真田幸村と真田丸の戦いのあらすじとネタバレ

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「大坂冬の陣-真田幸村と真田丸の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田幸村と大坂冬の陣のあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大坂冬の陣-真田丸の戦いのあらすじとネタバレ
大坂冬の陣は慶長19年(1614年)11月中旬、江戸幕府軍の蜂須賀家政が大阪城の西にある木津川口の砦を攻撃したことで始まったが、局地的な戦いであり、本格的な戦いは始まっていなかった。

局地戦を制した江戸幕府軍は、完全に大阪城を包囲した。

大阪城の弱点である南方には、左翼(西)から伊達政宗と伊達秀宗・藤堂高虎・松平忠直・赤備えの井伊直孝・寺沢広高と脇坂安元・古田重治・桑山一直と榊原康勝と松倉重政・前田利常が布陣し、その後ろには徳川家康と徳川秀忠が布陣した。

江戸幕府軍は総勢20万で、そのうち、大阪城の南方に布陣した江戸幕府軍は10万である。

対する豊臣家は、大阪城の西で行われた局地戦で負けたため、大阪城内に兵を撤収し、完全な籠城に入った。籠城する豊臣家の勢力は、豊臣家の七手組1万と牢人衆9万の計10万である。

大阪城の弱点である南部には、西(右翼)から大野治長・織田長瀬・長宗我部盛親・木村重成・石川康勝・豊臣家の七手組が布陣し、その後ろに遊撃軍の後藤又兵衛(後藤基次)

そして、真田幸村(真田信繁)は、5000(もしくは6000)の牢人衆を率いて、大阪城の東南の外郭の外に築いた馬出丸「真田丸」に籠もっていた。

そのうち、真田幸村(真田信繁)の手勢は、信濃から連れて来た手勢と九度山から慕ってきた猟師や紀州・雑賀衆を加えた150人程度で、後は豊臣秀頼から与えられた牢人衆である。

■真田幸村と赤備えと真田丸
真田幸村(真田信繁)を言えば、武具を朱色で統一した赤備えだが、真田幸村(真田信繁)が真田丸の戦いで赤備えを身につけていたという一次資料は無く、史実で真田幸村(真田信繁)が赤備えを身につけていたかは分からない。

真田幸村(真田信繁)が大坂の陣で赤備えを身につけていたという根拠は、2次資料であり、史実の真田幸村(真田信繁)は赤備えを用意する時間もお金も無かったと考えられている。

また、真田幸村(真田信繁)といえば、「六文銭」の家紋が有名だが、真田幸村は真田丸の戦いのとき、「六文銭」の旗印は使っていない。

一般的には、真田幸村(真田信繁)は信濃の真田家に遠慮して六文銭の旗印を使わなかったとされるが、、真田幸村(真田信繁)自身が徳川に内通していると疑われていたので、六文銭の旗印が使えるような状況では無かったと考えられる。

なお、大坂冬の陣のとき、信濃の兄・真田信之は病気で出陣できず、名代として、嫡男・真田信吉と次男・真田信政が出陣していた。

嫡男・真田信吉と次男・真田信政は大坂冬の陣のとき、大阪城の東北に布陣しており、真田幸村(真田信繁)と戦う事は無かった。

■大坂冬の陣-真田丸の攻防
大阪城の西に築いた木津川口の砦や博労淵の砦を江戸幕府軍に攻め落とされた豊臣家は、場外ので防衛を諦め、慶長19年(1614年)11月30日に大阪城西にある船場に火を放って城内へと撤収し、完全な籠城に入った。

(注釈:牢人・後藤又兵衛が船場に火を掛けて撤退する時の逸話は「大坂冬の陣-後藤又兵衛と花房助兵衛(花房職秀)の戦いのあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

一方、住吉の本陣を置く徳川家康は慶長19年(1614年)12月2日、前方の茶臼山へ本陣を移すため、江戸幕府軍の先陣を前進させた。

このとき、先陣の井伊直孝が大阪城に向かって一斉に鉄砲を撃って、鬨の声を上げた。

井伊直孝は、徳川四天王の1人・井伊直政の次男である。父・井伊直政は、徳川家康から、滅んだ武田家の赤備えの復活を命じられて以降、赤備えの精鋭部隊を率いて方々の戦で功名をあげ、近江18万石の佐和山藩(彦根藩)の大名に出世した。

