伝心月叟(真田幸村)が大阪城に入る-大坂冬の陣

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「伝心月叟(真田幸村)が大阪城に入る-大坂冬の陣のあらすじとネタバレ」です。

このページは「大坂冬の陣-大阪牢人3人衆が大阪牢人5人衆になった理由のあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■真田幸村の生涯-大坂冬の陣
関ヶ原の合戦の後、西軍に属した父・真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は死罪になりかけたが、真田信之(真田信幸)や本多忠勝らの助命嘆願により、高野山へと流された。

しかし、その後、高野山は女人禁制だったため、父・真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は高野山の麓にある九度山へと移り、側室を作って子供を儲けた。

父・真田昌幸は打倒徳川家康の策を練り続けながら九度山の蟄居生活を送っていたのというのは後世の創作で、実際は恩赦を望み続けたが、恩赦は叶わず、貧乏生活の末、九度山で死んだ。

父・真田昌幸の死後、真田幸村(真田信繁)も家臣にお金や焼酎を催促しながら、没落した生活を続け、体は衰え、病気がちになり、歯も抜け、髭に白髪が交じり始めていた。

そのようななか、慶長19年(1614年)10月1日、徳川家康は方広寺鐘銘事件を切っ掛けに、豊臣討伐(大坂の陣)を発令した。

対する豊臣秀頼は、豊臣秀吉の恩顧武将に檄を飛ばしたが、関ヶ原の合戦から14年が経過しており、天下は徳川家の物となっていたため、豊臣恩顧の武将ですら、豊臣秀頼の上洛要請に応じず、大阪城に駆けつけた大名は居なかった。

そこで、豊臣秀頼は、関ヶ原の合戦によりって大量に発生した牢人に檄を飛ばしたので、九度山で没落した生活を送っていた真田幸村(真田信繁)の元にも豊臣家・大野治長がやってきたのである。

豊臣家・大野治長の使者は、真田幸村(真田信繁)に当面の支度金として黄金200枚・銀30貫目、信州勢150人のほかに500人の兵を与える事を約束した。さらに、恩賞として50万石を提示し、軍勢5000の大将に任命するとも約束したという。

真田幸村(真田信繁)は蟄居生活14年目にして訪れた好機に喜び、大野治長の申し出を承諾すると、九度山を出て大阪城へ向かうことにした。

■真田幸村(真田信繁)が九度山の脱出(逸話)
真田幸村(真田信繁)は豊臣秀頼の誘いを受けて大阪城へ入ることをことを決めたが、江戸幕府の罪人として九度山に蟄居している身であり、和歌山藩の藩主・浅野長晟の管理下に置かれていた。

徳川家康が豊臣征伐(大坂の陣)を発動すると、和歌山藩の藩主・浅野長晟は九度山の住人に対して、「真田幸村が大阪に入るかも知れないので、油断しないように」と真田幸村を監視強化を命じた。

このようななか、真田幸村(真田信繁)は慶長19年(1614年)10月9日、普段、世話になっている礼をしたいと言い、九度山の住人を屋敷に招き、宴会を開いて酒を飲ませ、九度山の住人を酔いつぶした。

(注釈:別の逸話によると、父・真田昌幸の法要をしたいと言い、九度山の住人を屋敷に集めて酒を振る舞った。)

その隙に真田幸村(真田信繁)は、九度山の住人が乗ってきた馬に荷物を載せて九度山を逃げ、大阪へと向かった。真田幸村(真田信繁)には家臣やその家族の他に九度山の住人も付いてきたので、総勢で100人程の規模だった。

翌朝、和歌山藩の藩主・浅野長晟は監視からの報告で真田幸村(真田信繁)が逃げた事を知り、兵を率いて九度山へ駆けつけると、九度山の住人は口々に「3日前に立ち退いた」と嘘の報告をした。

本当は真田幸村(真田信繁)は6時間前に九度山を逃げ出したのだが、真田幸村(真田信繁)は日頃から九度山の住人に礼を尽くしていたので、九度山の住人は真田幸村(真田信繁)に同情しており、真田幸村(真田信繁)を逃がすために「3日前に立ち退いた」と嘘の報告したのである。

浅野長晟は3日前に逃げたのであれば、追っても無駄だろうと思い、真田幸村(真田信繁)を追うのを諦めた。

また、浅野長晟は「村民に真田幸村を止めろと命じる方が間違いであった」と言い、九度山の住人に対するお咎めは無かった。

■九度山からの脱出の逸話の別説
和歌山藩の藩主・浅野長晟は、父・浅野長政と共に第1次朝鮮出兵で活躍し、甲斐国府中21万5000石を拝領した。また、父・浅野長政は豊臣政権の五奉行の筆頭で、豊臣恩顧の武将だった。

