大坂冬の陣-大阪牢人3人衆が大阪牢人5人衆になった理由

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「大坂冬の陣-大阪牢人3人衆が大阪牢人5人衆になった理由のあらすじとネタバレ」です。

このページは「大坂冬の陣-黒田長政・島津家久・福島正則・平野長泰らの対応」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大坂冬の陣と大阪牢人5人衆
徳川家康との対決を決めた豊臣秀頼は、諸大名に檄を飛ばして上洛を要請したが、上洛した大名は居なかった。豊臣恩顧の武将すら、誰も駆けつけなかった。

大阪城へ駆けつけたいと思う大名は居たが、既に天下は徳川家康のものとなっており、お家を存続させる方が大事だったのである。

そこで、豊臣秀頼は全国の牢人に集結を呼びかけた。関ヶ原の合戦の後に改易された大名や禄を失った浪人などが全国に溢れていた。

こうした牢人が豊臣秀頼の要請に応じて続々と大阪城へ詰めかけ、大阪城の勢力は、豊臣軍1万を合わせて10万の軍勢膨れあがった。

禄を失った侍を「浪人」と呼ぶが、特に固い意思を持った浪人を「牢人」と呼び、豊臣秀頼の要請に応じて集まった浪人を「牢人」と表記する事が多い。

だから、大阪城に集まった牢人は豊臣家に忠義を尽くすために集まったと思われがちである。

しかし、実際は、豊臣家は竹流し(竹に銀を流し込んで整形した金や銀)を牢人に配っており、こうした牢人は豊臣家への忠誠心で集まったわけではなく、豊臣家が支給する金が目当てだった。

豊臣家は牢人だけで無く、農民などにも檄を飛ばして大阪城への結集を呼びかけているが、竹流しの金を受け取ると、そのまま居なくなる牢人や農民も多かったという。

その証拠に、徳川家の政僧・金地院崇伝は、大阪に集まった牢人を「日用(日雇い)」と考えており、取るに足らない戦力と考えていた。

しかし、こうして大阪城へ集まった牢人の中には、真田幸村・長宗我部盛親・後藤又兵衛(後藤基次)・毛利勝永・明石全登・塙直之・大谷吉治・塙団右衛門・仙石秀範など有名な武将も居た。

大阪城へ集まった牢人のうち、元大名の長宗我部盛親・毛利勝永・真田幸村の3人を「大阪牢人3人衆」と呼び、大名格である後藤又兵衛(後藤基次)と明石全登の2人を加えた5人を「大阪牢人5人衆」と呼ぶ。

なお、大阪牢人5人衆の序列は、1位が長宗我部盛親、2位が毛利勝永、3位が真田幸村、4位が後藤又兵衛(後藤基次)、5位が明石全登である。

■大阪牢人5人衆-長宗我部盛親のあらすじとネタバレ
長宗我部盛親は、四国統一を成し遂げた土佐(高知県)の大名・長宗我部元親の4男である。

土佐(高知県)の大名・長宗我部元親は四国を統一したが、織田信長の後継者となった豊臣秀吉と対立し、豊臣秀吉の四国征伐で領土の大半を失ったが、豊臣秀吉に降伏して土佐一国を安堵された。

長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が戦死したため、跡目争いが発生するが、最終的に長宗我部元親の意向によって4男・長宗我部盛親が後継者になり、長宗我部元親の死後、4男・長宗我部盛親が家督を相続する。

関ヶ原の合戦のとき、長宗我部盛親は東軍に参加するつもりであったが、西軍が関所を設けて通行を禁止したため、長宗我部盛親は成り行き上で西軍に属した。

関ヶ原の戦いでは、前方に布陣していた西軍・吉川広家が東軍に寝返り、「いま弁当を食べさせている」と言って動かなかったため、長宗我部盛親は動くことが出来ず、不戦のまま土佐へと逃げ帰る(宰相殿の空弁当)。

(注釈:宰相殿の空弁当のあらすじとネタバレについては「吉川広家と関ヶ原の戦い-宰相殿の空弁当(宰相の空弁当)のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

関ヶ原の合戦の後、長宗我部盛親は徳川家康に謝罪したが、長宗我家でお家騒動が起き、兄(三男)・津野親忠を処刑したことから、徳川家康に「兄殺し」と批判され、長宗我部盛親は改易された。

その後、長宗我部盛親は京都に送られ、京都所司代・板倉勝重の監視下で、寺子屋をして生活していたが、大坂冬の陣が起こり、豊臣秀頼から土佐一国を約束されたため、大阪城へ駆けつけた。

長宗我部盛親が京都を脱出すると、続々と旧臣が駆けつけ、大阪城へ入るときには1000人の軍勢になっていたという。

■大阪牢人5人衆-毛利勝永のあらすじとネタバレ
毛利勝永(森勝永)は、豊臣秀吉の家臣・毛利勝信の子で、親子で豊臣秀吉に仕えた。毛利親子は豊臣秀吉の九州征伐で活躍し、父・毛利勝信は豊前国(福岡県東部)の小倉10万石を拝領し、子の毛利勝永も豊前国(福岡県東部)に4万石を拝領した。

