大坂冬の陣のあらすじとネタバレ

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「大坂冬の陣のあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田丸のあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大坂冬の陣のあらすじとネタバレ
慶長19年(1614年)10月1日、豊臣家は、方広寺鐘銘事件に関して徳川家と交渉に当たっていた片桐且元に、徳川家との内通疑惑を持ち、片桐且元を追放し、徳川家康に宣戦を布告した。

一方、徳川家康も片桐且元が報告を受け、慶長19年(1614年)10月1日、豊臣家が片桐且元を追放したことを徳川家への敵対行為と見なし、豊臣征伐(大坂の陣)を発動した。

すると、江戸に居る第2代将軍・徳川秀忠は家臣・土井良勝を駿府城へ派遣し、徳川家康に「徳川秀忠が出陣しますので、徳川家康は江戸の警護をお願いします」と再三に渡って要請した。

しかし、徳川家康は「上洛して大阪の様子を見る。その後の事は、それから決める」と言って取り合わず、徳川家康は6男・松平忠輝らに江戸の留守を任せ、徳川秀忠に伊達政宗や上杉景勝など東北勢を率いて上洛することを命じた。

また、徳川家康は、豊臣恩顧武将が豊臣側に寝返る事を恐れて、豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・平野長泰らを江戸に留め置いき、息子を出陣させた。

このころ、信濃上田藩の藩主・真田信之(真田信幸)は病気で寝込んでいた。

一説によると、真田家は、徳川家を二度にわたり撃退した過去があるため、真田信之(真田信幸)は徳川家康に言いがかりを付けられて改易されないように、日頃から徳川家に気を遣って神経をすり減らしていたが、次男・真田幸村(真田信繁)が空気を読まずに大阪城に入ったため、真田信之(真田信幸)は心労で病気になったらしい。

徳川家に忠義を尽くさなければならない時なのに、藩主・真田信之(真田信幸)が病気で出陣できないのでは真田家の名折れである。

そこで、真田信之(真田信幸)の正室・小松姫が徳川家康の養女という立場を利用して根回しを行った結果、真田信之(真田信幸)への出陣要請に対しては、「貴殿がご病気の場合は、息子・川内守殿(真田信吉)に人数を付けて早々に出府されよ」と但し書きが添えられたため、真田家は面目を保った。

そして、小松姫は嫡男・真田信吉に次男・真田信政を添え、重臣・矢沢頼幸に「何事にも、くれぐれに気をつけるように」と申しつけ、嫡男・真田信吉と次男・真田信政を大坂冬の陣に送り出した。

(注釈:嫡男・真田信吉は真田信之と側室の間に出来た子供で、次男・真田信政は真田信之と小松姫の間に生まれた実子である。)

■大坂の陣-徳川家家康の出陣
さて、徳川家康は慶長19年(1614年)10月11日に駿府城(静岡県静岡市葵区)を出て、京都を目指した。

慶長19年(1614年)10月14日、京都を目指して進軍中の徳川家康の元に、京都所司代・板倉勝重の使者がやって、「真田が大阪へ入り、籠城しました」と報告した。

このとき、徳川家康は立って障子に手を掛けていたので、驚いて手を震わせ、障子をガタガタとをさせながら、「籠城した真田は親か子か」と尋ねた。

使者が「父・真田昌幸は既に病死しております。籠城したのは子の真田幸村にございます」と告げると、徳川家康は落ち着きを取り戻し、手の震えも止まった。

(注釈:徳川家康は父・真田昌幸を恐れる余りに手が震えたのでは無く、父・真田昌幸が助命した恩を忘れて大阪城へ入って籠城したと思って、怒りに震えたという。)

その後、徳川家康は、慶長19年(1614年)10月23日に京都の二条城へと入った。

一方、徳川秀忠は東国軍5万を率いて慶長19年(1614年)10月23日に江戸を出た。

徳川秀忠は関ヶ原の合戦に遅刻した過去があるので、徳川家康に随行している本多正純に使者を送り、「私が到着するまで戦は始めないでください」と頼んで、急いで京都を目指した。

