桑名弥次兵衛(桑名一孝)の生涯

大坂夏の陣で旧主君・長宗我部盛親と戦うことになった戦国武将・桑名弥次兵衛(桑名一孝)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「桑名弥次兵衛(桑名一孝)の生涯のあらすじとネタバレ」です。

■桑名弥次兵衛(桑名一孝)の生涯
桑名弥次兵衛(桑名一孝)は、平家の出身で伊勢の桑名(三重県桑名市)に土着したことから桑名氏を称し、戦国時代の初期に土佐(高知県)へと移り、土佐の大名・長宗我部元親に仕えた。

桑名弥次兵衛(桑名一孝)と父・桑名藤蔵人は土佐の統一で活躍して、天正四年(1576年)に土佐国(高知県)の中村城代に任じられ、長宗我部家の重臣に加わるようになる。

その後、豊臣秀吉の四国征伐で、長宗我部元親は豊臣秀吉に下る。

豊臣秀吉による九州征伐のとき、長宗我部元親ら四国勢は豊後国へと上陸し、九州統一を目指す島津家と対立したが、軍監・仙石秀久が功を焦って戸次川を渡って島津軍を攻めようとしたため、四国勢は大敗した(戸次川の戦い)。

長宗我部元親も「戸次川の戦い」で長宗我部信親や十河存保など有力な家臣を大勢失い、命からがら、撤退することになる。この撤退で桑名弥次兵衛(桑名一孝)は活躍して名を挙げた。

■関ヶ原の戦い
長宗我部元親の家督を継いだのは、4男・長宗我部盛親で、長宗我部盛親は関ヶ原の合戦のとき、東軍に属そうとしたが、石田三成が関所を設けて通れなかったため、成り行きで西軍に属した。

桑名弥次兵衛(桑名一孝)は長宗我部盛親の先鋒を務め、関ヶ原の合戦で活躍した。

関ヶ原の戦いでは前方に布陣していた吉川広家が東軍に内通して動かなかったため、長宗我部盛親も動けず、関ヶ原の戦いには参加出来なかったが、撤退するときに殿を務めて活躍した。

関ヶ原の合戦の後、西軍に属した長宗我部盛親が改易されたため、長宗我部盛親の家臣は浪人となり、離散することになる。

桑名弥次兵衛(桑名一孝)の武勇は東国にまで届いており、諸大名から仕官の誘いがあったが、隣国の伊予(愛媛県)宇和島20万石に出世した藤堂高虎に請われて藤堂高虎に仕えた。

こうして牢人となった長宗我部盛親の家臣を多く受け入れたのが、隣国の伊予(愛媛県)宇和島藩の藤堂高虎であった。

こうして、桑名弥次兵衛(桑名一孝)は、藤堂高虎に家老として仕えて2000石を食み、京都で蟄居する長宗我部盛親を密かに支援した。

■大坂冬の陣
その後、慶長19年(1614年)10月に徳川家康と豊臣秀頼が対立して大坂冬の陣が起こると、長宗我部盛親は豊臣秀頼から土佐一国を安堵されて大阪城へと入る。

すると、長宗我部盛親の旧臣が長宗我部盛親を慕って続々と大阪城へ入った。他家に仕えていた旧臣も、暇乞いをしたり、出奔したりして長宗我部盛親の元へとはせ参じた。

関ヶ原の合戦の後、福島正則に仕えていた長宗我部家の元家臣・吉田猪兵衛は、長宗我部盛親が大阪城へ入ったというので、福島家を出奔して大阪城へと向かった。

しかし、吉田猪兵衛は江戸に居たため、大阪入りが遅れ、大阪に着いた時には戦が始まっており、大阪城に入れなかった。

そこで、吉田猪兵衛は、江戸幕府軍(徳川軍)の藤堂高虎の家臣になっていた元同僚の桑名弥次兵衛(桑名一孝)を尋ねて昔を懐かしみ、大阪城に駆けつけた志を話した。

このとき、長宗我部盛親への忠義と藤堂高虎への忠義とで板挟みになっていた桑名弥次兵衛(桑名一孝)は、「旧恩は忘れておらぬが、今は藤堂高虎から厚恩を賜っており、長宗我部盛親の元に駆けつけることは出来ない。しかし、今回の戦で討ち死にして旧恩に報いるつもりである」と答え、吉田猪兵衛と別れの盃を交わした。

