とと姉ちゃん 母・小橋君子のモデルは大橋久子(宮原久子)

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎭子(大橋鎮子)の生涯を描く実話「とと姉ちゃん-大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯」の番外編「母・小橋君子のモデルは大橋久子(宮原久子)」です。

実話「とと姉ちゃん-大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯」の目次は「とと姉ちゃん 大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯」をご覧ください。

■母・小橋君子のモデル
ドラマ「とと姉ちゃん」に登場する母・小橋君子(木村多江)のモデルは、大橋鎭子(大橋鎮子)の母・大橋久子(宮原久子)です。

ドラマ「とと姉ちゃん」に登場する母・小橋君子(木村多江)は、東京・深川の木材問屋「青柳商店」の1人娘として生まれました。

しかし、小橋君子(木村多江)は小橋竹蔵(西島秀俊)との結婚を巡り、母・青柳滝子(大地真央)と喧嘩して絶縁してしまいます。

そして、小橋君子(木村多江)は小橋竹蔵(西島秀俊)と結婚して浜松で暮らし、3人の娘を出産します。

こうして小橋家は幸せな家庭を気づいていましたが、小橋君子(木村多江)は夫・小橋竹蔵(西島秀俊)を結核で失ってしまいます。

■モデルとなった母・大橋久子(宮原久子)の生涯
大橋久子(宮原久子)は、宮原満吉(みやはら・まんきち)の娘として京都で生まれました。

父の宮原満吉は、九州の小倉城(福岡県北九州市小倉北区)で生まれたというので、宮原家は小倉藩士の家系なのでしょう。

父・宮原満吉は明治時代に京都へ出て、京都で大橋久子(宮原久子)が生まれます。

その後、父・大橋久子(宮原久子)は新潟で油田を掘り当て、その財産を持って北海道・小樽へと渡って居を構えました。

父・大橋久子(宮原久子)は、羊蹄山の麓で宮原牧場を経営したり、小樽新聞などにも関わったりしました。かなり手広く仕事をしていたようで、宮原家は書生を4~5人抱える裕福な家でした。

大橋久子(宮原久子)は、北海道・小樽の小樽高等女学校を卒業して、東京の女子美術学校へ進学します。

大橋久子(宮原久子)は休みに小樽へ戻り、小樽の産婦人科「岡本病院」に出入りしていた時に、北海道帝国大学生の大橋武雄と出会います。

大橋武雄は、北海道帝国大学を卒業すると東京へ戻り、北海道に縁がある本製麻に就職し、翌月に大橋久子(宮原久子)と結婚します。

おそらく、大橋武雄は妻・大橋久子(宮原久子)の為に、北海道に関係のある仕事を選んだのでしょう。

結婚後、大橋久子(宮原久子)は東京で長女・大橋鎮子(大橋鎭子)を出産。その後、大橋武雄が北海道へ転勤となり、大橋一家は北海道へと引っ越します。

その後、大橋久子(宮原久子)は北海道で次女・大橋晴子(横山晴子)と三女・大橋芳子を出産し、一家は幸せかと思われましたが、大橋武雄が結核に感染してしまいます。

一家は大橋武雄を入院させるため、東京へと戻り、大橋久子(宮原久子)は夫・大橋武雄を看病しながら、3人の娘を育て上げます。

しかし、看病の甲斐は無く、感染から5年後に夫・大橋武雄は死去してしまいます。

(注釈:父・大橋武雄の生涯は「とと姉ちゃん 父・小橋竹蔵のモデルは大橋武雄」をご覧ください。)

夫・大橋武雄の遺言だったのか、大橋久子(宮原久子)は一歩引いて、11歳の長女・大橋鎮子(大橋鎭子)に喪主を務めさせ、以降、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)が大橋家の戸主(家長)として一家を背負うことになります。

さて、大橋久子(宮原久子)は歯が悪かったので病院へ通っていましたが、先生が戦地に赴くため、練り歯磨きの処方を書いてくれました。

その練り歯磨きで大橋久子(宮原久子)の歯槽膿漏が治ったので、練り歯磨きを作って売るという起業の話が持ち上がります。

戸主として一家を背負う長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は、第六高等女学校に通う女学生だったのですが、練り歯磨きを作ってお金持ちになり、家族を幸せにしようと思い、練り歯磨き作りを開始します。

やがて、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は練り歯磨きを作って「オーシー歯磨き」と名付け、販売を開始しますが、ほとんど売れず、オーシーは磨き事業は失敗しました。

その後、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は日本興業銀行へと就職するのですが、「もっと学びたい」という気持ちが強くなり、3年務めた日本興業銀行を止めて日本女子大学へと入学します。

しかし、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は風邪が長引き、ある日、血の混じった痰を吐きました。

夫・大橋武雄を結核で亡くしていた大橋久子(宮原久子)は、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)も結核になったのだと思って心配し、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)を熱心に看病しました。そして、療養に専念させるため、日本女子大学を退学させます。

大橋久子(宮原久子)の熱心な看病により回復した長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は、日本読書新聞へ入社します。

長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は、日本読書新聞に入社した年の12月、日本は真珠湾攻撃を行い、第二次世界大戦に参戦します。

戦後、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は編集長・花森安治と出会い、出版社「衣装研究所」を設立し、雑誌「スタイルブック」を出版します。

次女・大橋晴子(横山晴子)と三女・大橋芳子は、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)を手伝って出版社「衣装研究所」の設立メンバーとなり、雑誌作りに協力します。

しかし、母・大橋久子(宮原久子)は、設立メンバーには加わらず、あくまでも裏方として長女・大橋鎮子(大橋鎭子)の雑誌作りを支援していきます。

雑誌「暮しの手帖」時代も、母・大橋久子(宮原久子)は引き続き、裏方として長女・大橋鎮子(大橋鎭子)を支援していきます。

母・大橋久子(宮原久子)は、裁縫や料理が得意だったので、色々と小物を作ったり、徹夜の社員に夜食や朝食を作ったりして、裏方として雑誌「暮しの手帖」を支えていきます。

母・大橋久子(宮原久子)は知恵袋的な存在で、色々な事を教えてくれました。雑誌「暮しの手帖」で紹介した料理のいくつかは、母・大橋久子(宮原久子)が作っていたレシピです。

雑誌「暮しの手帖」の編集長・花森安治は、旧制松江高校時代に母「花森よしの」を亡くしており、親孝行が出来なかったので、大橋久子(宮原久子)を「おばあちゃん、おばあちゃん」と慕いました。

また、母・大橋久子(宮原久子)は、自分のお金で雑誌「暮しの手帖」を買い続けたので、「暮しの手帖のおばあちゃん」と呼ばれ、みんなから愛されました。

ドラマ「とと姉ちゃん」の登場人物のモデルまとめは「『とと姉ちゃん』の登場人物と実在のモデル一覧」をご覧ください。

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