徳川秀忠が余りにも急いだたため、2日前に先発していた伊達政宗や上杉景勝を追い抜き、味方が付いてこれず、軍列が乱れ、最終的に徳川秀忠は僅かな供回りだけを連れて京都の二条城に入るという有様だった。

それを聞いた徳川家康は「大将にあるまじき行為」と徳川秀忠に激怒したが、ともかく、徳川秀忠は慶長19年(1614年)11月10日に京都に入り、翌日の11月11日に二条城で徳川家康と対面し、大坂冬の陣に遅刻することは免れた。

さて、徳川家康と徳川秀忠は慶長19年(1614年)11月15日に京都・二条城を出陣すると、2人は2手に別れて大阪城を目指し、徳川家康は慶長19年(1614年)11月17日に住吉に本陣を置いた。

江戸幕府軍の総勢は20万(一説には30万)で、大阪城に籠もる豊臣衆は総勢10万であった。

さて、慶長19年(1614年)11月18日、徳川家康は徳川秀忠らと合流して、茶臼山で軍議を開き、大阪城に13の付け城を築いて慎重に大阪城を攻めることを命じた。

このとき、徳川家康に攻撃許可を求めたのが、大阪城の西に布陣する阿波・徳島藩(徳島県)の藩主・蜂須賀家政である。大坂冬の陣は蜂須賀家政の攻撃により始まることになる。

■大坂冬の陣-木津川口の戦い
諸大名は豊臣秀頼の要請に応じず、大阪に駆けつけた大名は居なかったが、徳川家康は豊臣恩顧武将が大阪方に寝返る事を恐れて、豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・平野長泰らを江戸に留め置き、その息子を出陣させた。

それでも、豊臣恩顧の大名が豊臣方に寝返るという疑念は晴れず、江戸幕府軍の間に、豊臣恩顧の大名が豊臣家に寝返るという誤報や噂が流れていた。

このようななか、こうした疑念を晴らして身の潔白を証明しようとしたが、阿波(徳島県)・徳島藩の藩主・蜂須賀至鎮である。

阿波(徳島県)・徳島藩の藩主・蜂須賀家政の祖父は、豊臣秀吉の側近中の側近だった蜂須賀小六(蜂須賀正勝)である。

祖父の蜂須賀小六(蜂須賀正勝)は豊臣秀吉の四国征伐の後、阿波(徳島県)の一部を拝領したが、蜂須賀小六(蜂須賀正勝)は高齢だったこともあり、これを辞退して豊臣秀吉の側近として使えたため、嫡男の蜂須賀家政が阿波(徳島県)の一部を拝領することになった。

豊臣秀吉の死後、政略結婚により勢力拡大を図る徳川家康の意向により、蜂須賀家政の嫡男・蜂須賀至鎮が徳川家康の養女・敬台院を正室に迎え、蜂須賀家政は徳川家康の縁者となっていた。

関ヶ原の合戦のとき、蜂須賀家政は豊臣家への忠義と徳川家への忠義で板挟みとなり、豊臣秀頼に阿波(徳島県)を返上して出家したため、阿波(徳島県)は西軍に接収された。

しかし、会津討伐(上杉討伐)に参加していた蜂須賀家政の嫡男・蜂須賀至鎮が、そのまま東軍となり、関ヶ原の合戦で徳川家康に味方した。

嫡男・蜂須賀至鎮は関ヶ原の合戦では活躍できなかったが、徳川家康の養女・敬台院を正室に迎えていたこともあり、関ヶ原の合戦後に阿波(徳島県)一国を拝領していたという経緯がある。

徳島藩主・蜂須賀至鎮は徳川家康の縁者だったが、祖父・蜂須賀小六(蜂須賀正勝)が豊臣秀吉の側近中の側近だったため、豊臣恩顧とみられており、大坂冬の陣のとき、豊臣方への寝返りが噂されていた。

そこで、徳島藩主・蜂須賀至鎮は、豊臣家に内通しているという疑惑を払拭するため、軍議で徳川家康に攻撃許可を求めたのである。

慶長19年(1614年)11月18日、徳川家康が茶臼山で軍議を開くと、大阪城に西側に布陣する阿波(徳島県)・徳島藩の藩主・蜂須賀至鎮が、木津川口にある砦への攻撃許可を願い出た。

