真田幸村と真田昌幸-犬伏の別れと第2次上田城の戦い

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「真田幸村と真田昌幸-第2次上田城の戦いと関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田幸村の生涯-犬伏の別れのあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■犬伏の別れと第2次上田城の戦い
慶長5年(1600年)6月、徳川家康が豊臣家の名義で上杉討伐(会津討伐)を発動し、諸大名は豊臣家の家臣として上杉討伐(会津討伐)に参加する。

真田昌幸も豊臣家の家臣として上杉討伐(会津討伐)に参加するため、居城・上田城(長野県上田市)を出て、慶長5年(1600年)7月21日に下野国犬伏(栃木県佐野市犬伏町)で在陣していた。

しかし、慶長5年(1600年)7月21日、下野国犬伏(栃木県佐野市犬伏町)に居る真田昌幸の元に、大阪城で挙兵した西軍からの書状届き、西軍への参加要請を受ける。

真田昌幸は石田三成の縁者であったが、石田三成が挙兵する計画を知らなかったので、石田三成の挙兵を知って驚き、嫡男・真田信之(真田信幸)と次男・真田幸村(真田信繁)を薬師堂(栃木県佐野市犬伏新町)に呼んで、密談に及んだ(犬伏会談)。

その結果、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は西軍に味方し、嫡男・真田信幸(真田信之)は東軍に味方することなった(犬伏の別れ)。

真田昌幸と嫡男・真田信幸(真田信之)はすぐさま、犬伏から陣を引き払い、徳川軍の追撃を避けるため、間道である吾妻街道を通って居城・上田城を目指した。

その途中、父・真田昌幸は「孫に会う」という口実で、敵方となった嫡男・真田信幸(真田信之)の居城・沼田城(群馬県沼田市)に入ろうとしたが、嫡男・真田信幸(真田信之)の正室・小松姫によって入場を拒否されたため、場外で野営して、そのまま信州上田を目指した。

一説によると、父・真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、上野国吾妻の辺りで徳川の軍勢に行く手を阻まれたが、吾妻の豪族・横谷左近(真田昌幸の家臣で忍者と伝わる)の協力を得て徳川軍を撃破し、無事に信州国上田へとたどり着いた。

そして、居城・上田城(長野県上田市)へ戻った父・真田昌幸は、石田三成に書状を送り、自分に何の相談も無く、大阪で挙兵した事について苦情を言った。

すると、石田三成は「この度のことをお知らせしなかった事は大変申し訳なく思います。しかし、徳川家康が大阪に居たので、諸将の心を計るのは難しく、相談を遠慮していたのです。(中略)今は相談しなかった事を後悔しています。今は、豊臣秀吉様から受けた恩を忘れること無く、豊臣政権のために働いてくれること願うばかりです」と謝罪した。

父・真田昌幸と次男・真田幸村の2人は、正室を大阪屋敷に置いており、安否が気になっていたが、大谷善継(真田幸村の義父)から「2人の内室は私が保護しているので安心してください」という手紙が来たので安心した。

その後も、父・真田昌幸は、嫡男・真田信幸(真田信之)が徳川家康に属した事を隠したまま、石田三成と書状をやりとりした。

そして、父・真田昌幸は駆け引きの結果、石田三成から信州(長野県)一国を約束され、甲斐(山梨県)についても「切り取り次第」という約束を得た。

すると、父・真田昌幸は、石田三成に嫡男・真田信之(真田信幸)が東軍に付いたことを明かし、自身は西軍としての旗色を鮮明にした。

そして、父・真田昌幸は東軍との対決に備えて、家臣に信州一国を分配し、家臣の士気を鼓舞した。さらに、農民や町民に至るまで、敵の首1つにつき知行100石の恩賞を約束し、農民や町民を総動員したのである。

■嫡男・真田信幸(真田信之)-犬伏の別れの後
犬伏の別れによって東軍・徳川家康に味方することを決めた嫡男・真田信幸(真田信之)は、直ぐに徳川秀忠に報告し、報告を受けた徳川秀忠はこれを徳川家康に報告した。

真田家が支配していた上田城や沼田城は、大阪の石田三成と会津(福島県)の上杉景勝を繋ぐ中継時点になるため、西軍・東軍の双方にとって重要地点だった。

このため、徳川家康は嫡男・真田信幸(真田信之)が東軍に属した事を大いに喜び、西軍についた真田昌幸の領土を嫡男・真田信幸(真田信之)に与える事を約束すると、居城・沼田城(群馬県沼田市)へ戻って会津・越後・信州へ備えるように命じた。

■徳川秀忠と真田昌幸の第2次上田城の戦い
徳川家康は石田三成が大阪で挙兵したという報告を受けていたが、石田三成と大谷善継が起こした小規模な反乱だと思い、予定通りに上杉討伐(会津討伐)に出陣した。

ところが、真田家の「犬伏の別れ」から3日後の慶長5年(1600年)7月24日、徳川家康の元に「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」が届き、五奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以までもが加わった大規模な反乱だと知り、動揺する。

