実話・真田昌幸の生涯-北条氏直と沼田領土問題
NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を実話で描く真田三代「実話・真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「実話・真田昌幸の生涯-真田昌幸は表裏比興の者のあらすじとネタバレ」です。
このページは「真田幸村の父・真田昌幸は表裏比興の者のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
■北条氏規の上洛
天正14年(1586年)10月に徳川家康を上洛させることに成功して東の安全を確保した豊臣秀吉は、天正15年(1587年)3月に20万の軍勢で九州親征を開始して、天正15年(1587年)4月に島津義久を降伏させ、西日本の統一を成し遂げた。
こうして、日本のほとんどは豊臣秀吉に属したが、関東の北条氏直と東北の伊達政宗は未だに豊臣秀吉に服従していなかった。
一方、相模(神奈川県)の北条氏直は天正14年(1586年)11月、同盟国の徳川家康が豊臣秀吉に服従したことを受け、豊臣秀吉との直接対決に備えて、軍備の増強を開始し、箱根で豊臣軍を迎え撃つため、足柄城・山中城・韮山城を改修した。
さて、西日本を統一し、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は、京都に新居「聚楽第(じゅらくだい)」を完成させ、天正16年(1588年)4月に後陽成天皇の行幸を迎えた。
このとき、豊臣秀吉は各地の大名に上洛を求め、改めて忠誠を誓わせたが、相模(神奈川県)の北条氏直が上洛しなかったため、豊臣秀吉は激怒する。
これを受けた徳川家康は、同盟国の北条氏直に、上洛と豊臣秀吉への服従を要求し、「従わない場合は、同盟を破棄し、北条氏直の正室・督姫(徳川家康の次女)を徳川家に返還せよ」と圧力を掛けた。
すると、北条氏直は豊臣秀吉に従属することを決定し、天正16年(1588年)5月に惣無事令(そうぶじれい)の受け入れと、豊臣派の北条氏規(北条氏直の叔父=北条氏政の弟)を上洛させる事を約束した。
(注釈:惣無事令とは、大名間の私闘を禁じた法律で、薩摩の島津義久は惣無事令に従わなかったため、豊臣秀吉は惣無事令違反を理由に九州征伐を発動していた。)
こうして、天正16年(1588年)8月、豊臣派の北条氏規(北条氏直の叔父)が上洛して、豊臣秀吉に忠誠を誓い、北条家は豊臣秀吉の傘下に入った。
しかし、豊臣秀吉は、前当主・北条氏政か当主・北条氏直を上洛させたかったので、上洛した北条氏規に相談したところ、北条氏規は「沼田領土問題を解決すれば、上洛するのではないか」と答えた。
これを聞いた豊臣秀吉は、北条氏直に恩赦を与え、関東の諸大名にも上洛を要請するとともに、関東の領土問題を裁定することを決め、真田昌幸の沼田領土問題の解決に乗り出したのである。
■真田昌幸の沼田領土問題
沼田領土問題とは、天正10年(1582年)10月に徳川家康と北条氏直が和睦したとき、信濃(長野県)・甲斐(山梨県)は徳川家康の領土とし、上野(群馬県)は北条氏直の領土とするという条件を交わしたが、徳川家康に帰属していた真田昌幸が代替地を貰えていないとして、沼田領を北条氏に明け渡さなかった問題である。
徳川家康は真田昌幸に代替地を用意できなかったため、真田昌幸の沼田領土問題を黙認していたが、豊臣秀吉と対立すると、北条氏直との同盟を強化する必要に迫られ、武力を背景にして真田昌幸に沼田領の明け渡しを迫った。
しかし、真田昌幸は「沼田は徳川家康から拝領した領地では無く、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と言い、徳川家康に手切れを宣告し、越後の上杉景勝に寝返った。
