木村重成の妻・青柳の生涯

大坂夏の陣で豊臣家の為に散った一輪の華!戦国最強のイケメン木村重成(木村長門守重成)の妻・青柳の生涯を描く「木村重成の妻・青柳の生涯」です。

■木村重成の青柳の生涯

木村重成の妻の名は「青柳」と言う。妻・青柳は七手組頭の1人・真野頼包の娘で、大蔵卿局(大野治長の母親)の姪である。青柳の読み方は「あおやなぎ」である。

講談では、木村重成の妻は「白妙」と言う女性だが、白妙のモデルは青柳のである。

青柳は淀君の側で仕えており、和歌や琴に秀で、大阪城中で随一の美人であった。

一方、木村重成(木村長門守重成)は、背が高く、色が白く、所作も美しく、言動や立ち振る舞いが穏やかで、物腰も柔らかく、大阪城の女官1万人が憧れる美丈夫(イケメン)であった。

木村重成は大坂冬の陣のとき、今福の戦いで見事な初陣を飾り、豊臣秀頼から「日本無双の勇士」と評価された。

さらには、豊臣家と徳川家の間で和睦が成立すると、木村重成は豊臣家の使者として、徳川陣営を訪れ、徳川秀忠から血判状(朱印状)を受け取るという大役を果たした。

(注釈:俗説では、木村重成は徳川家康から血判状を受け取った事になっていますが、史実では徳川秀忠から血判状を受け取っています。)

あるとき、青柳は木村重成を見て一目惚れし、恋の病に落ちて床に伏した。それでも、なんとか思いを伝えようと思い、青柳は次の歌を詠んで木村重成に送った。

「恋わびて 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀と いふ人もかな」

(意味:恋に患って死んでしまうのであれば、それでも構いません。「哀れなことだ」と言ってくれる人も居るかもしれません)

すると、木村重成は次の歌を詠んで返した。

「冬枯の 柳は人の 心をも 春待てこそ 結ひ留むらめ(ゆいとどむらめ)」

(意味:冬枯れの柳はジッと耐えて春を待ち、やがて人の心を柳の糸で結びとめるだろう)

こうして2人は交流を深め、大阪城の女官1万人が憧れるイケメン木村重成と、大阪城随一の美女・青柳は、結婚することになった。

木村重成が妻・青柳と結婚した時期は、大坂冬の陣の直後の慶長20年(1615年)1月7日が通説となっている。

さて、大坂冬の陣は慶長19年(1614年)12月に和睦が成立したが、行き場の無い牢人は大阪城に居座り、戦の準備を始めたため、徳川家康は和睦から5月後の慶長20年(1615年)4月に大坂夏の陣を発動した。

慶長20年(1615年)5月の初めごろから、夫・木村重成が食事を余り取らなくなったので、妻・青柳は「もうすぐ戦がこるそうで、今、豊臣家の武運は風前の灯火と聞きます。日頃のご恩に報いるのは今です。しかし、なぜ、物思いにふけって食事を下げてしまうのでしょうか?」と心配した。

すると、夫・木村重成は「そうではない。昔、後三年の戦い(平安時代の戦)に瓜割四郎(うりわりしろう)という者が居た。瓜割四郎は臆病者だったので、朝食が喉を通らず、敵陣にて首の骨を射切られたとき、傷口から食事が出て敵に恥をさらした。我らも首を取られるので、死骸が見苦しくならないように心がけ、食事を慎んでいるのだ」と答えた。

それを聞いた妻は喜んで下がり、遺書を書いて、寝室に入って自害した。木村重成の妻・青柳は、このとき女盛りの18歳であった。

■木村重成の妻・青柳の遺書

妻・青柳が書いた遺書を紹介しておきます。下は現代語訳です。

「一樹の陰、一河の流れ、これ他生の縁と承り居り候が、さてもをととせの頃ほひ偕老の契をなしてより、只影の形に添うが如く思ひ参らせ候に、此の頃承り候へば、此の世かぎりの御催のよし、陰ながら嬉しくまいらせ候。唐の項羽とやらむは世に猛き武夫なれど、虞氏の為に名残を惜しみ、木曽義仲は松殿の局に別れを惜しみきとかや。されば世に望み窮めたる妾が身にては、せめて御身御存生の中に最期を致し、死出の途とやらんにて待ちあげ奉り候。必ず必ず、秀頼公多年海山の御鴻恩、御忘却なき様、頼み上げまいらせ候。あらあら目出度かしこ。妻より。」

