西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)の生涯

真田丸で有名な真田幸村(真田信繁)の生涯を描く「真田幸村(真田信繁)の生涯」の番外編「西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)の生涯」です。

■西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)の概要
西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は、越前福井藩主・松平忠直の鉄砲頭で、大坂夏の陣のとき、満身創痍になっていた真田幸村(真田信繁/真田左衛門佐)を討ち取った人物である。

■西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)の生涯

西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は、宮地久右衛門の子として生まれた。西尾仁左衛門の誕生日は不明である。西尾仁左衛門の読み方は「にしお・にざえもん」である。

西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は、初めは「宮地久作」と称したが、父親・宮地久右衛門が遠州の浪人・西尾是尊の養子になったため、子の西尾仁左衛門も西尾姓を名乗るようになった。

西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は、武田勝頼と徳川家康が対立した「高天神の戦い」で、徳川勢として活躍して、結城秀康(徳川家康の孫)の鉄砲頭に取り立てられた。

関ヶ原の合戦のとき、結城秀康(徳川家康の次男)は、反乱を起こした会津(福島県)の上杉景勝への押さえを命じられて関東に残り、その任を果たした。

このため、結城秀康は関ヶ原の戦いには参加していなかったが、下総の結城10万1000石から越前の北庄67万石に加増移封され、越前福井藩を立藩する。

結城秀康は、徳川家康の次男だったが、徳川家康から嫌われていたとされ、豊臣秀吉の養子を経て名門・結城家を継いでいたことを理由に、徳川家康は三男の徳川秀忠を後継者とした。

結城秀康は2代将軍・徳川秀忠の実兄であるため、江戸幕府は結城秀康に配慮して、越前福井藩を「制外のお家」として特別扱いした。

結城秀康の死後、結城秀康の嫡男・松平忠直が越前福井藩主となる。西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は結城秀康に引き続き、700石の鉄砲頭として松平忠直に仕えた。

■西尾仁左衛門と大坂冬の陣

慶長19年(1614年)、徳川家康が方広寺の鐘銘に不快感を示し、豊臣家は釈明に舗装する(方広寺鐘銘事件)。

しかし、豊臣家は徳川家康と交渉に当たっていた片桐且元を追放したため、徳川家康は片桐且元の追放を徳川家に対する敵対行為として、慶長19年(1614年)11月に「大坂冬の陣」を発動した。

越前福井藩主・松平忠直は、大阪城の南に布陣し、慶長19年(1614年)12月4日に行われた「真田丸の戦い」で真田幸村の守る真田丸を攻めたが、真田幸村に大敗した。

真田丸の戦いのとき、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)も出陣したと考えられるが、活躍は伝わっていない。

■大坂夏の陣-真田幸村を討ち取る

大坂冬の陣は和睦に終わったが、大阪城に集まった牢人が大阪城に居座ったため、徳川家康は和睦から5ヶ月後の慶長20年(1615年)4月に大坂夏の陣を発動した。

そして、慶長20年(1615年)5月7日、江戸幕府軍15万5000と豊臣軍5万5000が、大阪城の南方で対峙した。

茶臼山には、武具一式を赤色で統一した赤備えの真田幸村が赤いのぼりを立てて布陣していた。真田幸村の赤備えはまるで、まるで茶臼山に咲いた花のようであったという。

茶臼山の南に布陣していた越前福井藩主・松平忠直は、2日前の「八尾・若江の戦い」で藤堂高虎・井伊直孝が苦戦していた時に傍観して助けに向かわなかった事を、徳川家康に叱責され、天王寺方面の先手から外されていたが、軍令を無視して前進を開始する。

天王寺方面の先手を任されていた江戸幕府軍の本多忠朝は、越前福井藩主・松平忠直に先手の功を取られまいとして、天王寺に布陣していた豊臣軍の毛利勝永の軍勢と銃撃戦を開始し、大坂夏の陣の「天王寺の戦い」が開戦する。

豊臣軍は、迂回部隊のキリシタン牢人・明石全登(明石掃部)の狼煙を合図に戦闘を開始する作戦を立てていたが、毛利勢が戦闘を開始したため、豊臣軍の作戦が破綻してしまう。

茶臼山に布陣していた真田幸村は、軍監の伊木遠雄に対して、「事ごとにみな食い違って、ついに為すことなし。これはもはや我が命の終わる秋(とき)である」と漏らすと、嫡男・真田大助を大阪城へと入れ、攻めてきた越前福井藩主・松平忠直と戦った。

そのようななか、江戸幕府軍の西側後方に布陣していた江戸幕府軍の紀州藩主・浅野長晟が紀州街道を通って兵を前進させると、江戸幕府軍の中で「紀州殿(浅野長晟)が裏切り致され候」という噂が流れた(真田幸村が流した虚報とも言われる)。

すると、背後から攻められる事を恐れた江戸幕府軍は、後方から崩れて行き、大混乱に陥った。これは「裏崩れ」と言って最悪の事態だった。

これを好機と見た真田幸村は、前方の越前福井藩主・松平忠直の軍勢を切り裂いて、松平忠直の後方に布陣していた徳川家康の本陣へと突撃した。

真田幸村は徳川家康の本陣に3度の突撃を行い、徳川家康の旗を倒し、徳川家康に自害を口走らせるほど追い詰めたが、徳川家康を討ち取るには至らなかった。

徳川家康の旗が倒れたのを見た江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝が徳川家康の救援に駆けつけ、真田幸村を側面から攻撃した。また、後方に居た越前福井藩主・松平忠直も次第に兵を立て直し始めた。

