花森安治の生涯

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯を描く実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の花森安治編「花森安治の生涯」です。

大橋鎮子(大橋鎭子)編は「とと姉ちゃん 大橋鎭子(大橋鎮子)の生涯」をご覧ください。

実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の目次は「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」をご覧ください。

■花森安治の生涯のあらすじとネタバレ

花森安治(はなもり・やすじ)は明治44年(1911年)10月25日に兵庫県神戸市平田町で、6人兄弟の長男として生まれた。父親は花森恒三郎で、母は「花森よしの」である。花森家は祖父の代から貿易商を営む裕福な家庭だった。

父・花森恒三郎は遊び人で、あまり働かず、長男・花森安治や長女・花森久美(花森クマ)を宝塚少女歌劇や映画館へよく連れて行っていた。

神戸は開港5港の1つで、外国人が留まっていたので、西洋文化の影響を受けており、海外の雑誌なども入っていた。花森安治の実家は、外国人居留地に近かったので、外国の文化に触れて育った。

花森安治は、父親が連れて行ってくれた映画や宝塚少女歌劇や外国人居留地の影響を受けて感性を磨いていった。

遊び人の父・花森恒三郎は競馬が好きだったが、母・花森よしのが外れ馬券を額縁に入れて飾るようになったため、競馬は止めてしまったようだ。

しかし、父・花森恒三郎は株や相場にのめり込んだうえ、連帯保証人になって財産を失ってしまう。

さらに、1919年に火事の飛び火で自宅が燃えてしまい、花森家は一夜にして長屋暮らしに転落してしまうのである。

こうして、花森家は花森安治が8歳の時に長屋暮らしに転落し、以降は母・花森よしのが薬局や荒物屋を営みながら、夜は和裁の内職を続け、6人の子供を育て上げた。

しかし、父・花森恒三郎は根っからの遊び人だったので、家計が崩壊しても母・花森よしが稼いだ金で遊んでいたらしい。

■花森安治の子供時代

花森安治は子供の頃から絵が得意であった。子供ながらに、寺で紙芝居を公開するほど、上手だった。

花森安治が宿題の絵を提出すると、学校の先生は「親に手伝ってもらっただろう」と言って注意した。

花森安治が自分で書いたと言うと、先生は「じゃー、今、ここで描いてみろ」と言うので、花森安治がその場で絵を描いた。

その絵を見た先生は、花森安治の絵の上手さに驚いて、花森家へ謝りに行ったということもあった。

■自分は新しい女である

花森安治は雲中尋常小学校から第三神戸中学校へ進学し、昭和4年に旧制高校を受験した。旧制高校は、ほぼ無試験で帝国大学へ進学できるエリートコースである。

しかし、花森安治は旧制高校の受験に失敗してしまい、神戸市にある大倉山図書館(神戸市立中央図書館)に通いながら、浪人生活を送った。

花森安治は大倉山図書館で受験勉強をし、受験勉強に飽きると、大倉山図書館の本を読んで気分転換して、再び受験勉強をするということを繰り返していた。

そうするうちに、花森安治は大倉山図書館で「平塚らいてう」の著書「円窓より」と出会った。

ただし、花森安治は著書「円窓より」を全部、読んだわけではなく、「円窓より」の「元始女性は太陽であった」と「新しい女」の2編だけだったようである。

「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」(元始女性は太陽であった)

「自分は新しい女である。少くとも真に新しい女でありたいと日々に願い、日々に努めている。真に、しかも永遠に新しいのは太陽である。自分は太陽である。少くとも太陽でありたいと日々に願い、日々に努めている。」(新しい女)

花森安治は著書「円窓より」を読んで感動したわけではなく、なにか勝手のちがった、どう気持ちを片付けていいか見当のつかないものを読んだような気持になり、食堂でカマボコを刻んでいるおばちゃんを見て「この人はどんな生活をしているのだろうか」と思った。

花森安治は浪人中に、大倉山図書館にあったドイツの社会主義者ベーベルの著書「婦人論」など20冊ほどの女性論関係の本を全部、読んだ。全部と言っても、20冊ほどしかなく、分からない場所は読み飛ばした。

