夜討ちの大将 塙団右衛門(塙直之)の生涯

大阪冬の陣で蜂須賀至鎮の陣に夜襲を行って功名をあげた牢人・塙団右衛門(塙直之)の生涯を描く「夜討ちの大将、塙団右衛門(塙直之)の生涯のあらすじとネタバレ」です。

■塙団右衛門(ばん・だんえもん)の生涯

塙団右衛門(塙直之)の前半については、諸説があり、判然とせず、塙団右衛門(塙直之)の名前が出てくるのは朝鮮出兵の時からである。

一説によると、塙団右衛門(塙直之)は尾張(愛知県)の出身で、織田家の家臣・塙直政の一族だといい、織田信長に仕えた後、豊臣秀吉の家臣・加藤嘉明に仕えた。

加藤嘉明は、「賤ヶ岳の七本槍」の1人で、後に伊予・松山藩(愛媛県)の藩主となる人物である。

塙団右衛門(塙直之)は朝鮮出兵のとき、加藤嘉明の水軍として出陣し、敵の番船を乗っ取って功名を上げ、1000石の鉄砲頭に出世した。このとき、名前を「塙団右衛門」と改めたという。

■塙団右衛門と関ヶ原の戦い

加藤嘉明は豊臣恩顧武将であったが、関ヶ原の合戦では、徳川家康の東軍に属したので、家臣の塙団右衛門(塙直之)も東軍として関ヶ原の戦いに参加した。

関ヶ原の合戦のとき、塙団右衛門(塙直之)は加藤嘉明から「敵を誘き出してこい」と命じられて敵陣へと行ったが、既に敵将は陣を整えていたので、何もせずに引き返さなければならなかった。

しかし、塙団右衛門(塙直之)は命令とはいえ、敵に後ろを見せて引き返すのは嫌だったので、敵に鉄砲を一斉射撃して帰った。

すると、加藤嘉明が「お前は、勇んでばかりで、兵の道理を理解していない。お前は大将の器では無い。お前のような者を派遣したのが間違いであった」と叱責したので、塙団右衛門(塙直之)は「敵が弱かったのだから、仕方が無い。道理の無い罰を被った」と加藤嘉明を恨んだ。

その後、塙団右衛門(塙直之)は「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」と書き残し、加藤家を出奔した。

(書き下し文:遂に江南の水に留まらず、高く飛ぶ天地の一閑鴎)

(意味:私は江南という小さな水に留まることなく、天高く飛ぶ一羽のカモメである)

すると、加藤嘉明は激怒し、塙団右衛門(塙直之)が他の大名に仕官できないようにする「奉公構」という措置を執った。

(注釈:関ヶ原の合戦の後、福岡藩・黒田家を出奔した後藤又兵衛も黒田長政に「奉公構」の措置を執られたため、他家に仕官できず、牢人となり、大阪府の陣で大阪城へ入った。後藤又兵衛の生涯については「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯」をご覧ください。)

その後、小早川秀秋は奉公構を無視して塙団右衛門(塙直之)を召し抱えた。小早川秀秋の方が位が高かったので、加藤嘉明は文句を言えなかったが、小早川秀秋が死に小早川家は改易されたため、塙団右衛門(塙直之)は牢人となる。

その後、松平忠吉が塙団右衛門(塙直之)を召し抱える。松平忠吉は徳川家康の息子だったので、加藤嘉明は文句を言えなかったが、松平忠吉も急死して改易されたため、塙団右衛門(塙直之)は再び牢人となる。

その後、福島正則が塙団右衛門(塙直之)を召し抱えようとしたが、福島正則は同格だったので、加藤嘉明から抗議を受けて断念した。

塙団右衛門(塙直之)は仕官を諦め、京都にある妙心寺の大龍和尚のもとに身を寄せて出家し、「鉄牛」と名乗ったが、刀を帯びたまま托鉢をしたので、檀家から批判された。

そのようななか、豊臣秀頼と徳川家康が対立して大坂冬の陣が起きた。塙団右衛門(塙直之)は徳川家康に味方しようとしたが、徳川家康が勝手も出世できないと思い、豊臣秀吉の要請に応じて大阪城へ入った。

■夜討ちの大将、塙団右衛門

塙団右衛門(塙直之)は牢人として大阪城に入ったが、真田幸村や後藤又兵衛(後藤基次)のように有名でも大名格でもないため、軍議にも出席できず、部隊を与えてくれるような身分でもなかったので、豊臣衆・大野治房の傘下に配属され、大阪城の西側の防御にあたった。

塙団右衛門(塙直之)が大坂冬の陣で活躍するのは、真田幸村の真田丸の戦いの2週間後の慶長19年(1614年)12月16日のことである(資料によって12月17日)。

江戸幕府軍は真田丸の戦いで大敗したが、江戸幕府軍は依然として大阪城を完全に包囲しており、徳川家康は豊臣家と和睦交渉を開始していた。

そのようななか、塙団右衛門(塙直之)が江戸幕府軍への夜襲を計画した。塙団右衛門(塙直之)の上司・大野治房は、豊臣家を主導している大野治長の弟だったが、兄の大野治長と違い、抗戦派だったので、塙団右衛門の夜襲を許可した。

塙団右衛門(塙直之)は、自分を奉公構にした元主君・加藤嘉明を恨んでいたが、加藤嘉明は豊臣恩顧武将だったので、福島正則・黒田長政らと共に、徳川家康から江戸の留守を命じられており、大坂冬の陣には出陣していなかった。