現代語訳「木の陰も、川の流れも、全て生まれる前から決まっているそうです。一昨年に夫婦の契りを交わして以来、影が主人に寄り添うように貴方をお慕いしてきました。近々、最後の一戦があるという噂を聞き、影ながら喜んでおります。古代中国の項羽は勇猛な武将でしたが、妻・虞の為に名残を惜しみ、木曽義仲は松殿の局に別れを惜しんだそうです。しかしながら、世の中に望みを失った妻の身としては、貴方が御存命中に命を断ち、三途の川にてお待ち申し上げたいと思います。必ず、必ず、豊臣秀頼様から受けた、海よりも深く、山よりも高い、長年の御厚恩をお忘れ無きように、お頼み申し上げます。妻より」

注釈:遺書の「をととせ」を現代語に訳すと「一昨年(おととし)」「2年前」になる。

通説では、慶長20年(1615年)1月7日に結婚したことになっているが、この遺書を信じれば、妻・青柳は自害する2年前の慶長18年(1612年)に木村重成と結婚した事になる。

■木村重成の妻・青柳の別説

木村重成は大坂冬の陣のとき、今福の戦いで古今無双の活躍をした。さらには、豊臣家と徳川家の間で和睦が成立すると、木村重成は豊臣家の使者として、徳川陣営を訪れ、徳川秀忠から血判状(朱印状)を受け取るという大役を果たした。

七手組頭の1人・真野頼包は、木村重成を認めて、娘・青柳を嫁に出そうとしたが、木村重成は豊臣秀頼の為に討ち死にする事を決めており、真野頼包の申し出を断った。

しかし、真野頼包は「夫を1人で冥土に逝かせるような愚かな娘では無い」と告げると、木村重成は真野頼包に感心し、謹んで青柳を室(妻)に迎えた。

その後、大坂夏の陣が始まると、妻・青柳は、木村重成が討ち死にする前夜に、遺書を残して自害した。

■木村重成が討ち死にする前夜の逸話

木村重成は討ち死にする前日の慶長20年(1615年)5月5日、風呂に入り、髪を洗い、身を清めた。

そして、妻・青柳が木村重成の兜に香を炊き込め、小鼓を打ち、木村重成は江口の曲舞「花の春の朝」を静かに舞った。その日、妻・青柳は遺書を残して自壊した。

夫・木村重成は慶長20年(1615年)5月6日午前2時に4500の軍勢を率いて大阪城を出陣して、同日午前5時に若江村に到着して布陣し、江戸幕府軍の先鋒・藤堂高虎の一手を撃破したが、江戸幕府軍の先鋒・井伊直孝と激戦に及び討ち死にした(若江の戦い)。

木村重成の首は徳川家康の元に届けられた。徳川家康は木村重成の首から漂ってくる香の薫りに感心し、「5月の初めだというのに、僅かな悪臭もなく、香を焚き込んでいるのは勇者の良い嗜みである」と感心した。

■妻・青柳が生き延びた説

妻・青柳は、木村重成が討ち死にする前夜に自害したという説が有名ですが、生き延びたという説もあります。

妻・青柳は木村重成と結婚して直ぐに妊娠しており、木村重成は妻・青柳と別れの盃を交わすと、妻・青柳を落ち延びさせた。

大阪城が落城するとき、大阪城を脱出した妻・青柳は、近江国蒲生郡馬淵村に落ち延びた。妻・青柳は翌年、木村重成の子供(男児)1人を出産すると、出家して、木村重成の命日に自害した。

生まれた子供は、馬淵家の婿養子となり、馬淵源左衛門と名乗ったという。平成の現代にも木村重成の子孫が続いているというが、真偽は不明である。

■木村重成の本当の妻は織田長孝の娘

木村重成の妻は青柳という説が有名なのですが、おそらくそれは後世の創作で、史実(実話)では、木村重成の妻は織田長孝の娘と考えられています。そこで、木村重成の本当の妻である織田長孝の娘について紹介します。

織田長孝は、大坂冬の陣で豊臣家を主導した織田有楽斎(織田長益)の長男で、織田信長の甥にあたる。織田長孝には5人の娘があり、そのうちの1人(名前は不明)が木村重成に嫁いで妻(室)となった。

木村重成の妻(織田長孝の娘)は、夫・木村重成が討ち死にした後、縁があって前田利常の家臣・小幡播磨守信昌と再婚したが、小幡播磨守信昌が乱心して妻を殺して自害したので、小幡播磨守信昌の家は断絶した。

この、小幡播磨守信昌が殺した妻というのが、織田長孝の娘であり、木村重成の妻である。

なお、夫・木村重成の生涯については「戦国最強のイケメン!木村重成の生涯」をご覧ください。

ヤンデレ大名・細川忠興の妻・細川ガラシャの生涯については「実話・細川ガラシャの生涯」をご覧ください。

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