室賀正武(むろが・まさたけ)が真田昌幸を暗殺

真田幸村の父・真田昌幸を暗殺しようとした信濃国小県郡の豪族である室賀正武(むろが・まさたけ)のあらすじとネタバレです。

室賀城の城主・室賀正武は、徳川家康の命令を受けて真田昌幸を暗殺しようとすることになるので、その経緯や時代背景から説明します。

■室賀正武が真田昌幸を暗殺!黒幕は徳川家康
甲斐(山梨県)の武田勝頼は、織田信長・徳川家康連合軍によって滅ぼされ、武田領のうち甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の3国は織田信長の領土となりました。

しかし、織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれ、織田信長の領土となっていた甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の3国は空白地となり、混乱期を迎えます(天正壬午の乱)。

すると、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田昌幸は、混乱に乗じて、上野(群馬県)西部の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)と、上野東部の沼田城(群馬県沼田市)に人を入れ、吾妻領・沼田領を真田家の領土としました。

真田家は武田信玄の時代から、吾妻領・沼田領の支配を任されており、吾妻領・沼田領で支配権を確立していたので、吾妻領・沼田領を自分の領土化するのは簡単でした。

さて、諸大名も織田信長の死を確信すると、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)へと侵攻を開始します。

越後(新潟県)の上杉景勝が信濃(長野県)へ侵攻し、相模(神奈川県)の北条氏直は上野(群馬県)へと侵攻し、三河(愛知県東部)の徳川家康も甲斐(山梨県)へと侵攻しました。

上杉景勝が信濃(長野県)北部へ侵攻すると、信濃東部にある小県郡・佐久群の豪族は続々と上杉景勝に帰属します。

信濃国小県郡真田郷の豪族・真田昌幸も周辺の豪族の反応を見て、上杉景勝に帰属しました。

一方、上野(群馬県)へと侵攻した北条氏直は、上野(群馬県)東部にある沼田領の豪族から抵抗を受けたため、上野(群馬県)の平定を諦めて信濃(長野県)東部へと転進します。

すると、北条氏直が信濃国東部へ侵攻すると、信濃国東部にある小県郡・佐久群の豪族は北条氏直に帰属しました。

信濃国小県郡真田郷の豪族・真田昌幸も北条氏直に帰属し、上杉景勝から北条氏直へと乗り換えます。

さて、真田昌幸が調略により、上杉景勝に属している信濃国・海津城の城代・春日信達(高坂昌元)から内応の約束を取り付けたので、北条氏直は信濃北部へと侵攻し、上杉景勝と決戦を挑もうとします。

しかし、上杉景勝に春日信達(高坂昌元)の内応が知られてしまい、春日信達(高坂昌元)は上杉景勝に処刑されてしまいます。

春日信達(高坂昌元)という切り札を失った北条氏直は、上杉景勝との決戦を中止し、甲斐(山梨県)で徳川家康に決戦を挑むことを決め、上杉景勝に和睦を申し入れます。

上杉景勝は、本国・越後(新潟県)に残っている家臣・新発田重家に不穏が動きがあるため、北条氏直の和睦を受け入れると、信濃北部を平定して、本国・越後へと帰りました。

さて、上杉景勝と和睦した北条氏直は、大軍を率いて甲斐(山梨県)へと侵攻し、既に甲斐へと侵攻していた徳川家康と対峙します。

このとき、真田昌幸は北条氏直に帰属していましたが、北条氏直に不満を持っていたので、北条氏直の甲斐(山梨県)侵攻には参加せず、信濃国小県郡真田郷に残り、北条氏直への備えを始めます。

真田昌幸は上野(群馬県)の吾妻領・沼田領を自分の領土としていましたが、北条氏直は上野全土の平定を公言していたので、いずれは北条氏直と争いになると考えていたのです。

ところで、信濃国東部の佐久郡では、春日城の城主・依田信蕃が徳川家康に属して、北条氏直の勢力と戦っていました。

依田信蕃は武田家の元家臣で、武田家に仕えていたとき、2度にわたり、徳川家康の大軍を相手に籠城して守り抜いた名将です。

依田信蕃は兵士の助命などを条件に城を明け渡したのですが、徳川家康は2度とも城を攻め落とせず、依田信蕃を高く評価しており、織田信長の死後、依田信蕃は徳川家康の家臣となりました。