そこで、大阪城の西側に布陣している江戸幕府軍・蜂須賀至鎮の家臣・中村右近の陣へ夜襲を掛けることにした。

蜂須賀至鎮は阿波・徳島藩(徳島県)の藩主で、祖父が豊臣秀吉の側近・蜂須賀小六だったため、江戸幕府軍の味方から、豊臣恩顧武将とみられ、裏切りを疑われていた。

そこで、蜂須賀至鎮は疑惑を払拭するため、豊臣軍が大阪城の西側場外に築いていた砦を次々と攻め落として戦国無双の活躍をし、大坂冬の陣で一番の功名を挙げていた。

さて、豊臣家と徳川家の和睦が目の前に迫った慶長19年(1614年)12月16日、塙団右衛門(塙直之)は16歳以上、50歳以下の士卒を80人ほど集めると、士卒に従者を付け、静かに門から出ようとした。

そのとき、槍を取る為に従者を大声で呼んで騒ぐ者が居たため、塙団右衛門(塙直之)は「刀で戦え。どうして槍を取る必要がある。敵の首など取らずに、旗や武器を取ってこい」と命じて、蜂須賀至鎮の家臣・中村右近の陣へ夜襲を掛けた。

しかし、江戸幕府軍・蜂須賀至鎮の陣営は、塙団右衛門の夜討を予想していた。

実は、蜂須賀至鎮の家臣・樋口内蔵助が「豊臣方は全ての橋を焼き落としたのに、本町口の端だけは焼いていないのは、夜襲の為だ。今日、城の狭間からこちらの様子をうかがっていたので、夜討が来るはずだ」と言い、塙団右衛門(塙直之)の夜討を予想していたのである。

このため、蜂須賀至鎮の家臣・中村右近は、兜を被っただけで陣から飛び出して、塙団右衛門(塙直之)の夜討に応戦したが、豊臣衆の木村喜右衛門(木村喜左衛門)に討ち取られた。

蜂須賀至鎮の家臣・稲田修理は、普通なら、中村右近の陣まで遠回りしなければならなかったが、夜襲に備えて近道を作っていたので、直ぐに中村右近の陣営に駆けつけた。

しかし、既に中村右近の部隊は崩れており、敵が稲田修理をめがけて集まってきたので、稲田修理は逃げた。

塙団右衛門(塙直之)は本町橋の上で将机に座って動かず、采配を振るって士卒を指揮し、中村右近など150人以上を討ち取り、夜襲を成功させた。

そして、塙団右衛門(塙直之)は、「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也(夜襲の大将は、塙団右衛門直之)」と書いた木札を用意しており、道々に木札をまかせて、自分の名前を知らしめた。

■塙団右衛門(塙直之)と加藤嘉明の遺恨

やがて、大坂冬の陣の和平が成立すると、塙団右衛門(塙直之)は大阪城の今福口に、長さ二尺余り(約60cm)の木に「塙団右衛門」と書いて立てた。

人々が不思議がって塙団右衛門(塙直之)に理由を尋ねると、塙団右衛門(塙直之)は「加藤嘉明が私を恨んで『塙団右衛門を探し出して誅殺しよう』と言ったと聞いたので、射手を待っているのだ」と答えた。

■塙団右衛門と夜討の理由

塙団右衛門(塙直之)は夜討で功名をあげたので、大坂冬の陣の和平が成立すると、大勢の知り合いが塙団右衛門(塙直之)を尋ねてきた。

あるとき、知り合いの黒川三郎右衛門が尋ねて来て、塙団右衛門(塙直之)と昔話をした。

そのとき、塙団右衛門(塙直之)が「林半右衛門は親しくしているのに、連絡してこないのは不思議だ」と言ったので、黒川三郎右衛門は「林半右衛門は池田家に奉公しており、今は天満橋の陣所に居るので事情を尋ねてこよう」と答えた。

黒川三郎右衛門は林半右衛門の元へ行って理由を尋ねると、林半右衛門は「私は塙団右衛門と『たとえ大国を有しても、自ら槍を取り、思うがままに戦をするものではなければ、男ではあるまい』と約束しあったのに、塙団右衛門は夜討のとき、将机に座って采配をふるったと聞く。塙団右衛門は48歳で老いたというわけではない。約束した言葉に背いたから、使者も送らなかったのだ」と答えた。

黒川三郎右衛門が塙団右衛門の(塙直之)元に戻って林半右衛門の言葉を伝えると、塙団右衛門(塙直之)は「林半右衛門の言う事はもっともだ。しかし、私は加藤嘉明に『大将の器では無い』と罵られた事が無念で、軍兵を指揮して加藤嘉明に思い知らしめたかったのだ。だから、私は、槍を持って戦いたいと思ったが、そうしなかった。再び戦いがあれば、刀槍が折れるまで戦おう」と答えた。

■塙団右衛門と大坂夏の陣

やがて、豊臣秀頼と徳川家康の和平が崩れ、大坂夏の陣が勃発する。

大坂冬の陣の和平で大阪城の堀は埋められており、丸裸となった大阪城に籠城は出来ず、豊臣衆は大阪城の南方に陣を敷いて江戸幕府軍を迎え撃つことになる。

豊臣家は、徳川家康らが着陣する前に、紀州(和歌山県)を攻めることを決め、大野治房を紀州へと侵攻させた。牢人・塙団右衛門(塙直之)は大野治房の傘下として、紀州へと出陣した。

江戸幕府軍の紀州藩主・浅野長晟は、大阪城を目指して出陣していたが、豊臣衆の大野治房が攻めてくるという知らせを受けて、樫井という場所まで引き返し、豊臣衆を迎え撃った(樫井の戦い)。

牢人・塙団右衛門は林半右衛門との言葉を守るかのごとく、一番槍を争って敵陣に突き進み、樫井の戦いで討ち死にした。

なお、大坂の陣での実話や逸話に関しては「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

スポンサードリンク