■大坂夏の陣-若江の戦い
さて、大坂冬の陣は和睦に終わったが、大阪城の集まった大量の浪人が大阪城に居座ったため、翌年の慶長20年(1615年)4月に徳川家康は大坂夏の陣を発動した。

徳川家康・徳川秀忠は慶長20年(1615年)5月5日に京都を出発して、河内口から大阪へと入り、星田・砂に布陣していた。

徳川家康・徳川秀忠は翌朝に出陣し、大和(奈良県)から迂回させた大和方面軍と合流するため、道明寺を目指して東高野街道を南下することになっていた。

大阪城の北側を守っていた豊臣軍の木村成重と長宗我部盛親は、徳川家康の動きを察知し、道明寺へと向かおうとした。

しかし、豊臣軍の後藤又兵衛(後藤基次)や真田幸村が道明寺に向けて出陣していたので、木村成重と長宗我部盛親は道明寺へは向かわず、東高野街道を通過する徳川家康・徳川秀忠を側面から攻撃することにした。

木村成重は慶長20年(1615年)5月6日午前2時に出陣して八尾村へと向かい、長宗我部盛親は同日午前4時頃に出陣して八尾村の南にある若江村へと向かった。

このころ、8km南にある道明寺では、豊臣軍の後藤又兵衛(後藤基次)が大和(奈良県)から大阪へ侵攻してきた豊臣軍の伊達政宗らと戦を始めており、長宗我部盛親は遠くから聞こえる鉄砲の音を尻目に進軍した。

さて、この日は、濃い霧が出ており、木村成重と長宗我部盛親は江戸幕府軍に気づかれることなく、進軍することが出来た。

一方、江戸幕府軍(徳川軍)の先鋒・藤堂高虎は、同日午前4時ごろ、物見の報告により、敵らしき者が居ることを知る。

しかし、この日は濃い霧が発生しており、藤堂高虎は敵の様子を把握できなかった。

藤堂高虎は昨夜の軍議で戦闘の禁止を定めていたので、徳川家康の本陣へ向かい、判断を仰ごうとしたが、本陣に向かう途中で霧が晴れてきて、玉串川の西に豊臣軍が布陣している様子が見て取れた。

藤堂高虎は一刻の猶予も無い問い考え、本陣に使者を送り、自身は自陣へと引き返して戦の準備を始めた。

そこへ、藤堂良勝が来て「豊臣軍は我らの方ではなく、若江へと向かっている。徳川家康・徳川秀忠の本陣を突こうとしているのではないか。横槍を入れるべきだ」と攻撃を主張した。

これを受けた藤堂高虎は、豊臣軍の木村成重と長宗我部盛親に攻撃を開始した。

木村成重を攻めた藤堂軍は惨敗したが、長宗我部盛親を攻めた藤堂軍は、長宗我部盛親の先手を破って、長宗我部盛親の本陣へと迫った。

桑名弥次兵衛(桑名一孝)は藤堂高刑の先鋒を勤めて、南側から長宗我部盛親の本陣へと迫るり、長宗我部盛親の手勢を見つけて突撃した。

大阪城に駆けつけた長宗我部盛親の家臣は、桑名弥次兵衛(桑名一孝)が長宗我部盛親を支援していた事を知らなかったので、桑名弥次兵衛(桑名一孝)を裏切り者と思い、桑名弥次兵衛(桑名一孝)を包囲して攻め立てた。

桑名弥次兵衛(桑名一孝)は、長宗我部盛親と藤堂高虎の両方に忠義を示すため、討ち死にすると決めていたので、長宗我部盛親の軍勢に取り囲まれて討ち死にした。

一説には、桑名弥次兵衛(桑名一孝)は一切抵抗せずに討ち取られたので「自殺した」とも言われる。

その後、長宗我部盛親とその家臣は、吉田猪兵衛から、桑名弥次兵衛(桑名一孝)が長宗我部盛親と藤堂高虎の両方に忠義を示すため、討ち死にを決めていた事を聞き、桑名弥次兵衛(桑名一孝)を悼んで泣いた。

その他の大坂冬の陣・大坂夏の陣の逸話や実話は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

スポンサードリンク

コメントを投稿する

コメントは正常に投稿されていますが、反映に時間がかかります。