大橋鎮子(大橋鎭子)が独身で結婚しなかった理由
NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎭子(大橋鎮子)の生涯を描く実話「とと姉ちゃん-大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯」の番外編「大橋鎮子(大橋鎭子)が独身で結婚しなかった理由」です。
実話「とと姉ちゃん-大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯」の目次は「とと姉ちゃん 大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯」をご覧ください。
■大橋鎮子(大橋鎭子)が独身で結婚しなかった理由
大橋鎭子(大橋鎮子)は生涯、独身で結婚しませんでした。大橋鎮子(大橋鎭子)が結婚しなかった事には理由があります。
大橋鎮子(大橋鎭子)は小学5年生の時に、父・大橋武雄を結核で亡くしました。
父・大橋武雄は死ぬ直前に「鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒を見てあげなさい」と頼むと、大橋鎮子(大橋鎭子)は「ハイ、ワカリマシタ」と答えました。
そして、小学5年生の長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は父・大橋武雄の葬儀で喪主を務め、以降、長女・大橋鎮子(大橋鎭子)は戸主(家長)となり、母と娘2人を支えていきました。
母方の祖父が牧場などを売って学費などを支援してくれたので、京府立第六高等女学校(現東京都立三田高等学校)へ進学・卒業することが出来ましたが、母親が指輪や着物を売るという、貧乏な生活を送ります。
第二次世界大戦末期、大橋鎮子(大橋鎭子)は防空壕の中で、お金持ちになって母親と妹を幸せにしようと思い、雑誌を作って販売する事を思いつきました。
終戦後、日本読書新聞で働いていた大橋鎮子(大橋鎭子)は、日本読書新聞の編集長・田所太郎に、雑誌を出版して母親や祖父に恩返しがしたいと相談すると、編集長・田所太郎は花森安治に相談するように強く薦めました。
その日、大橋鎮子(大橋鎭子)は、編集長・田所太郎の強い勧めを受けて、花森安治に、母親や祖父に苦労して育ててもらった事を話し、雑誌を出版して母親や祖父に恩返しがしたいと相談します。
花森安治は、旧姓松江高校(島根大学)に入学した年の夏に母親を亡くしていたので、「僕は母親に親孝行が出来なかったから、君のお母さんへの孝行を手伝ってあげよう」と言って協力を約束してくれました。
翌日、花森安治は、大橋鎭子をニコライ堂の側の小さな喫茶店に誘い、「君はどんな雑誌を作りたいのか?僕は二度と戦争が起らないようにする。そういう雑誌を作りたい」と尋ねると、大橋鎭子は「花森さんの仰るとおりに致します」と答えました。
すると、花森安治は「今度の戦争に女性の責任は無い。それなのに酷い目に遭った。僕には責任がある。女の人が幸せで、みんなに温かい家庭があれば、戦争は起らなかったと思う。だから、君の仕事に僕は協力しよう」と言いました。
そのとき、花森安治が結婚について尋ねると、大橋鎮子(大橋鎭子)は雑誌を出版する事で頭がいっぱいだったので、「仕事を続けたいので、結婚はしません」と答えました。
花森安治が「誓うか?」と念を押すと、大橋鎮子(大橋鎭子)は「はい」と答えました。
こうして、大橋鎮子(大橋鎭子)は花森安治に誓いを立てたので、生涯、結婚することはありませんでした。
■大橋鎮子(大橋鎭子)の結婚観
母・大橋久子(宮原久子)は夫・大橋武雄を結核で亡くして苦労したため、「結婚で不幸になる事もある。しない方がいい」と言ってたので、大橋鎮子(大橋鎭子)は結婚に良いイメージを持っていなかったようです。
また、第六高等女学校時代の同級生・中野家子も結婚して僅か半年で夫を戦争に取られて夫を失っていたことも、大橋鎮子(大橋鎭子)の結婚観に影響したのかもしれません。
なにより、大橋鎮子(大橋鎭子)は、自分の結婚よりも、結核で死んだ父・大橋武雄との約束を守り、大橋家の戸主(家長)として母や妹を幸せにしたかったのだと思います。
実際、大橋鎮子(大橋鎭子)は自分は結婚しようとしませんでしたが、妹2人は結婚させようと考えていました。
大橋鎮子(大橋鎭子)は花森安治との誓いを守って結婚せず、生涯、独身でしたが、妹夫婦と一緒に暮らしながら、90歳になっても出社し、幸せな生涯を送りました。
大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯は「大橋鎭子(大橋鎮子)の生涯」をご覧ください。
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