包囲されることを恐れた真田幸村は、茶臼山まで撤退し、押し寄せてくる越前福井藩主・松平忠直の軍勢と激しく防ぎ戦った。

やがて、越前福井藩主・松平忠直が茶臼山に旗を立てたが、それも、真田幸村は激しく抵抗した。

真田勢の真田与左衛門・真田勘解由・江原左平太・福岡平三郎・本郷左近・早川平左衛門・青柳清安・高梨主膳・大谷大学らは真田幸村の危機に駆けつけ、真田幸村を守って戦ったが、いずれも枕を並べて討ち死にした。

開戦から2時間が経過したころ、真田幸村は傷を負い、戦い疲れて、茶臼山の北にある安居天神の付近で、従者3人と共に休息を取り、真田幸村は従者の手当をしてやっていた。

そこへ、越前福井藩主・松平忠直の鉄砲頭・西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)が現れ、真田幸村と従者3人を討ち取った。真田幸村はさしたる抵抗もせず、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)に討ち取られたという。

■真田幸村の首実検の逸話

西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は真田幸村を討ち取り、首を取ったが、誰の首か知らなかった。

ところが、原隼人が「歯が2本抜け落ちているので、真田左衛門佐(真田幸村)の首だ」と言ったので真田幸村の首だと判明し、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は討ち取った首を徳川家康に提出した。

徳川家康の家臣・真田信尹は、真田幸村の伯父にあたり、前年の大坂冬の陣で真田幸村と対面していたので、徳川家康は真田信尹を首実検に立ち会わせ、真田幸村の首を確認させた。

このとき、伯父・真田信尹は空気を読まずに、「真田左衛門佐(真田幸村)の様に見えますが、死んで人相が変わっているので、断言は出来ません」と答えたので、徳川家康の不信を買ってしまう。

しかし、真田信尹にも断言できない事情があった。

大坂夏の陣のとき、真田幸村の首を討ち取った者には5万石、10万石の恩賞が与えられると言われていたので、大勢の者が「これが真田左衛門佐(真田幸村)の首です」と言って首実検にかけており、真田左衛門佐(真田幸村)という札の付いた首が大量に並んでいたのである。

伯父の真田信尹が真田幸村の首だと断言しなかったので、徳川家康は西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)に真田幸村を討ち取った時の状況を尋ねた。

西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)が「互いに死力を尽くして戦い、最期は私が討ち取りました」と説明したが、徳川家康は「真田左衛門佐(真田幸村)ほどの侍が、西尾程度の者に討たれるはずがない。おおかた首を拾ったのだろう」と吐き捨てた。

(注釈:西尾仁左衛門の説明は、従来は西尾仁左衛門が手柄欲しさに誇張したと言われていたが、最近は事実だったという説が出てきた。)

しかし、徳川家康は戦略上、真田幸村の死亡を確定しておきたかったので、結局、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)が持ってきた首が「鹿角の兜」を被っていたことから、真田幸村の首だと認定された。

別説によると、越前福井藩主・松平忠直が真田幸村の首だと言って執拗に主張したので、松平忠直に配慮して、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)が持ってきた首が真田幸村の首だと認められた。

(注釈:越前福井藩主・松平忠直の父・結城秀康は、徳川家康の次男にして、第2代将軍・徳川秀忠の実兄なので、越前福井藩の松平家は「制外のお家」として特別扱いを受けていた。)

こうして、真田幸村の首が公式に認定され、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は徳川家康から1100石を拝領し、徳川秀忠からは黄金など拝領し、さらに越前福井藩主・松平忠直からは刀を賜った。

ただ、伯父の真田信尹が真田幸村の首だと断定しなかったことから、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)が取った首は真田幸村の影武者・望月宇右衛門という噂が流れ、真田幸村は生き残り、九州に落ち延びたという噂が流れた。

■西尾仁左衛門の晩年

死んだ敵の首を取るのを「拾い首」と言い、首の価値が落ちた。生きた敵を討ち取っても、目撃者の居ない場合は首の価値が落ちるら場合が多い。

鉄砲頭に過ぎない無名の西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は、大坂夏の陣で真田幸村を討ち取るという大金星をあげたが、評判は上がらなかった。

岡山口に布陣していた江戸幕府軍の細川忠興(細川ガラシャの夫)は、手紙で「真田左衛門佐、合戦場において討死、古今これなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら、手負ひ候ひて臥れ伏せして居られ候を取り候に付、手柄にも成らず候」と報告し、真田幸村を絶賛したが、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)を酷評している。

(注釈:細川忠興に監禁された細川ガラシャの生涯は「細川ガラシャの生涯」をご覧ください。)

西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は帰国後、菩薩寺に「真田地蔵」を作って真田幸村を祀った。

講談で真田幸村が英雄になった影響で、真田幸村を討ち取った西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)は講談で散々に酷評されており、西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)はあまり良い晩年を過ごさなかったと考えられる。

西尾仁左衛門(西尾宗次/西尾久作)が寛永12年(1635年)に病死すると、人々は「真田の祟り」と噂した。

なお、真田地蔵の下には真田幸村の鎧袖が埋められていると言い、西尾家は代々、真田地蔵を祀った。

なお、真田幸村の生涯は「真田左衛門佐(真田幸村)の生涯」をご覧ください。

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