■母「花森よしの」の死

花森安治は1年間の浪人を経て、昭和5年に旧制松江高校(島根大学)へ入学した。旧制松江高校を受験した理由は不明だが、旧制高校の中でも、旧制松江高校は入学試験に数学が無かったので入りやすかったらしい。

また、花森安治が旧制松江高校へ進学できたのは、母・花森よしののおかげだった。母・花森よしのは「裁縫をして貯めた金がある」と言って父・花森恒三郎を説得してくれたのである。

しかし、その母・花森よしのは、苦労が祟ってか、心臓を患い、花森安治が旧制松江高校に入学した最初の夏休みに死んでしまう。

病床にある母・花森よしのは、制服を着た花森安治に、あっちを向け、こっちを向けと言い、上から下までなめまわすと「立派になったねぇ」とシミジミと言った。

そして、母・花森よしのが「将来はどうするつもり」と尋ねると、花森安治は「新聞記者が編集者になるんや」と答えた。

(注釈:このとき、花森安治が「新聞記者が編集者になるんや」と答えたのは、「ペンは剣よりも強し」という言葉の影響を受けただけで、本当に新聞記者や編集者を目指していたわけではない。)

母・花森よしのは、それを聞いて「ふうん」と言った。それから数日後に母・花森よしのは死んだ。花森安治が19歳のことであった。

花森安治は母・花森よしの死に顔を見て、大倉山図書館で読んだ「平塚らいてう」の「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」という一節が頭の中に浮かんできた。お経の言葉のようであった。

こうして、「平塚らいてう」の著書「円窓より」は、母「花森よしの」の死と共に花森安治の深くに根付き、花森安治が女性問題を考える切っ掛けとなる。

■花森安治の旧制松江高校時代

旧制松江高校(島根大学)に入学した花森安治は、1年生の時に弁論部に入り、2年生の時に文芸部に入った。

そして、花森安治は旧制松江高校の文芸部で田所太郎と出会い、田所太郎と共に映画鑑賞会の幹事を務め、プログラムの制作に関わった。

さらに、花森安治は昭和7年(1932年)に「校友会雑誌」第20号で編集長を務めた。

既に花森安治はデザインや編集について確固たる意思を持っており、田所太郎らの意見を最後まで受け入れず、編集長の名の下に全責任を背負って、自分の意思を貫き、校友会雑誌の第20号を完成させた。

花森安治が編集した校友会雑誌の第20号は、伝説として語り継がれた。これが花森安治の編集の原点であり、既に独裁的な編集者であった。

さて、花森安治は第三神戸中学校までは優等生だったのだが、旧制松江高校に入ると、当時、流行していた「バンカラ」(当時の不良)となり、教授と一緒に花街に繰り出したりしもした。

また、花森安治は2年生の時に英語の授業で読んだカーライルの著書「衣装論」の影響を受け、服に絵や詩を貼り付けて松江の町を歩き、みんなを驚かせた。

ところで、旧制松江高校は、「福本イズム」で有名な福本和夫が一時期、教授として在籍していた関係で、共産主義思想の学生が旧制松江高校を主導権を握っていた。

このころ、全国的に共産主義への弾圧(赤狩り)が強まっており、旧制松江高校の共産主義派は10周年記念式典でストライキを起こしたため、多くの学生が処分された(松崎水亭事件)。

これに対して旧制松江高校の学生は、処分撤回を求めてストライキを起こしたのである。

花森安治を含めて大半の学生は共産主義でも左翼学生でも無かったが、友情的な感情からストライキに加わった。

このとき、花森安治は、処分撤回を求めて文部省の前で座り込みをする一方で、映画の上映会などを企画した。

処分撤回を求めるストライキは、最終的に旧制松江高校が改心した退学者・停学者の復学を認めたため、収束した。

このストライキの収束を境目に、旧制松江高校の主導権を握っていた共産主義勢力は消滅し、全国的にも学生運動は衰退していった。

花森安治は、目立っていたので、学生自治会のリーダーに担ぎ上げられ、ストライキが終結したときの演説で「埃(ホコリ)を払って、誇り(ホコリ)を持とう」と演説した。

花森安治の生涯-妻・山内ももよと結婚のあらすじとネタバレ」へ続く。

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