父・井伊直政は関ヶ原の合戦の2年後(1602年)に死去し、家督は嫡男・井伊直勝が継いでいたが、嫡男・井伊直勝は病弱(一説によると凡愚)だったらしく、次男・井伊直孝が名代として大坂冬の陣に出陣していた。

さて、陣替えを命じられた井伊直孝が勝手に鉄砲を撃ち始めたので、徳川秀忠は井伊直孝が赤備えを身につけて調子に乗っていると激怒し、本多正信に命じて井伊直孝の軍法違反を徳川家康に報告させた。

しかし、本多正信が徳川家康の本陣に行くと、本田正信が井伊直孝の軍法違反を報告する前に、徳川家康は「流石は井伊直政の息子だ。鉄砲を撃って味方の陣替えを競わせようとしたのだろう」と感心した。

そこで、本多正信は機転を利かせて、「これほど、お2人のお考えが同じとは珍しいものです。徳川秀忠様も井伊直孝に感心し、徳川家康様に申し上げろと仰いました」と告げた。

なお、赤備えで有名な井伊直政は美少年だったので、若い頃から徳川家康に寵愛され、徳川家康と肉体関係(衆道関係/性的関係)にあったとされる。このため、徳川家康は次男の井伊直孝も寵愛しており、井伊直孝に甘かったとされる。

さて、こうして先陣が前進すると、徳川家康も本陣を前進させ、慶長19年(1614年)12月3日に茶臼山へ本陣を置きいた。また、徳川秀忠も前進して茶臼山の東にある岡山に本陣を置き、江戸幕府軍は包囲を縮めて大阪城攻めの準備に入った。

真田幸村(真田信繁)が籠もる真田丸の正面には、江戸幕府軍の右翼・前田利常1万2000が布陣しており、赤備えの井伊直孝は、横一列にならんだ江戸幕府軍の中央に陣取っていた。

慶長19年(1614年)12月2日、徳川家康は、前田利常の陣営を訪れると、前田利常に軽々しく攻める事を無いように注意し、塹壕を掘り、真田丸の向かいに付け城を作るように命じた。

徳川家康は、真田丸の向かいに、鉄砲の盾となる竹束で防御した付け城を作り、その拠点から鉄砲や大砲で真田丸を攻撃しようと考えていたのである。

なお、ジグザグに塹壕を掘りながら攻め寄せるという作戦は、近代戦に通じる作戦で、当時はヨーロッパでもまだ定着しておらず、徳川家康の作戦は世界的に見ても珍しい作戦だという。

対する大阪城の牢人・後藤又兵衛(後藤基次)は、敵の様子を見て、大阪城本丸へ行き、「近く、敵の総攻撃があるかもしれない。遊撃軍は各方面に援軍に向かう準備をするべきだ」と進言した。

これを受けて、大阪城東部を守っていた遊撃軍・木村重成も大阪城の南部へと移動し、大阪城南部を守る遊撃軍の後藤又兵衛(後藤基次)・大野治長と共に江戸幕府軍の攻撃に備えた。

■真田丸の戦い
真田幸村(真田信繁)が築いた真田丸と江戸幕府軍・前田利常の陣営との間には、篠山という小さな山があり、真田幸村(真田信繁)は篠山に鉄砲隊を伏兵として置いていた。

江戸幕府軍の前田利常が塹壕を掘り始めると、真田幸村(真田信繁)は篠山から前田利常の兵を狙撃した。

前田利常は徳川家康から慎重に行動するように命じられていたが、この狙撃によって前田利常の陣営に多くの死傷者がでたので、前田利常の先手・本多政重らが慶長19年(1614年)12月4日午前2時に篠山を攻めた。

しかし、真田幸村(真田信繁)はこれを察知して伏兵を退いていたので、前田利常の右先手・本多政重が篠山を攻めたが、既に真田軍は居らず、本多政重は無血で篠山を占領した。

