真田幸村の初陣-大道寺政繁と与良与左衛門と碓氷峠の戦い

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯-あらすじとネタバレ」の父・真田昌幸編「真田幸村の初陣-大道寺政繁と与良与左衛門と碓氷峠の戦い」です。

このページは「真田昌幸の生涯-名胡桃城(なぐるみじょう)事件」からの続きです。

実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■小田原征伐(北条征伐)-碓氷峠の戦い
豊臣秀吉は天正17年(1589年)12月に九州勢を除く日本全国の諸大名に小田原征伐(北条征伐)を発動し、天正18年(1590年)2月に各地の大名が関東へ向けて進軍を開始する。

このとき、豊臣秀吉は朝鮮出兵を視野に入れていたため、九州勢は温存したので、豊臣軍の総勢22万の軍勢であった。対する北条氏直は総勢8万である(兵数には諸説がある)。

豊臣秀吉は天正18年(1590年)3月1日に、3万2000の大軍を率いて京都にある聚楽第を出発。そして、豊臣秀吉は、天正18年3月19日には駿府城(静岡県静岡市)へ入り、天正18年3月27日には三枚橋城(静岡県沼津市)に入った。

そして、豊臣軍の先方を務める豊臣秀次・徳川家康が北条氏の防衛線である中山城(静岡県三島市山中新田)を天正18年3月29日に攻め落とし、豊臣軍の先鋒は4月3日に北条氏直の居城・小田原城へと迫り、小田原城を十重二十重に包囲し、枝城を攻略していった。

(注釈:豊臣秀吉本隊の活躍は「黒田官兵衛の小田原征伐」をご覧ください。)

一方、真田昌幸は徳川家康の与力という立場で、嫡男・真田信之(真田信幸)は徳川家康の家臣となっていたが、徳川家康の手勢には組み込まれず、前田利家・上杉景勝らの北陸連合軍3万5000に組み込まれていた。

さらに、豊臣秀吉に人質として差し出していた次男・真田幸村(真田信繁)は、小田原征伐(北条征伐)を切っ掛けに、真田家に戻されており、小田原征伐(北条征伐)に参加する。

さて、真田昌幸は、嫡男・真田信之(真田信幸)と次男・真田幸村(真田信繁)と手勢3000を率いて天正18年(1590年)2月に前田利家・上杉景勝らの北陸連合軍に合流すると、北陸連合軍の先手を務め、天正18年(1590年)3月に碓氷峠(長野県北佐久郡軽井沢町)から北条氏直の上野国(群馬県)へと侵攻した。。

[注釈:信濃(長野県)は豊臣秀吉から7人役を命じられていたので、真田昌幸の手勢が3000人という事から逆算すると、真田昌幸の石高は4万2800石となる。]

これに対して、北条家の・松井田城(群馬県安中市松井田町)の城主・大道寺政繁は、碓氷峠で豊臣の北陸連合軍を迎え撃つため、与良与左衛門を差し向けた。

さて、豊臣の北陸連合軍の先鋒は碓氷峠に差し掛かり、真田昌幸の嫡男・真田信之(真田信幸)が少数を率いて物見に出ると、碓氷峠で大道寺政繁の家臣・与良与左衛門に遭遇し、戦闘になった(碓氷峠の戦い)。

真田家の吉田政助が大道寺軍・与良与左衛門と戦闘をしていると、真田家の富沢主水が鉄砲で狙撃し、北条軍・与良与左衛門を討ち取った。

激戦の末、父・真田昌幸は碓氷峠で大道寺軍・与良与左衛門の部隊を撃破すると、その後、父・真田昌幸は磐根石という場所で、松井田城の城主・大道寺政繁の軍勢と遭遇し、大道寺政繁の軍勢を撃破する。

このとき、次男・真田幸村(真田信繁)は北条軍(大道寺政繁の軍勢)を蹴散らし、功名を上げたという。

すると、大道寺政繁の軍勢は松井田城(群馬県安中市松井田町)へ逃げ帰り、松井田城に立て籠ったので、真田昌幸ら北陸連合軍は、天正18年(1590年)3月20日に松井田城を包囲した。

さて、西から相模(神奈川県)へと侵攻する豊臣秀吉は、北条氏の防衛線である中山城(静岡県三島市山中新田)を天正18年3月29日に攻め落とし、豊臣軍の先鋒は4月3日に北条氏直の居城・小田原城へと迫り、小田原城を包囲した。

小田原城を包囲した豊臣秀吉は、真田昌幸と嫡男・真田信之(真田信幸)に、「こちらは人数が足りているので、松井田城攻めに専念して討ち取るように。上杉景勝・前田利家と相談して、油断の無いように」と命じている。

真田昌幸ら北陸連合軍は、松井田城を包囲している間に枝城を攻略し、天正18年(1590年)4月20日に松井田城への攻撃を再開すると、4月22日に松井田城の大道寺政繁は降伏した。

