大橋鎭子(大橋鎮子)の生涯

雑誌「暮らしの手帖」の創設者である大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯を紹介する実話「とと姉ちゃん 大橋鎭子と花森安治の生涯」の大橋鎭子編です。

目次は「とと姉ちゃん 大橋鎭子と花森安治の生涯」をご覧ください。

■大橋鎭子(大橋鎮子)の生涯
大橋鎭子(おおはし・しずこ)は、大正9年(1920年)3月10日に東京都にある麹町の榊病院で生まれた。

父親は大橋武雄で、母親は大橋久子(宮原久子)である。両親ともに比較的裕福な家の出身で、中流階級の上級といった家庭であった。

父・大橋武雄は、岐阜県養老郡時村(現在の岐阜県大垣市)に生まれた。父・大橋武雄の実家は名字帯刀が許された名家だったらしい。

父・大橋武雄は、3人兄弟の次男で、10歳の時に東京・深川で材木商を営む親戚・大橋谷吉の養子になり、以降、父・大橋武雄は大橋家の一人息子として育てられた。

その後、北海道帝国大学の予科へ進んだ1年先輩の栃内吉彦(とちない・よしひこ)に誘われて、父・大橋武雄も北海道帝国大学の予科へと進学したようだ。

父・大橋武雄は北海道で宮原久子と知り合い、北海道帝国大学を卒業後、東京・深川へと戻り、大正8年(1919年)4月に北海道に縁がある日本製麻へ入社した。

父・大橋武雄は大正8年5月に宮原久子と結婚し、大正9年(1920年)3月10日に大橋鎭子(おおはし・しずこ)が生まれた。この大橋鎭子が後に雑誌「暮らしの手帖」を出版することになる。

さて、父・大橋武雄は翌年の大正10年に北海道・小沢の工場長として、妻子を連れて北海道へと移り住んだ。

その2年後の大正12年9月1日に関東大震災が発生するが、大橋鎭子は一家で北海道に移り住んでいるので、大橋鎭子は関東大震災を経験していない。

その後、父・大橋武雄は北海道・茅野の工場長となり、茅野へと移った。そして、茅野で次女・大橋晴子(結婚後は横山晴子)が生まれる。大橋鎭子も茅野で小学校に入学した。

その後、父・大橋武雄は風邪が回復せず、北海道でも季候の良い虻田に工場長として赴任する。そして、虻田で三女・大橋芳子が生まれた。

大橋家は北海道で次女・大橋晴子(結婚後は横山晴子)と三女・大橋芳子が生まれ、幸せな家庭を築いていたが、父・大橋武雄の症状は悪化の一途をたどり、結核と診断されたため、鎌倉の病院で療養することにした。

このため、父・大橋武雄は大正15年4月に日本製麻を退職し、大橋一家は東京へと戻り、大橋鎭子(おおはし・しずこ)は東京・鎌倉・大森などを転々とした。

母・大橋久子(宮原久子)が、良い病院と良い学校が在る場所を希望したので、最終的には東京府下大井鹿島町に住み、大橋鎭子と次女・大橋晴子(横山晴子)は大井第一小学校へと転入した。

しかし、父・大橋武雄は療養の甲斐も無く、昭和5年(1930年)10月1日に死去していまう。

父・大橋武雄は死に際に「鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒を見てあげなさい」と頼むと、大橋鎭子は「ハイ、ワカリマシタ」と答えた。