それを見た前田軍の先手衆は、真田丸へ向けて転進する。前田利常の右先手・本多政重は止めたが、前田軍の先手衆は聞く耳を持たなかった、

その後、真田丸へ向けて転進した前田利常の先手衆は、濃い霧で方向が定まらないまま、真田丸の前に出てしまい、真田丸との戦いになる。

前田利常の右先手・本多政重は制止したが、真田丸に居る真田幸村が挑発したので、先手衆・奥村摂津守ら先手衆は真田丸へと攻め寄せた。

このとき、前田利常の先手衆は、鉄砲を防ぐ炊束を持っていなかったので、真田丸からの中秋砲火を浴びて、大きな被害を出した。

真田丸から雨のように球が飛んできたうえ、真田幸村(真田信繁)の部隊には九度山から従ってきた猟師や紀州・雑賀衆など、鉄砲の名手が多く居たため、命中率が高かったという。

前田利常の軍勢は、2番隊、3番隊を差し向けたが、真田丸からの中秋砲火を浴びて、被害を拡大させた。

これを知った前田利常は、「軍法に背いて先駆けし、そればかりか、見苦しい振る舞いで敵味方に笑われ、私にまで恥をかかせるとは言語道断だ」と激怒して撤退を命じた。

さて、大阪城の南方に布陣していた江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝・松平忠直は、前田利常の軍勢が真田丸を攻撃し始めたのを見て、抜け駆けされたと思い、慌てて真田丸へと攻め寄せた。

赤備えの井伊直孝は真田丸の西部へと攻め寄せたが、真田丸から集中砲火を受けた。

藤堂高虎・松平忠直は大阪城の八丁堀へと攻め寄せたが、豊臣家は徳川方に内応した裏切り者の牢人・南条元忠を捕らえており、後藤又兵衛(後藤基次)が大阪城南部の警備を強化していたので、藤堂高虎・松平忠直も大阪城から駐中砲火を浴びた。

藤堂高虎・井伊直孝・松平忠直の先手は、空堀まで攻め寄せたが、余りにも鉄砲が激しいので空堀に逃げ込んだ。そして、空堀から出ようとすると鉄砲で撃たれるため、空堀の中に身を潜め、動けなくなってしまった。

藤堂高虎・井伊直孝・松平忠直は、先手を見捨てて引くわけには行かず、進に進めず、引くに引けない状態になってしまった。

■江戸幕府軍の総攻撃-真田丸の戦い
慶長19年(1614年)12月4日午前4時、江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝・松平忠直らが真田丸を攻めているとき、真田丸の後方の大阪城内で大爆発が起きる。大阪城内を守っていた豊臣衆の石川康勝の兵士が誤って火薬桶を爆発させてしまったのである。

すると、大阪城の南方に布陣していた江戸幕府軍は、この大爆発を見て、真田丸と大阪城南側の城壁へと総攻撃を開始した。

実は、江戸幕府軍の藤堂高虎が、大阪城南東にある平野橋口(真田丸の近く)を守る牢人・南条元忠から内応の約束を取り付けており、南条元忠が朝方に上げる狼煙を合図に大阪城の南方に布陣する江戸幕府軍が総攻撃をかける手はずになっていたのである。

しかし、牢人・南条元忠は豊臣衆の渡辺糺に裏切りを知られ、前日の慶長19年(1614年)12月3日に処刑されていた。また、牢人・後藤又兵衛(後藤基次)に江戸幕府軍の総攻撃を察知して、大阪城南部の防備を強化していた。

それを知らない江戸幕府軍は、牢人・石川康勝の家臣の過失によって上がった火の手を、内応した牢人・南条元忠からの合図だと勘違いして、真田丸と大阪城の南側外郭に対して総攻撃を開始したのである。

(注釈:軍記によっては大爆発は真田昌幸の策略ということになっているが、史実では石川康勝が爆発で負傷しているので、爆発は単なる事故である。また、真田幸村は信用されていなかったのか、大阪城内の様子は全く知らされていなかった)

なお、「真田丸の戦い」というので、真田丸だけで戦が起きたように思われがちだが、実際は真田丸だけで戦いが起こったのではなく、江戸幕府軍の総攻撃は大阪城の南部の外郭全域で戦いが起きている。

さて、徳川家康は大坂冬の陣にさいし、鉄砲対策として鉄盾の製造を開始していたのだが、この段階では鉄盾の製造が間に合っておらず、各大名に鉄盾を配れていなかった。

また、江戸幕府軍は火の手を見て、慌てて総攻撃を開始したため、鉄砲を防ぐ竹束の盾を持たずに攻めており、真田丸や大阪外郭からの一斉射撃を受け、大きな被害を受けた。

真田丸を攻めていた江戸幕府軍の井伊直孝・松平忠直が持ちこたえられなくなって退却しようとすると、真田幸村(真田信繁)の息子・真田大助や高梨内記が真田丸の左右から兵を出して横槍に攻撃したので、江戸幕府軍は被害を増大させる一方であった。

