そこで、依田信蕃は2度目の使者として依田十郎左衛門を派遣しすると、3度目の交渉では、真田昌幸が佐久郡の芦田城へと出向き、依田信蕃と対面した。

この他にも、日置五右衛門尉や真田信尹(真田昌幸の弟)が、真田昌幸と徳川家康の交渉にあり、真田昌幸は徳川家康に帰属することを決めた。

その結果、真田昌幸は徳川家康に寝返る起請文を提出したので、徳川家康は天正10年9月28日、真田昌幸に「上州長野一跡(上野西部の豪族・長野氏の旧領地)、甲州(山梨県)において2000文貫、信濃国(長野県)諏訪郡と現在の知行を安堵」を約束した。

徳川家康が出した恩賞は破格の好待遇だが、上州(群馬県)は敵地だったり、諏訪郡は依田信蕃に与えることを約束しており、実際には恩賞が期待できない空手形だった。

徳川家康が真田昌幸に約束した恩賞の内容を知った依田信蕃は、真田昌幸に「私が拝領した信濃国諏訪郡を貴殿に譲ろう。私は上野国(群馬県)の敵地を拝領し、自分で切り取ることにいたす」と言い恩賞を譲ったという。

そして、依田信蕃は徳川家康に「私が信濃国諏訪郡を賜ったのに、真田昌幸に一郡を与えないのでは、約束が違います。私は信濃国諏訪郡を返上しますので、信濃国諏訪郡を真田昌幸にお与えください」と申し出たと伝わる。

こうして、真田昌幸は天正10年(1582年)9月に北条氏直を裏切り、依田信蕃の誘いに応じて徳川家康に寝返ると、兵糧不足に苦しんでいた依田信蕃に兵糧を送り、北条氏直の信濃国佐久郡へと侵攻する。

そして、真田昌幸と依田信蕃は、次々と信濃国東部・佐久郡の北条勢力を駆逐して、上野国(群馬県)と信濃国(長野県)の国境にある碓氷峠を制圧し、北条軍の食料補給路を断った。

■徳川家康が北条氏直と和睦
甲斐(山梨県)へと侵攻した北条氏直の大軍は未だに健在であったが、真田昌幸・依田信蕃に食料補給路を断たれたうえ、常陸国(茨城県)の佐竹義重が上野国(群馬県)の北条領へと侵攻してきたため、北条氏直は一気に劣勢に立たされた。

一方、徳川家康は単独で北条氏直の大軍を撃破するだけの力は無く、織田家からの援軍を得て北条氏直と対決する予定であったが、織田家で羽柴秀吉と柴田勝家の後継者争いが起こったため、織田家からの援軍は中止なっていた。

さらに、冬が間近に迫っていた事もあり、徳川家康と北条氏直は、織田信雄(織田信長の次男)の斡旋を受けて、天正10年(1582年)10月29日に和議を結んだ。

そして、北条氏直が徳川家康の次女・督姫を正室に迎え、徳川家康と北条氏直は同盟を結んだ。

この和議で、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏政の領土とすることが決まり、領土交換が行われた。

このため、上野国(群馬県)の吾妻領・沼田領を支配していた真田昌幸は、徳川家康と北条氏政の領土交換に巻き込まれることになった(真田昌幸の沼田領土問題)。

しかし、真田昌幸は徳川家康から代替地を与えられていない事を理由に吾妻領・沼田領の明け渡しを拒否した。

徳川家康と真田昌幸との関係は険悪になりつつあったが、徳川家康は信濃国(長野県)北部を支配する上杉景勝との対決を目指しており、真田昌幸の沼田領土問題を黙認し、信濃北部への侵攻を目指したのであった。

徳川家康が真田昌幸に激怒!室賀正武の暗殺計画のあらすじとネタバレ」へ続く。

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