さて、豊臣家は大阪城での籠城を決めたが、大阪城に西は物資の搬入など、戦略上で大きな要所だったので、豊臣軍の大野長治が大阪城の西側場外に砦を築いて、要所を防衛していた。

大阪城の西側には木津川が流れていた。木津川は大阪湾と繋がっており、物資搬入の要所であった。

この木津川口は、過去に、織田信長が石山本願寺(後の大阪城)を攻めたとき、石山本願寺に物資を搬入しようとした毛利水軍と、物資搬入を阻止しようとする織田信長が2度に渡り激戦を繰り広げた場所である。

豊臣軍の大野長治も木津川の重要性を知っており、木津川口に砦を築いて、大阪牢人5人衆の1人・キリシタンの明石全登(明石掃部)に砦を守らせていた。

そこで、蜂須賀至鎮が木津川口の砦への攻撃許可を求めると、徳川家康は蜂須賀至鎮の攻撃を許可し、蜂須賀至鎮を正面、浅野長晟を搦手、池田忠雄を遊軍として攻めることを命じたのである。

攻撃許可を受けた蜂須賀至鎮は、浅野長晟・池田忠雄と軍議を開き、慶長19年(1614年)11月19日の朝6時に攻撃を開始することを取り決めた。

しかし、蜂須賀至鎮は家臣・中村重勝の進言を受けて抜け駆けし、深夜3時に手勢3000で木津川口の砦を攻撃したのである。

木津川口の砦は、大阪牢人5人衆の1人でキリシタンの明石全登(明石掃部)が手勢800で守っていたのだが、このとき、明石全登(明石掃部)は大阪城へ行って不在だったため、木津川口の砦の兵は蜂須賀至鎮の奇襲攻撃に対応できなかった。

さらに、風が蜂須賀至鎮に味方し、蜂須賀至鎮の火計によって木津川口の砦は、あっけなく陥落した。

この蜂須賀至鎮による「木津川口の戦い」を口火に、大坂冬の陣が始まった。

(注釈:明石全登の生涯については、「キリシタン明石全登(明石掃部)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

■大坂冬の陣-鴫野・今福の戦い
大阪城の東北に鴫野村・今福村がある。大和川の南岸が鴫野村で、大和川の北岸が今福村である。鴫野村・今福村は湿地帯で、豊臣方は鴫野村に四重の柵を、今福村に三重の柵を築いていた。

徳川家康は、大阪城の東側に上杉景勝・佐竹義宣らを配置し、今福村に付け城を作ることを命じた。

上杉景勝と佐竹義宣は、関ヶ原の合戦で徳川家康に敵対したため、手柄を立てて徳川家康に忠誠心を示す必要があった。

慶長19年(1614年)11月26日、上杉景勝が大和川の南岸にある鴫野村を攻撃する。これに対して、豊臣衆は大野治長ら七手組が援軍に出て応戦する。

一方、佐竹義宣も慶長19年(1614年)11月26日に大和川の北岸にある今福村を攻撃する。これに対し、豊臣衆は後藤基次と木村重成が援軍に駆けつける。

激戦の末、鴫野村は上杉景勝らに制圧された。今福村は後藤又兵衛(後藤基次)と木村重成の活躍により、佐竹義宣を撃退した。このとき、後藤又兵衛(後藤基次)は鉄砲で撃たれて負傷する。

しかし、退いた佐竹義宣が上杉景勝に援軍を求め、上杉勢が豊臣衆を側面から攻撃したため、後藤基次や木村重成も撤退した。

このとき、大阪城内に居た豊臣衆は、名高き上杉軍の軍法を見るため、城壁に集まって戦を見学したという。

その後、徳川家康が上杉陣営を訪れて「ご苦労であった」とねぎらうと、上杉景勝は「子供の喧嘩に苦労はございません」と答えたと伝わる。

■藤堂高虎の指切り
こうした間も籠城する豊臣秀頼は、豊臣恩顧武将の寝返りを求めるため、江戸幕府軍の豊臣恩顧武将に密書を送って内応工作を続けていたが、豊臣恩顧武将はことごとく密書を徳川家康に提出しており、豊臣家に寝返る豊臣恩顧武将は居なかった。