その後、北陸連合軍が上野西部の要害・箕輪城へ迫ると、箕輪城内で反乱が起き、箕輪城は天正18年(1590年)4月24日に無血開城した。

こうして、豊臣の北陸連合軍は上野(群馬県)を平定すると、武蔵国(東京都や埼玉県など)へと侵攻し、武蔵国の城々を攻め落としていき、天正18年(1590年)6月14日には北条氏邦の居城・鉢形城(埼玉県大里郡寄居町大字鉢形)を開城させた。

その後、真田昌幸は北条氏照の居城・八王子城(東京都八王子市元八王子町)を攻めた。北条氏照は精鋭を率いて小田原城で籠城していたので、八王子城には婦女子や農民など含めて2000しか残っていなかったものの、八王子城は有数の要害だった。

しかし、天正18年(1590年)6月22日、豊臣・北陸連合軍の上杉景勝の家臣・藤田信吉に、八王子の地理に精通している平井無辺という家臣がおり、平井無辺が抜け道を道案内したので、八王子城はわずか1日で落城した。

このとき、小田原城は未だに籠城を続けていたので、小田原城への見せしめとして、八王子城に居たほとんどの人が惨殺されたと伝わる(八王子城の悲劇)。

さて、八王子城攻めに加わっていた真田昌幸は、八王子城が落城すると、北条家・成田氏の居城・忍城(埼玉県行田市)を包囲していた石田三成の援軍に向かった。

このとき、石田三成が忍城を水攻めにしていた。映画「のぼうの城」で有名になった忍城の水攻めである。

さて、小田原城の包囲は長期戦になっていたが、豊臣秀吉の軍師・黒田勘兵衛(黒田如水)が単身で小田原城に乗り込み、降伏を説得すると、北条氏直は天正18年(1590年)7月6日に降伏した。

一方、石田三成は忍城への総攻撃に失敗し、未だに成田氏は忍城で籠城を続けていたが、北条氏直が降伏して小田原城を開城したため、成田氏も忍城を開場して降伏した。

北条家が降伏した結果、松田憲秀・大道寺政繁・北条氏政・北条氏照は切腹となった。北条氏直は徳川家康の娘婿だったので、徳川家康の助命嘆願により、命を助けられ、高野山へと追放された。

こうして、関東で一大勢力を誇った後北条氏(伊勢北条氏)は滅び、豊臣秀吉による小田原征伐(北条征伐)は終わった。

また、豊臣秀吉に従っていなかった東北の伊達政宗は、白装束で小田原征伐(北条征伐)に駆けつけたので、豊臣秀吉は伊達政宗を許した。

そして、豊臣秀吉は関東の仕置きを終えると、東北まで兵を進めて東北の仕置きを行い、天下を統一して京都へと凱旋したのであった。

■小田原征伐(北条征伐)の後
さて、小田原征伐(北条征伐)を終えた豊臣秀吉は、徳川家康に関東八州を与えると共に、信濃(長野県)の豪族を関東の下総(千葉県)へ移し、信濃(長野県)に豊臣派の大名を入れた。

通説では、豊臣秀吉は徳川家康を恐れていたので、徳川家康を関東へ追いやり、関東の周りに豊臣派の大名を入れ、徳川包囲網を敷いたとされる。

真田昌幸は徳川家康に属していたが、豊臣秀吉から本領を安堵され、引き続き信濃国小県郡(長野県上田市)を支配した。信濃(長野県)の大名は関東の下総(千葉県)に転封されたので、信濃(長野県)で本領を安堵されたのは、真田昌幸だけだった。

また、信濃(長野県)は徳川家康の支配からから外れたため、真田昌幸は徳川家康の与力という立場を解除され、豊臣秀吉の配下になった。

一方、小田原征伐(北条征伐)の原因となった上野(群馬県)の沼田領は、徳川家康の支配下となったので、豊臣秀吉は徳川家康を通じて嫡男・真田信之(真田信幸)に与えた。

一説によると、徳川家康が嫡男・真田信之(真田信幸)に沼田領を与えることを強く要求したらしい。

こうして、沼田領を拝領した嫡男・真田信之(真田信幸)は、父・真田昌幸から半独立した大名となる。

(注釈:沼田領の経営は完全に独立していたが、兵役などは父・真田昌幸と一括で命じられていたので、嫡男・真田信之は完全な独立大名ではなく、半独立大名となる。)

こうして、東国を再編した豊臣秀吉は、養子の豊臣秀次に関白の座を譲り、念願の朝鮮出兵(唐入り)に着手するのであった。

なお、以降は、次男・真田幸村(真田信繁)が登場するようになるので、真田昌幸編はこれで終わり、次から真田幸村(真田信繁)編へと突入します。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」へ続く。

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