信濃国佐久郡で徳川家康に属しているので春日城の城主・依田信蕃だけだったので、依田信蕃は苦戦します。

やがて、依田信蕃は春日城を捨てて三澤小屋に籠もり、北条軍に対してゲリラ戦を展開します。

徳川家康は、依田信蕃を支援したのですが、依田信蕃は兵糧不足に悩み、成果をあげられませんでした。

そこで、依田信蕃は小県郡の豪族・真田昌幸に目を付けます。依田信蕃は真田昌幸さえ味方に付ければ、他の豪族はどうにでもなると考えたのです。

依田信蕃は徳川家康に許可を得て、津金寺の僧を使者として真田昌幸の元に送ります。徳川家康も真田昌幸に使者を送ります。

依田信蕃から説得を受けた真田昌幸は、元々、北条氏直との対決を考えていたので、徳川家康に帰属することに決めました。

真田昌幸が徳川家康に起請文を提出すると、徳川家康は天正10年9月28日、真田昌幸に「上州長野一跡(上野西部の豪族・長野氏の旧領地)、甲州(山梨県)において2000文貫、信濃国(長野県)諏訪郡と現在の知行を安堵」を安堵しました。

徳川家康が与えた恩賞は一見は破格の好条件ですが、上州(群馬県)は敵地だったり、諏訪郡は依田信蕃に与えることを約束しており、実際には恩賞が期待できない空手形でした。

それを知った依田信蕃は、真田昌幸に「私が拝領した信濃国諏訪郡を貴殿に譲ろう。私は上野国(群馬県)の敵地を拝領し、自分で切り取ることにいたす」と言って恩賞を譲った、と伝わります。

また、依田信蕃は徳川家康に「私が信濃国諏訪郡を賜ったのに、真田昌幸に一郡を与えないのでは、約束が違います。私は信濃国諏訪郡を返上しますので、信濃国諏訪郡を真田昌幸にお与えください」と申し出た、とも伝わります。

さて、徳川家康に帰属した真田昌幸は、依田信蕃と共に信濃国東部で北条氏直の勢力を駆逐し、国境を押さえて、北条氏直の食料補給路を断ちました。

甲斐(山梨県)に侵攻した北条氏直の大軍は未だに健在でしたが、食料補給路を断たれて窮地に陥ります。

さらに、北条氏直の留守をつき、常陸国(茨城県)の佐竹義重が、上野国(群馬県)の北条領への侵攻を開始しました。

もはや、北条氏直は徳川家康との対決どころではありません。

一方、徳川家康は、新府城(山梨県韮崎市中田町)に入り、北条氏直の大軍と対峙していましたが、北条の大軍を撃退する程の兵力を持っていませんでした。

徳川家康は織田家の援軍を得て北条氏直と対決する予定でしたが、織田家で羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家の後継者争いが起こったため、徳川家康は織田家からの援軍を得られなくなりました。

決め手を欠いた徳川家康と北条氏直は、冬が近づいてきたこともあり、織田信雄(織田信長の次男)の斡旋を受けて、天正10年(1582年)10月29日に和議を結びます。

そして、この和議で、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏直の領土とすることが決まり、領土交換が行われました。

北条氏直は和睦の条件通り、甲斐国(山梨県)から撤退し、支配下に置いていた信濃国(長野県)の小県郡・佐久郡を徳川家康に明け渡し、徳川家康に上野国(群馬県)吾妻領・沼田領の引き渡しを求めました。

しかし、徳川家康は条件を守れませんでした。

上野国(群馬県)の吾妻領・沼田領を支配していた真田昌幸は、徳川家康から代替地を与えられていない事を理由に、上野国(群馬県)の吾妻領・沼田領の明け渡しを拒否したのです(真田昌幸の沼田領問題)。

このころ、徳川家康は領土を拡大していたのですが、領土拡大のために手形を乱発しており、代替地として与えられるような領土が無かったのです。

徳川家康は、北条氏直から上野国(群馬県)吾妻領・沼田領の引き渡しを求められたのですが、信濃北部を支配する上杉景勝との対決を考えていたので、真田昌幸の沼田領問題を黙殺します。

真田昌幸の本拠地・信濃国小県郡は、信濃北部を攻略する上で重要な場所だったので、真田昌幸と敵対することは出来ません。

さて、北条氏直が信濃国東部の小県郡・佐久郡から撤退すると、信濃国佐久郡にある春日城の城主・依田信蕃は信濃国佐久郡の平定にかかります。

そして、春日城の城主・依田信蕃は佐久郡のほとんど平定しますが、天正11年(1583年)2月に岩尾城を攻めたさい、鉄砲で撃たれて討ち死にしてしまいます。

一方、信濃国小県郡真田郷の真田昌幸も、信濃国小県郡を平定に取りかかります。真田昌幸が小県郡を平定するとき、最初に攻めたのが、小県郡の豪族で室賀城の城主・室賀正武だったと言われています。

真田昌幸は無事に小県郡を平定すると、徳川家康から小県郡を安堵されます。

さて、信濃国小県郡上田(長野県上田市)に尼ヶ淵の古城(尼ヶ淵城)がありました。

尼ヶ淵城は信濃北部へ侵攻するときの要所になるため、真田昌幸は信濃北部を支配する上杉景勝との対決の拠点にするという名目で、徳川家康の兵を使って尼ヶ淵城を普請します。