このとき、毛利勝永と父・毛利勝信は毛利輝元の許しを得て、「森」姓から「毛利」姓へと改名した。

関ヶ原の合戦のとき、毛利親子は西軍に付いたため、関ヶ原の合戦後に改易され、加藤清正預かりとなった後、土佐藩主(高知県)・山内一豊預かりとなっていた。一説によると、父・毛利勝信は土佐で病死した。

毛利勝永は土佐で蟄居していたとき、大坂冬の陣が起きる。毛利勝永は初め、豊臣側に加わることをに躊躇したが、毛利勝永の妻が背中を押したので、土佐を抜け出して大阪城に駆けつけた。

■大阪牢人5人衆-真田幸村のあらすじとネタバレ
真田幸村(真田信繁)は、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田昌幸の次男として生まれた。信濃国は徳川家康・北条氏政・上杉景勝ら強豪がせめぎ合う要所にあって、父・真田昌幸は主を転々としながら領土を拡大し、最終的に豊臣秀吉に仕えた。

真田幸村(真田信繁)は豊臣秀吉の元で人質として過ごし、豊臣秀吉に寵愛された。その後、真田幸村(真田信繁)は豊臣姓を賜り、豊臣政権の重臣・大谷吉継の娘・竹林院を正室に迎えた。

関ヶ原の合戦では、真田親子は東西に別れ、父・真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)が西軍に属し、真田昌幸の嫡男・真田信之は東軍に属した(犬伏の別れ)。

(注釈:犬伏の別れについては「真田幸村の生涯-犬伏の別れのあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

西軍に属した父・真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、居城・上田城で徳川秀忠の大軍を退けて西軍の勝利を確信したが、天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」はわずか1日で決着がつき、西軍は負けてしまう。

関ヶ原の合戦の後、東軍に属した嫡男・真田信之が父・真田昌幸の領土を拝領し、西軍に付いた父・真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は高野山へ流されたが、高野山は女人禁制だったため、江戸幕府の許しを得て高野山の麓にある九度山へと移った。

父・真田昌幸は恩赦を夢見て九度山で没落した生活を過ごしていたが、結局、恩赦は出ず、九度山で死んだ。

次男・真田幸村(真田信繁)も九度山で酒を飲み、自堕落な生活を送っていたところに、大坂冬の陣が勃発し、豊臣家・大野治長の使者から黄金200枚・銀30貫目と恩賞50万石を提示されたため、九度山を脱出して大阪城へと入った。

■大阪牢人5人衆-後藤又兵衛のあらすじとネタバレ
後藤又兵衛(後藤基次)は、姫路城の城主・黒田勘兵衛(黒田如水)の家臣だったが、織田信長の播磨侵攻の時に主・黒田勘兵衛(黒田如水)を裏切ったため、黒田家から追放された。

その後、後藤又兵衛(後藤基次)は淡路島の大名・仙石秀久に仕えていたらしいが、豊臣軍の仙石秀久は九州征伐で島津軍に惨敗して淡路島に逃げてしまう。

このため、九州に残っていた後藤又兵衛(後藤基次)は、黒田勘兵衛の嫡男・黒田長政に招かれて黒田家の家臣となった。

後藤又兵衛(後藤基次)は黒田家の家老・栗山善助の家臣(与力)という立場であったが、朝鮮出兵や関ヶ原の合戦で活躍し、家老と同等に扱われるようになる。

関ヶ原の合戦のあと、黒田長政が筑前国52万石を拝領すると、後藤又兵衛(後藤基次)は筑前・大隅城の城主となり、大名格となった。

しかし、後藤又兵衛(後藤基次)は、黒田家と犬猿の仲だった豊前国の細川忠興とよしみを通じていた事が判明し、後藤又兵衛(後藤基次)は黒田家を出奔し、細川忠興に使えようとした。

(注釈:黒田長政と細川忠興が犬猿の仲になった理由は「黒田長政と細川忠興の対立の理由-年貢持ち逃げ事件のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

すると、怒った黒田長政は、他の大名が出奔した家臣を登用できないようにする江戸幕府の制度「奉公構(ほうこうかまえ)」を申請し、後藤又兵衛(後藤基次)が他の大名に仕えられないようにした。

このため、後藤又兵衛(後藤基次)は仕官することが出来ず、牢人となって故郷の播磨に潜伏していたが、大阪冬の陣が勃発したため、大阪城へ入城した。

(注釈:後藤又兵衛の生涯のあらすじとネタバレは「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯」をご覧ください。)

■大阪牢人5人衆-明石全登のあらすじとネタバレ
明石全登(明石掃部)は、備前(岡山県東部)の大名・宇喜多秀家の家老で、4万石の大名格であった。しかし、国の経営には参加せず、客分的な立場にあった。

第1次朝鮮出兵(文禄の役)の後、キリシタン宇喜多左京亮の勧めにより、修道士の説教を聞き、キリスト教の洗礼を受ける。

備前の宇喜多家では、お家騒動「宇喜多騒動」が勃発して家臣内で対立が起こるが、明石全登(明石掃部)は国の経営に参加していなかったので、宇喜多騒動に関わらず、領内でキリスト教の布教に務め、備前で2000から3000という信者を増やしていた。