驚いた徳川家康は下野国小山(栃木県小山市)に諸将を集めて軍議を開いた結果、豊臣恩顧の武将が徳川家康に忠誠を誓ったので、上杉討伐軍(会津討伐軍)はそのまま関ヶ原の戦いでいう東軍になり、諸将は西進を開始した(小山評定)。

(注釈:小山評定は、真田幸村らの犬伏の別れの3日後の出来事である。)

しかし、豊臣恩顧の武将を信用しきれない徳川家康は、上杉討伐(会津討伐)で先鋒を務める予定だった徳川秀忠を会津(福島県)の上杉景勝への備えとして宇都宮(栃木県宇都宮市)に残し、江戸に留まり続けた。

このようななか、徳川家康は徳川秀忠に真田討伐(上田討伐)を命じ、徳川秀忠の後任として結城秀康を宇都宮の守備に置いた。

真田幸正の上田城は、大阪の石田三成と会津(福島県)の上杉景勝を結ぶ中継地点で、東軍にとっても西軍とっても要所であり、徳川秀忠は関ヶ原に向かう途中で真田昌幸の上田城を攻めたのではなく、真田討伐として上田城を攻めたのである。

真田討伐の命を受けた徳川秀忠は、慶長5年(1600年)8月24日に宇都宮を出て、中山街道を通って真田討伐(上田討伐)に向かった。

居城・沼田城(群馬県沼田市)に戻っていた嫡男・真田信幸(真田信之)は、徳川秀忠への参加を命じられて、徳川秀忠の軍勢に加わり、信州・上田城までの道案内を務めた。

徳川秀忠は慶長5年(1600年)9月1日に碓氷峠を越え、信濃国(長野県)へと入り、9月2日に小諸城(長野県小諸市)へと入ると、上田城へ使者を送り、父・真田昌幸に降伏を勧告した。

すると、慶長5年(1600年)9月3日、父・真田昌幸が「頭を剃って降伏します」と返事したので、徳川秀忠は「降伏すれば免除する」と喜び、真田信幸(真田信之)と本多忠政を派遣し、信濃国の国分寺で父・真田昌幸と会見させた。

しかし、翌9月4日に行われた国分寺での会見で、降伏を申し出ていた父・真田昌幸が態度を一変させたので、交渉は決裂した。

一説によると、このとき、真田昌幸は「返答を引き延ばしたのは、籠城の準備が不足していたからである。十分に支度が出来たので、ただ今から兵を差し向ける」と言い、徳川秀忠に宣戦布告したという。

これに激怒した徳川秀忠は真田討伐を決定すると、小諸城を出て、上田城の南東にある染谷台に本陣を置き、3万8000の軍勢で上田城攻めを開始する。

徳川秀忠の軍勢は、元々は上杉討伐(会津討伐)の先鋒だったので、徳川の主力部隊が揃う精鋭だった。

対する上田城の父・真田昌幸は商人や百姓に至るまで、「敵の首1つに付き知行100石を与える」と約束し、町民を総動員したが、総勢はわずか5000(一説には3000)であった。

そして、父・真田昌幸は上田城を守り、次男・真田幸村(真田信繁)は上田城の東にある堅城・戸石城(武田家の家臣時代に居城にしていた城)に入っていた。

さて、徳川軍の中には、第1次上田城の戦いで真田昌幸に辛酸を嘗めらされた経験から、真田昌幸と同族の嫡男・真田信幸(真田信之)を信用しない者も多かったので、徳川秀忠は嫡男・真田信幸(真田信之)を遠ざけるため、嫡男・真田信幸(真田信之)に戸石城攻めを命じた。

それを知った次男・真田幸村(真田信繁)は、父・真田昌幸の承諾を得て戸石城を捨てて兵を退いた。

次男・真田幸村(真田信繁)が一戦も交えずに戸石城を捨てたのは、徳川家康に属した嫡男・真田信幸に手柄を立てさせると共に、嫡男・真田信幸との戦いを避けるためだったとされる。

このため、戸石城攻めを命じられた嫡男・真田信幸(真田信之)は、次男・真田幸村(真田信繁)と戦うことなく、堅城である戸石城を無傷で落とした。

慶長5年(1600年)9月6日、染谷台に布陣する徳川秀忠は、酒井家次・牧野康成・鎮目惟明(しずめこれあき)・朝倉宣正らに上田城周辺の稲刈りを命じた。

これは「苅田戦法」と言って、敵地の稲を刈り取って食料を奪うと共に、籠城する敵を挑発して城外へ誘き出す作戦である。

慶長5年(1600年)9月6日、徳川軍の牧野康成らが苅田を開始すると、真田昌幸は上田城から兵を出し、稲を狩っている徳川軍を鉄砲で狙撃した。

このとき、父・真田昌幸は50騎ほどを率いて偵察に行き、稲刈りをしている徳川軍を挑発したという逸話もある。

苅田をしていた徳川軍が激怒して一戦交えようとすると、父・真田昌幸は適度に戦って兵を退いたので、徳川軍は父・真田昌幸を追撃して、上田城へと迫った。

徳川軍が上田城の大手門へ攻め寄せめると、父・真田昌幸は城内から一斉に射撃して反撃し、また伏兵を起こして側面から攻撃させたので、徳川軍は大混乱に陥り、大打撃を受けた。