こうして完成したのが上田城です。上田城は、徳川家康が普請して、真田昌幸に与えた形になります。

ところが、徳川家康は事情が変わり、信濃北部へ侵攻などと言っている場合ではなくなります。

徳川家康は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立していた織田信雄(織田信長の次男)を擁立し、四国の長宗我部元親や紀州(和歌山県)の雑賀衆・根来衆らと手を組み、羽柴秀吉包囲網を形成していました。

徳川家康は「小牧・長久手の戦い」で羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢を撃破しましたが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が政治力を使い、織田信雄(織田信長の次男)との和睦に持ち込みます。

織田信雄(織田信長の次男)が和睦に応じたので、徳川家康は戦う大義名分を失いましたが、いずれ羽柴秀吉(豊臣秀吉)と激突することは明らかでした。

こそで、徳川家康は後方の安全を確保するため、早急に相模(神奈川県)の北条氏直との同盟を強化する必要に迫られたのです。

しかし、北条氏直との間には大きな問題が残っていました。真田昌幸の沼田領問題です。

徳川家康は未だに真田昌幸に代替地を与えられないため、真田昌幸は上野(群馬県)の吾妻領・沼田領を支配したままでした。

北条氏直は和睦の条件を守り、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)から撤退しているので、徳川家康が田昌幸の沼田領問題を解決しないかぎり、北条氏直と同盟を強化することはできません。

そこで、徳川家康は真田昌幸に吾妻領・沼田領の引き渡しを求めますが、真田昌幸に代替地を得た得ていない事を理由に、引き渡しを拒否します。

怒った徳川家康は、室賀城の城主・室賀正武に真田昌幸の暗殺を命じます。

室賀正武は、信濃国小県郡にある室賀城の城主で、室賀氏も真田氏も、共に武田家に使えた同僚でしたが、室賀正武と真田昌幸と犬猿の仲でした。

徳川家康と和睦した北条氏直が和睦の条件を守って信濃(長野県)から撤退した後、真田昌幸が信濃国小県郡を平定しました。その時に、真田昌幸が最初に攻めたのが、室賀城の城主・室賀正武でした。

真田昌幸に攻められた室賀城の城主・室賀正武は不本意ながら、和睦を申し入れ、真田昌幸に下り、真田昌幸の家臣となりました。

しかし、室賀正武は不本意ながら真田昌幸に下ったので、徳川家康に真田昌幸の不満を漏らしていました。

徳川家康は、そに目を付け、室賀城の城主・室賀正武に真田昌幸の暗殺を命じたのです。

そのようななか、上田城の城主・真田昌幸が室賀正武を、上田城で行われる囲碁の観戦に招きます。

これを好機ととらえた室賀正武は、囲碁の観戦を口実に上田城に入り、徳川軍を上田城に引き入れ、真田昌幸を暗殺する作戦を立てました。

室賀正武は家臣・室賀孫右衛門を、徳川家康の家臣・鳥居元忠元の元に派遣し、真田昌幸を暗殺する準備を進めます。

ある日、室賀正武は約束通り、囲碁の観戦を口実に上田城に入りますが、室賀正武は真田昌幸の家臣・長野舎人と木村渡右衛門に捕らえられ、その場で処刑されてしまいます。

実は、家臣・室賀孫右衛門を初め、室賀正武の家臣のほとんどは真田昌幸に調略されており、真田昌幸に内通していたのです。

このため、室賀正武が企てた真田昌幸暗殺計画は、真田昌幸に筒抜けだったのです。

そもそも、真田昌幸が室賀正武を囲碁の観戦に招いたのも、室賀正武を誘き出すための罠だったのです。

こうして、室賀城の城主・室賀正武による真田昌幸の暗殺は失敗し、室賀正武は死にました。

(注釈:黒田勘兵衛・黒田長政が城井鎮房を暗殺したあらすじとネタバレは「黒田長政が城井鎮房を暗殺-合元寺の赤壁伝説」をご覧ください。)

■室賀正武の死後
室賀正武の失敗に激怒した徳川家康は、軍事力を背景に、真田昌幸に吾妻領・沼田領の引き渡しを求めます。

しかし、真田昌幸は引き渡しを拒否し、「沼田は徳川家康から拝領した領地ではなく、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と言って徳川家康に三行半を突きつけます。

激怒した徳川家康は、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉など7000の大軍で、真田昌幸の上田城を攻めます。徳川家康こそ出陣していませんが、徳川家の精鋭部隊です。

対する真田昌幸は、信濃北部を支配していた越後(新潟県)の上杉景勝に帰属し、次男・真田昌幸を越後の上杉景勝に人質に差し出し、上杉景勝の援軍を得ます。

真田昌幸は住民を入れて2000という小勢でしたが、徳川軍を上田城の二の丸まで引き入れると、一気に反撃に転じ、徳川の大軍を追い返しました(第一次上田合戦)。

なお、真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレは「真田幸村(真田信繁)の生涯」をご覧ください。

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