父・大橋武雄の考えもあったのか、母・大橋久子(宮原久子)は一歩引いて、小学5年生(11歳)の長女・大橋鎭子に父・大橋武雄の葬儀の喪主を任せた。

大橋鎭子は父・大橋武雄との約束を守り、見事に喪主を務めた。大橋鎭子に度胸が就いたのは、この時のおかげだという。

葬儀に来てくださった人に弁当を差し上げたのだが、肺結核は恐ろしい伝染病だったので、誰も弁当には手を付けなかった。

父・大橋武雄はほとんど家に居なかったので、弁当を食べても結核には感染しないのだが、翌日、弁当がゴミ箱に捨てられていた。大橋鎭子は、それが悲しかったという。

こうして父・大橋武雄が死に、大橋家は、母・大橋久子(宮原久子)、長女・大橋鎭子、次女・大橋晴子、三女・大橋芳子の女4人家族となった。

北海道に住む母方の祖父・宮原満吉が支援してくれ、母・大橋久子(宮原久子)が指輪や着物を売りながら、大橋一家は、なんとか生活していくことになる。

■大橋鎭子(大橋鎮子)の受験
昭和7年(1932年)、大橋鎭子は、日本女子大学の付属、お茶の水にある文化学園、東京府立第六高等女学校(東京都立三田高校)の3校を受験した。

最初に受験した日本女子大学の付属は、試験と面接に合格したが、最後のくじ引きで不合格になってしまった。

大橋鎭子は次に受験した文化学園に合格した。文化学園には母・大橋久子(宮原久子)の知り合いの先生や与謝野晶子が居たが、担任教師や母・大橋久子(宮原久子)は第六高等女学校を薦めたので、大橋鎭子は第六高等女学校を受験することにした。

北海道・小樽に住む祖父・宮原満吉は受験が心配で、東京まで出てきて、第六高等女学校(東京都立三田高校)の受験会場まで付いてきてくれた。

祖父・宮原満吉はかなり心配していたようだが、大橋鎭子は無事に第六高等女学校に合格し、第六高等女学校へと進学した。

父・大橋武雄が病気になって以来、暗い話題ばかりだった大橋家にとって、初めての明るい出来事だった。

■大橋鎭子(大橋鎮子)の第六高等女学校時代
第六高等女学校(東京都立三田高校)は1週間に4~5時間は運動の時間があり、世間から「勉強はそっちのけで、運動ばかりしている」と揶揄される学校だった。

第六高等女学校の校長・丸山久作は、生徒が大事で、生徒の健康を第一に考えていたため、第六高等女学校は健康の要は歩くことだとして、運動に歩く事を取り入れており、月に1度は遠足で12キロを歩いた。

そして、年に2度、適応遠足があった。適応遠足は川崎駅から40キロ離れた日野まで歩く遠足だが、8キロ立点と14キロ地点にある駅で歩くのを止め、私鉄で帰っても良いという遠足だった。

また、校長・丸山久作はプールの必要性を訴え、保護者を説得して周り、第六高等女学校に1年中使える温水プールを作った人だった。

校長・丸山久作の運動第一という考えのおかげで、大橋鎭子は90歳近くになっても出社する健康な体という宝を手に入れた。

■大橋鎭子(大橋鎮子)がオーシー歯磨きで起業
母・大橋久子(宮原久子)は歯が悪く、陸軍第一病院に通っていたが、先生が軍医で満州へ行くことになったため、「自分で歯磨きを作りなさい」と言い、歯槽膿漏を治す歯磨きの処方を書いてくれ、乳鉢と乳棒をくれた。

先生の処方箋通りに作った歯磨きで、母・宮原久子の歯槽膿漏が治ったため、大橋鎭子が第六高等女学校で歯磨きことを話すと、「私の母も歯槽膿漏だから歯磨きを使いたい」という同級生が現れた。

大橋鎭子が練り歯磨きをあげると、歯槽膿漏が治ったと喜ばれ、同級生の母親から「この歯磨きを作って売ってはどうか?歯槽膿漏の方が喜ばれます」と助言を受けた。

母・大橋久子(宮原久子)と大橋鎭子(14歳)は、やってみようと思い、深川の資材置き場の権利を売ったり、母方の祖父・宮原満吉が家作(貸家)を売ったりしてお金(1千万円くらい)を作り、練り歯磨きを製造を開始する。