しかし、江戸幕府軍の間では豊臣恩顧武将の裏切りが噂されており、豊臣恩顧武将は味方から疑惑の目で見られ、疑惑を払拭するために必死であった。

このななか、江戸幕府軍の松平忠直の陣に不審な男(吉川瀬兵衛)が迷い込んだた。

取り調べると、男(吉川瀬兵衛)は江戸幕府軍の藤堂高虎に宛てた密書を持っており、密書には「豊臣秀頼様は、徳川家康と徳川秀忠の両将を大阪城へ誘い出してくれたことに喜んでいる。同士を糾弾して反撃すれば、約束通り、国を与えよう」と書いてあった。

藤堂高虎は豊臣秀吉に仕えた豊臣恩顧武将だが、関ヶ原の合戦で東軍に属して活躍し、今治20万石を拝領した。藤堂高虎は豊臣恩顧武将だったうえ、主を転々と変えていたので、江戸幕府軍の味方から裏切りを疑われていた。

そこで、江戸幕府軍の松平忠直は徳川家康に藤堂高虎の裏切りを報告したが、徳川家康は敵の計略だと見抜き、相手にせず、男(吉川瀬兵衛)を藤堂高虎に引き渡し「手足の指20本を切り落とし、額に『秀頼』の烙印を押して大阪城へ捨てよ」と命じた。

男(吉川瀬兵衛)を引き取った藤堂高虎は、家臣・藤堂主膳(藤堂吉親)に命じて男(吉川瀬兵衛)を拷問にかけると、男(吉川瀬兵衛)は大野治長の家臣・吉川瀬兵衛と自白した。

藤堂主膳(藤堂吉親)は命令通り、吉川瀬兵衛の手足の指を切ったが、12本から13本を切ったところで、吉川瀬兵衛が弱り切ったため、情けを掛けて、指を切るのを止めた。

そして、藤堂主膳(藤堂吉親)は、吉川瀬兵衛の額に「秀頼」の烙印を押すと、戸板に載せて大阪城の黒門へ運んだ。

藤堂主膳(藤堂吉親)は大阪城内の兵に吉川瀬兵衛を引き取るように告げたが、城兵は知らないと言うので、仕方なく、吉川瀬兵衛を黒門に置いて帰ると、その日の夜に誰かが吉川瀬兵衛を城内に取り込んだらしく、吉川瀬兵衛の姿は無くなっていた。

■大坂冬の陣と生鮭
大阪城を包囲する徳川家康は、大阪城から逃げてきた者を捕らえて、大阪城内の話を詳しく聞いたので、大阪城内で流通している米の値段までも知っていた。

そして、徳川家康は大阪城から逃げ出してきた町民や農民すら許さず、指を切り落として大阪城へと送り返していた。

そのようななか、大阪城内で生鮭が流通している事が判明する。しかし、江戸幕府軍は大阪城を完全に包囲しているので、大阪城内に生鮭が出回るはずがない。(注釈:当時、鮭は貴重で高価な魚だった。)

このため、江戸幕府軍の間では、江戸幕府軍の誰かが豊臣秀頼に生鮭を献上しているに違いない、という噂が流れていた。

(注釈:豊臣恩顧武将は、豊臣秀頼の上洛要請には応じなかったが、福島正則・加藤忠広・毛利輝元が水面下で豊臣家を支援した。詳しくは「大坂冬の陣-黒田長政・島津家久・福島正則・平野長泰らの対応のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

そこで、徳川家康は豊臣恩顧の寝返りを警戒して、11月27日には紀伊(和歌山県)・和歌山藩の藩主で豊臣恩顧の浅野長晟を陣返して後方へ下げ、翌日の11月28日には和泉(大阪府)・岸和田藩の藩主で豊臣恩顧の小出吉英も陣替えして後方へ下げた。

■大坂冬の陣-真田昌幸の徳川家康暗殺計画
徳川家康は慶長19年(1614年)11月28日に船で福島方面を巡視することにした。

徳川家康の巡視を知った真田幸村は、豊臣家に相談すること無く、独断で徳川家康の暗殺を計画し、嫡男・真田大助(真田幸昌)と共に狙撃の得意な者50人と精鋭18人を率いて前日の11月27日午後10時ごろに天満川を立ち、博労淵の南にある葦洲の葦の中に身を潜めて徳川家康が来るのを待った。

