徳川家康が真田昌幸に激怒!室賀正武の暗殺計画
NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を実話で描く真田三代「実話・真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「徳川家康が真田昌幸に激怒!室賀正武の暗殺計画のあらすじとネタバレ」です。
このページは「真田昌幸と天正壬午の乱-依田信蕃と徳川家康のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
■これまでのあらすじ
武田家が滅亡した後、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田昌幸は、織田信長→上杉景勝→北条氏政→徳川家康と寝返り、領土を守りながらも、混乱に便乗して上野国西部の吾妻郡から上野西部の沼田までを領土化した。
その後、対立していた徳川家康と北条氏直が和睦する。この和睦の条件が、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏直の領土とするという条件だった。
このため、徳川家康に属していた真田昌幸は、徳川家康から上野(群馬県)の吾妻・沼田の引き渡しを求められたが、代替地を与えられていない事を理由に吾妻・沼田の引き渡しを拒否した(真田昌幸の沼田領土問題)。
徳川家康と真田昌幸の関係は険悪になりつつあったが、徳川家康は真田幸村の沼田領土問題を黙殺して、信濃北部を支配する上杉景勝との決戦を挑もうとしていた。
■室賀正武の降伏のあらすじとネタバレ
天正11年(1583年)、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を拠点とする真田昌幸は、信濃国小県郡(長野県上田市)の反徳川勢力を駆逐して、信濃国小県郡の大半を平定した。
一方、信濃国佐久郡にある春日城の城主・依田信蕃は、佐久郡の反徳川勢力を撃破し、佐久郡の大半を平定したが、天正11年(1583年)2月に岩尾城を攻めたさい、鉄砲で撃たれて死亡してしまう。
天正11年(1583年)3月、徳川家康は上杉景勝が支配する信濃北部への侵攻を命じ、同年4月には徳川家康が甲府に布陣する。
天正11年(1583年)9月、徳川家康は信濃国へ出向いて、信濃国の仕置きを行い、真田昌幸は本領を安堵された。
さて、真田昌幸は信濃国小県郡にある室賀城の城主・室賀正武と対立しており、真田昌幸は徳川家康から本領を安堵されると、対立する室賀正武への圧力を強めた。
すると、室賀正武は不本意ながらも和睦を願い出たので、真田昌幸は室賀正武との和睦に応じた。
■真田昌幸の上田城のあらすじとネタバレ
さて、真田昌幸が支配する信濃国小県郡上田(長野県上田市)に尼ヶ淵の古城(尼ヶ淵城)があった。
尼ヶ淵城は信濃国(長野県)の交通の要所だったので、真田昌幸は尼ヶ淵城を信濃北部へ侵攻する拠点にするという名目で、徳川家康の兵を借りて尼ヶ淵城を大改修を開始する。
こうして完成するのが、真田家の居城となる上田城で、一説によると、真田昌幸が上田城と名付けたことにより、この地域を「上田」と呼ぶようになったという。
(注釈:徳川家康は信濃北部侵攻を狙っていたので、尼ヶ淵城の改修を大いに支援した。実質的には徳川家康が上田城を普請し、真田昌幸に与えたことになる。)
さて、真田昌幸が上田城の普請を開始すると、上杉景勝は上田城の普請を阻止するため、上田城の北西部にある虚空蔵山城に兵を集結させ、上田城を攻めようとした。
しかし、徳川側の松本城の城主・小笠原貞慶が、その隙を突いて上杉景勝の青柳城を攻めたため、上杉景勝は青柳城の援軍に向かった。
このため、上杉景勝の上田城攻めは中止となり、真田昌幸は徳川家康の力を借りて天正12年(1584年)に「上田城」を完成させると、上田城を居城とした。(注釈:これまでは戸石城を居城としていた。)
上田城は信濃(長野県)の交通の要所で、平地に築かれた平城だったが、当時では珍しい総構えを有し、千曲川や湿地帯などを利用した要害である。
こうして、真田昌幸は信濃北部侵攻を口実に、徳川家康を利用して上田城を手に入れたのである。
■徳川家康と豊臣秀吉の対立
織田信長の後継者となった豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、織田信雄(織田信長の次男)と対立を深めていた。
徳川家康は織田信雄(織田信長の次男)を擁立して、豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立し、四国の長宗我部らと同盟を組んで、豊臣秀吉(羽柴秀吉)を封じ込めようとした。