これに怒った徳川家康は、鳥居元忠ら7000の軍勢で真田昌幸の居城・上田城を攻めたが、上田城に立てこもった真田昌幸2000の手勢に大敗してしまう(第1次上田城の戦い)。
徳川軍を退けた真田昌幸は、徳川家康に対抗するため、上杉景勝から豊臣秀吉に鞍替えして、豊臣秀吉に帰属した。(注釈:このとき、上杉景勝は豊臣秀吉と同盟を結んでいた。)
しかし、豊臣秀吉は天正14年(1586年)10月、大政所(豊臣秀吉の生母)を人質として徳川家康の元に送り、徳川家康を上洛させることに成功し、徳川家康が豊臣秀吉に帰属すると、真田昌幸は豊臣秀吉の命令で徳川家康の与力に組み込まれた。
そして、真田昌幸は徳川家康から本領を安堵されたので、沼田領は真田昌幸の領土のままとなっていたのである。
■沼田領土問題の解決編
天正17年(1589年)、豊臣秀吉は北条氏政か北条氏直を上洛させるため、真田昌幸の沼田領土問題の解決に乗り出し、沼田領土問題の経緯を知っている北条家の板部岡江雪斎を呼び出して事情を聞いた。
板部岡江雪斎によると、北条氏直の言い分は「北条氏直は徳川家康と同盟した時に領土を交換しており、沼田領は北条家の領土である。にもかかわらず、未だに徳川家康の家臣・真田昌幸が居座っている」というものであった。
しかし、北条氏直と徳川家康の和睦の条件など豊臣秀吉には関係が無いうえ、沼田領は真田昌幸が独自に切り取った領土であり、北条家は沼田城攻めに何度も失敗していることから、沼田領は真田昌幸の領土するのが妥当であった。
それでも、北条氏直を上洛させる事を優先した豊臣秀吉は、北条家に大きく譲歩し、真田昌幸の沼田領土問題に対して、「沼田領の3分の2を沼田城に付けて北条氏直に与え、3分の1を名胡桃城に付けて真田昌幸の領土とする。沼田領3分の2の代替地は、徳川家康が真田昌幸に与える」という裁定を下した。
豊臣秀吉は北条氏直に大きく譲歩したが、沼田の全域は認めず、「真田家の墳墓がある」という名目で、名胡桃城(なぐるみじょう)を含む沼田領の3分の1を真田昌幸の領土とした。
沼田領に真田家の墳墓があるという事実は無かったが、真田昌幸が何らかの主張をしたため、名胡桃城(なぐるみ城)を含む沼田領3分の1が真田昌幸に与えられたと考えられている。
(注釈:豊臣秀吉は、沼田領土問題について、真田昌幸側からも意見を聞いたはずだが、真田側がどういう主張をしたのかは、資料が残っていないので分からない。)
さて、北条氏政・北条氏直はあくまでも沼田領の全てを領土とする事を望んだが、豊臣秀吉の裁定を拒否すれば、豊臣秀吉と戦争になる事は目に見えているため、ついには豊臣秀吉の要求に屈し、豊臣秀吉の裁定を受け入れ、前当主・北条氏政の上洛を約束した。
これに喜んだ豊臣秀吉は、徳川家康に命じて沼田領の引き渡しを実行させた。天正17年(1589年)7月、沼田城を含む沼田の3分の2が北条氏直に引き渡され、北条氏直は北条氏邦の家臣・猪俣邦憲を沼田城に入れた。
一方、真田昌幸は、名胡桃城に家臣・鈴木主水を入れ、沼田領3分の1を支配した。また、真田昌幸は、北条氏政に明け渡した沼田領3分の2の代替地として、徳川家康から信濃国伊那郡箕輪(長野県箕輪町)を拝領した。
こうして、長らく続いた真田昌幸の沼田領土問題は解決したが、沼田領の割譲から、わずか3ヶ月後に、北条征伐(小田原征伐)の切っ掛けとなる名胡桃城(なぐるみじょう)事件が起きたのである。
「実話・真田昌幸の生涯-名胡桃城(なぐるみじょう)事件のあらすじとネタバレ」へ続く。
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