このとき、真田幸村は誰にも知らせず、徳川家康の暗殺を実行しようとしたが、嫡男・真田大助(真田幸昌)は後で豊臣家から咎められる事を懸念し、後藤又兵衛(後藤基次)にだけ、手紙で徳川家康暗殺計画を知らせていた。

しかし、慶長19年(1614年)11月28日は雨が降り非常に寒かったので、本多正信や南光坊天海が高齢の徳川家康を心配して巡視を中止させ、代わりに本田正純らに巡視させた。

慶長19年(1614年)11月28日、葦の中に潜んで徳川家康を狙撃しようとしていた真田幸村の兵士は、本田正純の旗を見て「本田正純でもいいので討ち取って手柄にしましょう」と進言したが、真田幸村は「徳川家康でなけば、殺しても意味は無い」と言い、兵を引き上げた。

■後藤又兵衛(後藤基次)の逸話
(注釈:時系列では少し後の話ですが、徳川家康を暗殺しようとした真田幸村と対照的な後藤又兵衛の逸話があるので紹介しておきます。)

慶長19年(1614年)12月、徳川家康が大阪城の南側を巡視したとき、大阪城の兵士は徳川家康に向かって鉄砲を撃ちかけた。

すると、後藤又兵衛(後藤基次)は「あのような名将(徳川家康)は、鉄砲で討ち取るものではない」と言い、鉄砲を撃つのを止めさせた。

■大坂冬の陣-博労淵の戦い
豊臣家は大阪城の西にある博労淵という場所に砦を作り、薄田兼相が700の兵で博労淵の砦を守っていた。

慶長19年(1614年)11月19日に大阪城の西にある木津川口の砦を攻め落とした蜂須賀至鎮は、住人から、博労淵の砦は強固では無いと聞いていたので、池田忠雄と協力して、大阪城西にある博労淵・阿波座・土佐座の砦も攻め落とそうと考えていた。

一方、徳川家康も水野勝成らに、博労淵の砦を大砲で破壊するように命じており、水野勝成らが準備を進めていた。

それを知った蜂須賀至鎮は、水野勝成らに手柄を採られることを危惧した。

なぜなら、蜂須賀至鎮は豊臣恩顧なので、蜂須賀家政は豊臣家への内応が疑われていたため、武功を上げて徳川家康に忠義を示す必要があったのである。

そこで、蜂須賀至鎮は、慶長19年(1614年)11月29日未明に水路と陸路に別れて博労淵の砦を急襲した。

そのとき、博労淵の砦の守将・薄田兼相は、神崎にある遊郭で遊女とシッポリとチョメチョメしており、博労淵の砦を留守にしていたので、博労淵の砦の兵は統率がとれず、敗走してしまう。

また、慶長19年(1614年)11月29日、大阪城の西にある野田・福島に豊臣衆の大野治胤が水軍800を率いて布陣していたが、江戸幕府軍の水軍・九鬼守隆や向井忠勝に攻められて大敗し、逃げ去った。

このため、豊臣衆の大野治胤と薄田兼相の2人は味方から、「橙武者(だいだいむしゃ)」と馬鹿にされるようになる。(注釈:橙=ダイダイは大きくて色は良いが、酸味が強くて正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)

さて、博労淵の砦を失った豊臣家は、場外で防衛することを諦め、慶長19年(1614年)11月30日に大阪城西部の船場に火を掛けて撤退し、大阪城へと撤収した。

(注釈:後藤又兵衛が船場に放火して撤退するときの逸話は「大坂冬の陣-後藤又兵衛と花房助兵衛(花房職秀)の戦い」をご覧ください。)

なお、豊臣恩顧で白い目で見られていた蜂須賀至鎮は、今回の功績が認められ、大坂冬の陣の後、淡路国(淡路島)7万石を賜った(大坂冬の陣、あまり加増された武将は居なかったので、7万石の加増は高評価だった)。

真田幸村の生涯-真田丸の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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