真田昌幸の生涯-徳川家康と石川数正の出奔

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を実話で描く真田三代「実話・真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「実話・真田昌幸の生涯-上田城の戦い(神川の戦い)のあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田昌幸の生涯-真田幸村と上田城の戦い(神川の戦い)」からの続きです。

実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■こまでのあらすじ
天正13年(1585年)閏8月、徳川軍の鳥居元忠ら7000の軍勢は、真田昌幸の上田城を攻めたが、真田昌幸に大敗し、信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)へと引き上げた(第1次上田城の戦い=神川の戦い)。

そして、鳥居元忠らは徳川家康から井伊直政・松平康重5000の援軍を受けて兵を立て直し、虎視眈々と上田城を攻める機会をうかがっていた。

対する真田昌幸は、上杉景勝の協力を得て上田城を補強し、上田城をさらなる要害へと発展させていた。

■真田昌幸が豊臣秀吉に帰属する
一方、中央政権では、織田信長の後継者としての地位を確立した豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、天正13年(1585年)7月に関白に就任し、豊臣政権を樹立していた。

そして、天下統一を目指す豊臣秀吉は、四国征伐を開始する一方で、信州・信濃・甲斐方面への調略を開始しており、徳川家康に属していた信濃(長野県)の豪族・小笠原貞慶や木曾義昌を寝返らせていた。

詳しい経緯は不明だが、第1次上田城の戦い(神川の戦い)で徳川軍を撃退した真田昌幸は天正13年(1585年)9月に豊臣秀吉への帰属を申し出で、天正13年(1585年)10月に豊臣秀吉から帰属が許された。

江戸時代の家伝「藩翰譜」によると、このとき、真田昌幸と豊臣秀吉の間を取り次いだのが、大谷吉継である(注釈:後に真田幸村は、大谷吉継の娘を正室に迎える)。

■石川数正の出奔
さて、徳川軍の鳥居元忠は、第1次上田城の戦い(神川の戦い)に失敗した後、井伊直政・松平康重5000の援軍を得て軍を立て直し、信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)で、虎視眈々と上田城攻めの機会をうかがっていた。

しかし、天正13年(1585年)11月に入ると徳川家に重大な問題が発生し、徳川軍の状況が一変する。なんと、徳川家康の右腕である石川数正が、徳川家を出奔し、豊臣秀吉の元に走ったのである。

石川数正は徳川家康が今川義元の人質だった時代からの家臣で、徳川家の重臣中の重臣だった。

小牧・長久手の戦い以降、徳川家康と豊臣秀吉の関係が悪化すると、徳川家の非戦派の重臣・石川数正が豊臣秀吉との関係修復に当っていたのだが、その石川数正が天正13年(1585年)11月13日に突然、徳川家を出奔し、豊臣秀吉の元に走ったのである。

(注釈:石川数正が徳川家を出奔した理由は不明だが、豊臣秀吉の調略に応じて出奔したとされる。)

徳川家の軍事機密を知り尽くしている石川数正が出奔したことにより、徳川家の軍事機密は全て豊臣秀吉の知るところになり、徳川家は大混乱に陥った。

このため、徳川家康は天正13年(1585年)11月、信濃国(長野県)で真田昌幸と対峙していた徳川軍の鳥居元忠らに撤退を命じたのである。

このとき、信濃国(長野県)では、「武田信玄の次男で海野信親(武田竜芳)という目の悪い方が上杉景勝の支援を受けて信濃国へ帰国し、真田昌幸と共に一揆を起こす」という噂が流れていた。

武田信玄の次男・海野信親は既に死んでいたが、次男・海野信親の子・武田信道(顕了道快)が生き延びており、信濃(長野県)で隠れ住んでいたので、真田昌幸がこれを利用して噂を流したと言われている。

(注釈:武田信玄の次男・海野信親は目が悪かったので出家し、武田信玄の家督は四男・武田勝頼が継いだ。次男・海野信親は武田家滅亡の時に自刃して死んだ。)

さて、信濃国に駐留する鳥居元忠らは、徳川家康からの撤兵命令が出たと言えど、真田昌幸の押さえを残しておかなければならなかったが、「武田信玄の次男で海野信親(武田竜芳)という目の悪い方が上杉景勝の支援を受けて信濃国へ帰国し、真田昌幸と共に一揆を起こす」という噂が流れていたため、残留を名乗り出る武将は居なかった。

そこで、徳川軍の大久保忠世は、弟・大久保忠教に真田昌幸の押さえを命じると、弟・大久保忠教は「私は所領が欲しくて残るのではない。主君のために残りましょう」と引き受けた。

喜んだ大久保忠世は、徳川家康に属する信濃国の豪族に、「それぞれの居城に籠もって大久保忠教の指示に従え」と命令を出すと、弟・大久保忠教を真田昌幸の押さえとして、信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)に残し、撤退を開始した。

(注釈:鳥居元忠と菅沼定利も他の城に入って、真田昌幸の押さえとして信濃国に残った。)

このとき、援軍として信濃国(長野県)に来た徳川軍の井伊直政・松平康重の両将は、未だに一戦もしていない事を無念に思い、「敵が追撃してきたら迎え撃つ」と言い、殿(軍の最後尾)を務めた。

さて、真田昌幸の元に、徳川軍が撤退を開始したという知らせが届くと、家臣は「井伊直政・松平康重が4~500騎で、本陣から離れて退いています。追撃すれば、漏らさず討ち取ることができるでしょう」と意見した。

しかし、真田昌幸は、重臣・石川数正が徳川家を出奔したという徳川家の事情を知らなかったので、「若いからと言って井伊直政を侮ってはいけない。井伊直政は確かに小勢ではあるが、軍の退き方を見るに、追撃してくれば、一戦しようと企んでいる。決して敵の思惑に乗ってはいけない」と言い、追撃を禁止した。

このため、井伊直政・松平康重の両将は父・真田昌幸の追撃を受けること無く、易々と信濃国から撤退することが出来た。

こうして、小笠原貞慶・木曾義昌・真田昌幸らが豊臣秀吉に属したので、信濃国の大半は豊臣秀吉の支配下になったが、井伊直政らが真田昌幸の追撃を受けずに引き上げることが出来たので、徳川家康は信濃国の佐久郡・諏訪郡・伊那郡の3郡を確保した。

一方、真田昌幸は石川数正の出奔により、徳川家康の上田城攻めという危機を逃れたのであった。

■徳川家康の軍事再々編
さて、徳川家を知り尽くしている重臣・石川数正の出奔により、徳川家の軍事機密が全て豊臣秀吉に漏洩したため、徳川家康は軍事再編を迫られた。

そこで、徳川家康は、武田家の旧臣に武田家の軍事資料などを提出させ、武田家の軍事編成を元にして新たな軍事編成を行った。こうして、出来た新たな軍事編成は、後の江戸幕府の基礎となる。つまり、江戸幕府の基礎は武田家の軍事編成なのである。

こうして、徳川家康は新たな軍事編成で徳川家の混乱を収め、三河一揆を平定すると、豊臣秀吉に対する備えを増強したのである。

実話・真田昌幸の生涯-表裏比興の者のあらすじとネタバレ」へ続く。

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