慶長19年(1614年)12月4日の午前2時過ぎに始まった真田丸の戦いは、同日の正午を過ぎても江戸幕府軍は劣勢のままだった。

これに怒った徳川家康は再三にわたり退却を命じたが、真田丸から雨のように鉄砲の弾が飛んでくるため、江戸幕府軍は引くに引けず、動くに動けない状態で、いたずらに死者を積み重ねていった。

そのようななか、赤備えの井伊直孝が、慶長19年(1614年)12月4日午後3時頃になって、ようやく撤退を開始した。

すると、応戦していた豊臣衆も攻撃を停止した。これは弾薬の節約のために攻撃を止めたとも、真田丸の真田幸村(真田信繁)が、余りの数の死者に心を痛めて攻撃を止めたとも伝わる。

ともかく、大阪城や真田丸からの攻撃が止み、江戸幕府軍は慶長19年(1614年)12月4日午後4時になって、ようやく撤退を完了した。

こうして、真田丸の戦いは豊臣衆の大勝利に終わった。江戸幕府軍は大量の死者を出し、空堀が死者で埋め尽くされた。江戸幕府軍の死傷者は数1000人、多い説では死傷者は1万5000人に上ったという。

真田丸の戦いで真田幸村(真田信繁)は英雄になったが、それに不満を持つ豊臣衆も多かった。

確かに真田丸の攻防は激しかったが、江戸幕府軍の攻撃は大阪城の南側全域に行われており、豊臣衆は一致団結して江戸幕府軍を激したいしたのである。

特に、大阪牢人5人衆の1人・長宗我部盛親は真田丸の西半分を受け持っていたにもかかわらず、全く話題にもならなかったので、長宗我部盛親を哀れむ声をもあった。

■真田丸の戦いの後、赤備えの井伊直孝(逸話)
江戸幕府軍は真田丸の戦いで大敗した。この真田丸の戦いは、徳川家康の命令で始まった戦では無く、軍令違反によって引き起こされたため、徳川家康と徳川秀忠は激怒した。

真田丸の戦いの後、徳川秀忠は、軍令違反を犯して真田丸を攻めた赤備えの井伊直孝の処分について本多正信に相談すると、本多正信は「徳川家康様に報告するべきでしょう」と言い、徳川家康の元に報告に行った。

しかし、徳川家康は「今朝のことは、将軍(徳川秀忠)にとっても喜ぶべきことだ。井伊直孝が堀際まで攻め寄せ、敵に威武を示し、味方を奮い立たせた」と井伊直孝を褒めたので、本多正信は戻って徳川秀忠に徳川家康の言葉を報告した。

それを聞いた徳川秀忠は、徳川家康の本陣に向かう時に井伊直孝の陣を通ったので、井伊直孝を睨み付けた。

井伊直孝が孕石備前守にそのことを話すと、孕石備前守は「そのように物事の分からない大将には、こちらから睨み返すべきです」と答えた。

その後、徳川秀忠が徳川家康の本陣から自陣に戻る時に井伊直孝の陣を通ったので、井伊直孝が出迎えると、徳川秀忠は今朝の真田丸攻めての活躍を褒めて、井伊直孝の陣を通り過ぎた。

井伊直孝が孕石備前守にこのことを話すと、孕石備前守は「納得したのなら、そのはずでしょう」と言った。

(注釈:一説によると、徳川家康は井伊直孝の父・井伊直政と肉体関係にあったため、徳川家康は井伊直孝も寵愛したという。)

なお、井伊直孝は父・井伊直政に似て美形だったため、徳川家康は井伊直孝も寵愛しており、大坂冬の陣の後、徳川家康は病弱だった兄・井伊直勝に代わって弟・井伊直孝に家督を相続する事を命じた。

井伊直孝は安藤帯刀を派遣して再三に渡って固辞したが、徳川家康は辞退を認めず、井伊家18万石のうち、井伊直孝に佐和山藩(滋賀県彦根市)15万石、兄・井伊直勝に安中藩(群馬県安中市)3万石を継がせた。

大坂冬の陣-和睦と大阪城の埋め立てのあらすじとネタバレ」へ続く。

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