真田幸村は蟄居の身でありながらも、九度山で比較的に自由な生活をしていたのも、和歌山藩の藩主・浅野長晟が豊臣恩顧の武将で、真田幸村と浅野長晟は交流があったからだった。

真田幸村が九度山を抜けて大阪城へ入れたのも、和歌山藩の藩主・浅野長晟のおかげだった。

和歌山藩の藩主・浅野長晟は、豊臣恩顧武将だったので、豊臣家に忠義を尽くしたいと考えていたが、お家の存続を考えると、大阪城には入れないため、九度山の警戒を緩めて、九度山から脱出する真田幸村を見逃したという。

これらは逸話なので、実際に真田幸村がどのように九度山を脱出したのかは不明だが、史実の真田幸村は九度山の住人の協力を得て脱出したようである。九度山の住人、数十人が真田幸村を慕って大阪城へ入っている。

■真田幸村の刀を鑑定(逸話)
慶長19年(1614年)10月9日に九度山を脱出した真田幸村は、剃髪して山伏の姿で伝心月叟を名乗り、大阪へ入ると、豊臣家の代表・大野治長の屋敷を訪れた。

門番が「どこから来られた?」と尋ねると、伝心月叟(真田幸村)は「大峯の山伏です。ご祈祷の巻数を差し上げるため、殿様にお目にかかりたい」と言い、大野治長との面会を求めた。

しかし、大野治長は不在だったため、門番は「殿は登城中で不在です。ご帰宅までお待ち下さい」と言い、番所の脇へ案内したので、伝心月叟(真田幸村)はそこで大野治長の帰宅を待つことになった。

そこでは若い侍10人程が集まって刀の目利きの話をしており、若侍の1人が伝心月叟(真田幸村)に「貴殿の刀と脇差しを拝見したい」と声を掛けた。

伝心月叟(真田幸村)は「山伏の刀は犬を脅す為の物なので、お見せするような物ではありませんが、お慰みにでもなれば」と言い、刀を出しだした。

若侍は伝心月叟(真田幸村)から受け取った刀を抜いてみると、形といい、輝きといい、とても見事な刀だったので、「さても見事な物だ」と驚いた。

他の若侍が「山伏は良い刀を持っておるな。脇差しの方も見せられよ」と言い、刀と同様に伝心月叟(真田幸村)から脇差しを受け取って抜いてみると、脇差しも刀と同様に見事であった。

若い侍は「銘を見せて欲しい」と頼み、銘を確認すると、刀は正宗で、脇差しは貞宗と、いずれも名高い名刀であった。

これを見た若侍は「ただの山伏ではない」と言い、伝心月叟(真田幸村)を怪しみだしたところに、大野治長が帰宅した。

帰宅した大野治長は直ぐに山伏が伝心月叟(真田幸村)だと気づいたので、両手を付いて頭を下げ、「近日中にはお越し頂けると思っていましたが、早速お越し頂いて感謝します。早速、豊臣秀頼様に報告いたします」と感謝し、伝心月叟(真田幸村)を書院へ通して、厚くもてなした。

その後、豊臣秀頼からの使者・速水守久が来て「豊臣秀頼様は大変満足しています」と言い、支度金の黄金200枚・銀30貫目を差出したので、刀の目利きをしていた若侍は山伏が伝心月叟(真田幸村)であることに気づいて驚いた。

こうして伝心月叟(真田幸村)は信州から駆けつけた手勢数百に加え、伝心月叟(真田幸村)を慕って九度山から着いてきた九度山の住人数十人を率いて大阪城へ入った。

なお、真田幸村は面白い男だったので、後日、刀を目利きしていた若い侍たちに会うと、「目利きは上達したか?」と尋ね、若い侍たちを赤面させたという。

■徳川家康が真田の大阪城入に驚く
慶長19年(1614年)10月1日に豊臣秀頼討伐を布告した徳川家康は、同年10月11日に駿府城を発ち、京都を目指した。

慶長19年(1614年)10月14日、京都を目指して進軍中の徳川家康の元に、京都所司代・板倉勝重の使者がやって、「真田が大阪へ入り、籠城しました」と報告した。

このとき、徳川家康は立って障子に手を掛けていたので、驚いて手を震わせ、障子をガタガタとをさせながら、「籠城した真田は親か子か」と尋ねた。

使者が「父・真田昌幸は既に病死しております。籠城したのは子の真田幸村にございます」と告げると、徳川家康は落ち着きを取り戻し、手の震えも止まった。

(注釈:徳川家康は父・真田昌幸を恐れる余りに手が震えたのでは無く、助命した恩を忘れて大阪城へ入って籠城することに怒って震えたという。)

真田丸のあらすじとネタバレ」へ続く。

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