宇喜多騒動は第2次朝鮮出兵の影響で一時中断したが、豊臣秀吉の死によって朝鮮出兵が終わると、宇喜多騒動が再燃する。

その後、宇喜多騒動によって宇喜多家の重臣が出奔したため、明石全登(明石掃部)は大した武功は無かったが、他に宇喜多家を治める者が居なかったため、明石全登(明石掃部)が家臣団の要請を受けて、宇喜多家を取り仕切るようになる。

関ヶ原の合戦では、明石全登は宇喜多秀家に従って西軍に属した。宇喜多秀家は西軍で最大の勢力だった事もあり、関ヶ原の合戦後、徳川家康に改易された。

明石全登(明石掃部)はキリシタンで自害が出来ないため、関ヶ原の戦いで討ち死にしようとしたが、東軍のキリシタン黒田長政(洗礼名はダミアン)に会い、黒田長政が徳川家康に助命嘆願してくれることになったと言われる。

関ヶ原の合戦の後、明石全登(明石掃部)は、筑前・福岡藩の藩主となった黒田長政の家臣となり、キリスト教の信仰に励んだ。

ところが、キリスト教を容認していた徳川家康が、岡本大八事件を切っ掛けに方針を転換し、慶長17年(1612年)3月にキリスト教を禁止した。

これを受けて筑前・福岡藩の藩主・黒田長政もキリスト教を禁止し、キリシタンの明石全登(明石掃部)を追放したため、明石全登(明石掃部)は牢人となった。

その後、大坂冬の陣が勃発する。大阪城の豊臣秀頼は、人を集めるため、キリスト教を容認したので、明石全登(明石掃部)はキリシタンを率いて大阪城へと入った。

(注釈:キリシタン明石全登の生涯のあらすじとネタバレは「キリシタン明石全登(明石掃部)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

■大阪牢人3人衆が大阪牢人5人衆になった理由(逸話)
最初は、大阪城に集まった牢人のうち、元大名の長宗我部盛親・毛利勝永・真田幸村(真田信繁)の3人を「大阪牢人3人衆」と呼んだ。

後藤又兵衛(後藤基次)や明石全登明石全登(明石掃部)といった小身は、豊臣秀頼に拝謁する(軍議に参加する)ことは出来なかった。

ところで、大阪城は軍師・黒田勘兵衛(黒田如水)が縄張りし、豊臣秀吉が心血を注いで完成させた城で、川・海・湿地帯などを利用した天然の要害だったが、南方には平地が広がっており、南方は大阪城の弱点だった。

ところで、真田幸村は、兄の真田信之が徳川家康の縁者で、兄・真田信之は病気を理由に大坂冬の陣には出陣していないが、嫡男・真田信吉と次男・真田信政を派遣している。

このため、大阪城内では、真田幸村が徳川家康に内通しているのではないかという噂が流れていた。

それを聞いた真田幸村は、豊臣家の大野長治に許可を得て、大阪城の南東にある平野口に馬出「真田丸」を築くことにした。

真田幸村が真田丸を築こうとした場所に、誰かが木材が搬入していたが、真田幸村は木材を撤去し、真田丸の縄張りを開始した。

それを聞いて激怒したのが後藤又兵衛(後藤基次)だった。実は後藤又兵衛(後藤基次)が、大阪城の南東にある平野口に馬出「後藤丸」を築く為に木材を搬入していたのである。

牢人・薄田兼相が後藤又兵衛(後藤基次)を宥めたが、後藤又兵衛(後藤基次)は治まらず、後藤又兵衛(後藤基次)は兵を率いて真田幸村を追い出そうとしたので、困った豊臣家の大野治長らはキリシタン牢人の明石全登(明石掃部)に仲裁を頼んだ。

こうして、キリシタンの明石全登(明石掃部)が仲裁に入り、後藤又兵衛(後藤基次)を宥めると、後藤又兵衛(後藤基次)は馬出を真田幸村(真田信繁)に譲る条件として、軍議へ参加することを求めた。

すると、豊臣秀頼がこれを許可したので、長宗我部盛親・毛利勝永・真田幸村(真田信繁)の3人を「大阪牢人3人衆」に、後藤又兵衛(後藤基次)・明石全登(明石掃部)の2人が加わることになった。

こうして、後藤又兵衛(後藤基次)と明石全登(明石掃部)が大阪牢人3人衆に加わって「大阪牢人5人衆」となり、真田幸村(真田信繁)が「真田丸」を築くことになったのである。

(注釈:真田幸村は徳川軍との内通が疑われていたので、後藤又兵衛が内通が疑われている真田幸村の為に場所を譲った、という逸話も残っている。)

なお、大阪牢人5人衆に、豊臣家の大野治房と木村重成を加えた7人を「大阪7将」と呼ぶことがある。

伝心月叟(真田幸村)が大阪城に入る-大坂冬の陣のあらすじとネタバレ」へ続く。

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