一方、戸石城を明け渡した次男・真田幸村(真田信繁)は、徳川秀忠が本陣を敷いている染谷台の北東に位置する虚空蔵山に伏兵を置いており、上田城の反撃を見ると、次男・真田幸村(真田信繁)は伏兵を起こして徳川秀忠の本陣へと突撃した。

虚を突かれた徳川秀忠の本陣は大混乱したので、徳川軍は総崩れと成って撤退を開始したが、退路にある神川が増水しており、渡れなかった。

実は、父・真田昌幸が事前に神川を堰き止めており、頃合いを見計らって堰を切って神川を増水させていたのである。

神川が増水していたせいで、後陣は援軍を送ることが出来ず、上田城を攻めていた徳川軍は撤退する事が出来なかった。

しかし、徳川軍は真田軍の追撃を恐れて、氾濫する神川を渡って撤退したので、大勢の者が神川で溺れ死んだ。

真田昌幸は、第1次上田城の戦いと同じように、徳川軍を上田城に引きつけてからきっきに反撃するという先鋒で、徳川秀忠の大軍を退けることに成功したのである。

神川を渡った徳川秀忠は、小諸城に入って陣を立て直し、再び上田城を攻めようとしたが、徳川家康の使者が来て、関ヶ原へ急行するように命じられたので、徳川秀忠は上田城攻めを断念して、関ヶ原へと向かう事になる。

なお、真田家の同族で争うことになったが、嫡男・真田信幸(真田信之)の正室・小松姫が機転を利かせ、家臣の妻子を上田城に招いて宴会を開き、そのまま家臣の妻子を人質としていたので、嫡男・真田信幸(真田信之)の家臣から裏切り者は出なかったという。

■徳川秀忠が関ヶ原に遅刻
さて、徳川秀忠に真田討伐に向かった後、東軍の状況が急変していた。

小山評定によって西進を開始した東軍の諸将は、清洲城(愛知県清須市)に終結して徳川家康の出陣を待っていたが、徳川家康は江戸に留まったままで一向に出陣してこないため、清洲城に終結した東軍の諸将は不満を募らせていた。

そこで、清洲城に集結した東軍の諸将は、徳川家康に二心が無きことを示して徳川家康の出陣を促すため、慶長5年(1600年)8月22日に美濃(岐阜県)へと侵攻を開始し、東軍・福島正則らが翌日の8月23日に岐阜城を陥落させたのである。

さらに、別部隊の東軍・黒田長政らは慶長5年(1600年)8月23日、岐阜城の援軍に向かおうとしていた西軍の石田三成・小西行長・島津義弘を合渡で破ると、そのまま西進して、石田三成が籠もる大垣城(岐阜県大垣市郭町)の北に位置する赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)に布陣した。

この知らせは慶長5年(1600年)8月27日に江戸に留まる徳川家康の元に届いた。既に、徳川秀忠は、真田討伐のために、慶長5年(1600年)8月24日に宇都宮を出陣している。

知らせを受けた徳川家康は、赤坂に布陣する東軍に攻撃を禁じ、出陣日を慶長5年(1600年)9月1日に定めると、徳川秀忠を赤坂の東軍に合流させるため、使者・大久保忠益を派遣した。

使者・大久保忠益は慶長5年(1600年)8月29日に江戸を出て、徳川秀忠の元に向かった。徳川家康の思惑では、徳川秀忠は慶長5年(1600年)9月10日に赤坂で東軍と合流する予定だった。

ところが、使者・大久保忠益は利根川の増水に足止めされ、徳川秀忠の元に到着したのは慶長5年(1600年)9月9日になってしまった。

慶長5年(1600年)9月6日に上田城攻めで大敗した徳川秀忠は、小諸城に入り陣を立て直していたところだったが、使者・大久保忠益が来て西進を命じられたので、上田城攻めを諦め、森忠正・仙石秀久・石川康長らを真田昌幸の押さえに残し、中山街道を西進して赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)を目指した。

徳川秀忠は必死に西進したが、折からの雨で道がぬかるんで進軍は困難を極めたうえ、木曽川の増水で3日間の足止めを余儀なくされたため、徳川秀忠は慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いに遅刻することになる。

一方、江戸を出た徳川家康は、慶長5年(1600年)9月11日に清洲城に入り、病気を理由に2日間、清洲城に滞在して、徳川秀忠の到着を待ったが、徳川秀忠が来ないので、諦めて東軍が布陣する赤坂へと入り、慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の戦いで西軍を撃破した。

結局、徳川秀忠は慶長5年(1600年)9月20日になって大津城(滋賀県大津市)で徳川家康に追いついたが、徳川家康は遅刻に激怒して面会を拒否した。

徳川秀忠が関ヶ原の合戦に遅刻した原因は自然現象なので、この件では誰も罰せられなかったが、徳川秀忠は初陣で真田昌幸に大敗したこともあり、真田昌幸を激しく恨んだという。

真田昌幸と真田幸村-九度山の生活のあらすじとネタバレ」へ続く。

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