徳川家康は「小牧・長久手の戦い」で勝利して優勢にあったが、豊臣秀吉(羽柴秀吉)は政治力を駆使して織田信雄(織田信長の次男)と和睦に持ち込んだ。
このため、徳川家康は豊臣秀吉(羽柴秀吉)と戦争をする大義名分を失い、停戦したものの、徳川家康と豊臣秀吉(羽柴秀吉)は一触即発の状況に合った。
そこで、徳川家康は早急に、北条氏直との同盟を強化し、背後の安全を確保する必要に迫られた。徳川家康は2方向の敵と戦うほどの余裕は無かったのである。
以前に徳川家康と北条氏直が和睦したとき、北条氏政は甲斐国(山梨県)都留郡と信濃国(長野県)佐久郡を徳川家康に譲渡し、徳川家康は上野国(群馬県)沼田を北条氏政に譲渡するという条件が交わされた。
このため、上野国の吾妻・沼田領を支配する真田昌幸は、徳川家康から吾妻・沼田領を北条氏直に引き渡すように求められていたのだが、真田昌幸は徳川家康から代替地を貰っていない事を理由に引き渡しを拒否していた(真田昌幸の沼田領土問題)。
徳川家康は、上杉景勝の信濃北部へ侵攻するため、この「沼田領土問題」を黙認していたのだが、豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立したため、
ところで、徳川家康と北条氏政が和睦したさい、和睦の条件として、北条氏政は甲斐国(山梨県)都留郡と信濃国(長野県)佐久郡を徳川家康に譲渡し、徳川家康は上野国(群馬県)沼田を北条氏政に譲渡することが決まり、領土交換が行われた。
徳川家康に属していた真田昌幸は、徳川家康から上野国(群馬県)の吾妻領・沼田領を北条氏政への引き渡しを求められたが、徳川家康が代替地を用意できなかったため、引き渡しを拒否し続けていた。
徳川家康は真田昌幸と険悪な関係になりつつあったが、信濃国(長野県)北部を支配する上杉景勝との対立もあるため、沼田領土問題を黙殺していた。
徳川家康は北条氏直から吾妻領・沼田領の引き渡しの督促を受けていたこともあり、豊臣秀吉との対立を切っ掛けに、北条氏直との同盟を強化するため、真田昌幸の沼田領土問題の解決に乗り出したのである。
そこで、徳川家康は大久保忠隣を派遣して真田昌幸に上野国吾妻領・沼田領の引き渡しを命じたが、真田昌幸は断固として拒否した。
■室賀正武が真田昌幸を暗殺
ところで、信濃国小県郡にある室賀城の城主・室賀正武は、不本意ながら真田昌幸に属していたので、徳川家康に真田昌幸への不満を漏らしていた。
そこで、天正12年(1584年)6月、徳川家康は室賀城の城主・室賀正武に「謀りごとを持って真田を討つべし」と、真田昌幸の暗殺を命じた。
しかし、室賀正武の家臣・室賀孫右衛門が真田昌幸に内応していたので、この命令は真田昌幸の知るところとなる。
これを知った真田昌幸は囲碁の観戦を口実に室賀正武を上田城に招いた。
すると、室賀正武は家臣・室賀孫右衛門に命じて徳川家康に報告させ、室賀正武は徳川軍を上田城に引き入れる計画を立てた。
しかし、室賀孫右衛門は既に真田昌幸に内通しているので、室賀正武の計画は上手くいかず、室賀正武は上田城に入ると、真田昌幸に処刑された。
室賀正武の死によって信濃国小県郡で真田昌幸に対立するような勢力は全滅し、真田昌幸は信濃国小県郡を完全に支配するようになる。
■真田昌幸が徳川家康に激怒
天正13年(1585年)4月、真田昌幸の暗殺に失敗した徳川家康は、大軍を率いて甲斐(山梨県)へ入ると、大久保忠隣を使者に送り、軍事力を背景に、真田昌幸に上野国沼田の明け渡しを求めた。
しかし、真田昌幸は「沼田は徳川家康から拝領した領地ではなく、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と拒否した。
これは事実上の断交宣言で、これ以降、真田昌幸は越後(新潟件)の上杉景勝との交渉を本格化させたが、真田昌幸は過去に上杉景勝から北条氏直に寝返った経緯があるため、簡単に上杉景勝の信用は得られなかった。
しかし、粘り強い交渉の結果、上杉景勝は人質を出す事を条件に、天正13年(1585年)7月に真田昌幸の帰属を認め、本領安堵などを約束する9ヶ条の起請書を送った。
(注釈:真田昌幸は信濃国小県郡から上野国の吾妻・沼田にまで支配が及んでいることから、真田昌幸を大名として扱う説がある。真田昌幸を大名として扱う場合は、真田昌幸は上杉景勝に帰属したのでは無く、対等な同盟関係を結んだと考えられている。)
「実話・真田昌幸の生涯-第1次上田城の戦い(神川の戦い)のあらすじとネタバレ」へ続く。
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