大橋鎭子はこれで、お金の心配しなくてすみ、家族が幸せになれると思っていたが、翌朝、練り歯磨きを入れたチューブが破裂して練り歯磨きが飛び散っていた。

そこで、大橋鎭子は瀬戸物なら大丈夫だろうと考え、瀬戸物屋に相談して、瀬戸物の容器を作り、練り歯磨きを完成させた。

こうして練り歯磨きが完成すると、大橋鎭子は「おおはし」の「お」と「しずこ」の「し」を取って、「オーシー歯磨き(OC歯磨き)」と名付けた。

しかし、大橋鎭子は販売することまでは深く考えていなかったうえ、出資してくれると言っていた同級生の家に問題が発生し、出資して貰えなくなった。

購入してくれた人は「作り続けなさい」と励ましてくれたが、ほとんど売れず、第六高等女学校時代に起業した練り歯磨き事業は失敗に終わった。大橋鎭子が14歳の事であった。

■祖父・宮原満吉の死
当時の女性は就職せずに結婚するの当たり前だったが、大橋鎭子は働いて月給取りになることを決めていた。

当時は学校が就職を斡旋するという制度は無かったので、母・宮原久子が死んだ夫の従兄弟・黒田正夫に相談すると、黒田正夫が日本興業銀行を紹介してくれた。大橋鎭子は日本興業銀行の面接を受け、日本興業銀行に合格した。

第六高等女学校の月謝を払い続けてくれた母方の祖父・宮原満吉は、大橋鎭子の卒業をとても喜んでくれ、北海道・小樽から上京して第六高等女学校の卒業式にも参加してくれた。

第六高等女学校を卒業した大橋鎭子は、母や祖父のために日本興業銀行で頑張ろうと希望に胸を膨らませていた。

ところが、祖父・宮原満吉は大橋鎭子の卒業を見届けると、役目を終えたかのように、昭和13年4月に突然、脳溢血で死んでしまった。

■大橋鎭子(大橋鎮子)が日本興業銀行に入行
第六高等女学校を卒業した大橋鎭子は、昭和13年4月に日本興業銀行に入行し、調査部に配属された。

調査部は、世界の産業や経済の動向を知るための資料を作る部署で、資料や本の購入・管理のほか、調査月報の編集などが仕事だった。

大橋鎭子は、午前8時に出勤し、複数の新聞を読んで重要な記事だけを切り抜き、午前10時までに重役に届けるという仕事を任され、編集という仕事に関わる。

大橋鎭子は「もし、調査課で調査月報の手伝いをしていなかったら、『暮らしの手帖』は生まれていなかったかもしれません」と語っている。

■大橋鎭子(大橋鎮子)が日本女子大学に入学
日本興業銀行の調査部の工藤課長は、昼食の後、女性を集めて、新聞記事の中で、女性も知っておかなければならないことを、30分ほど丁寧に解説してくれた。

その影響で、調査部の女性の先輩は「私たちは女学校を出ているだけだから、学問が足りない」と言い、図書室に集まって勉強会を開いていた。

大橋鎭子は、図書室の勉強会には2~3度しか出席しなかったが、「もっと勉強しなければ」と思うようになっていた。

そこで、大橋鎭子は日本女子大学にを受験して合格したため、3年務めた日本興業銀行を辞めて昭和15年(1940年)に日本女子大学の家政科二類へ入学した。

しかし、大橋鎭子は一年前に引いた風邪が抜けず、ある日、咳をしたら痰に毛筋のような血が混じっていた。

父・大橋武雄は結核で死んだので、母・大橋久子(宮原久子)は、大橋鎭子まで肺結核になってしまったと思って大騒ぎした。

幸い、日本女子大学は夏休みに入ったので、大橋鎭子は父方の実家である岐阜県養老郡時村(現在の岐阜県大垣市)で療養し、9月になって再び日本女子大学へ通い始めた。

しかし、大橋鎭子は熱が下がらず、母親・大橋久子(宮原久子)が「お父さんのように肺病になったらどうするの」と号泣するため、大橋鎭子は入学から僅か半年で学業を断念し、療養に専念した。

大橋鎭子は療養に専念しながら、熱心に看病してくれる母親・大橋久子(宮原久子)を幸せにしなければと思った。

とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯のあらすじとネタバレ後編」へ続く。

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