大坂夏の陣

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村の生涯を描く「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村編「大坂夏の陣」です。

このページは「大坂冬の陣-和睦と大阪城の埋め立てのあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大坂夏の陣が起きた理由
大阪城は大坂冬の陣の和睦により、「二の丸」「三の丸」を壊され、内堀も外堀も埋められて丸裸となったが、豊臣秀頼は大阪城に残った。

豊臣秀頼と徳川家康の間で和議が成立し、徳川家康は引き上げたが、豊臣家には大きな問題が残っていた。それが牢人問題である。

豊臣秀頼は豊臣秀吉の莫大な遺産を引き継いだとはいえ、関ヶ原の合戦の後に摂津65万石の大名に転落しており、豊臣秀頼が抱えられるのは豊臣家の七手組1万が限度であった。

豊臣秀頼は大阪城に集まった大量の牢人を抱えるのは実質的に不可能で、大坂冬の陣の和睦が成立すると、集まった牢人を扶持放し(解雇)した。

しかし、諸大名は徳川家康から裏切りの嫌疑を掛けられては困るため、牢人を雇わなかった。

このため、新しい食い扶持を得られない牢人は、大阪城に居座ったのである。

■大坂夏の陣-大野治房の暴走
ところで、豊臣衆(豊臣家と牢人)は「和睦派(籠城派)」「主戦派」「中立派」の三派に別れていていた。

和睦派・・・大野治長・後藤又兵衛(後藤基次)
主戦派・・・大野治房・長宗我部盛親・毛利勝永
中立派・・・真田幸村・キリシタン明石全登(明石掃部)

大坂冬の陣の時は、和睦派(籠城派)の大野治長が事実上の総大将として豊臣衆を取り纏めていたのだが、大坂冬の陣の和睦が成立すると、大野治長は求心力を失い、豊臣衆を統率できなくなっていた。

そこで台頭したのが、主戦派の弟・大野治房である。大野治房は、大野治長の弟だが、和睦派の兄・大野治長とは方針が違い、一貫しての主戦派で、大野治房は兄・大野治長は対立していた。

大坂冬の陣の和議が成立し、江戸幕府軍が撤退すると、主戦派の大野治房は、豊臣秀頼の金庫を勝手に開け、金銀や米を放出して牢人に配ったうえ、兵糧や木材を大阪城に搬入し、大阪城に居座った牢人を統率して戦の準備を始めたのである。

慶長20年(1615年)3月、京都所司代・板倉勝重が徳川家康に、豊臣家が牢人を雇い入れ、兵糧や資材を搬入している事を報告すると、徳川家康は不快感を示した。

■大坂夏の陣-徳川家康の出陣
ところで、徳川家康は大坂冬の陣が終わると、和歌山藩主・浅野幸長との結びつきを強化するため、浅野家との政略結婚を行った。

和歌山藩主・浅野幸長は、父・浅野長政が高台院(豊臣秀吉の正室)の義弟にあたり、豊臣家の一族であった。そして、父・浅野長政は豊臣政権で五奉行の筆頭を務めた豊臣恩顧中の恩顧であった。

大阪城を攻めるとき、徳川家康は大阪城の南方に広がる平野に兵を展開しなければならない。このとき、紀伊国(和歌山県)は、大阪城を攻める徳川家康の背後になる。

もし、和歌山藩主・浅野幸長が裏切れば、大阪城を攻める徳川軍は、大阪城の豊臣軍と紀伊国(和歌山県)の浅野幸長に挟み撃ちにされてしまうのである。

このため、徳川家康は9男・徳川義直と和歌山藩主・浅野幸長の娘・春姫(高原院)との結婚させ、浅野長政の嫡男・浅野長晟と振姫(徳川家康の3女)を結婚させるという二重の婚姻関係によって、徳川家と浅野家の関係を強化したのである。

そして、慶長20年(1615年)4月に9男・徳川義直と紀州藩主・浅野幸長の娘・春姫(高原院)との婚礼が行われる事になる。

このようななか、大量の牢人を抱えて台所事情の厳しい豊臣秀頼と淀君は、9男・徳川義直と浅野長晟の娘の祝言を口実に、徳川家康に使者を送り、大阪の近くに1国を賜りたいと加増を願い出た。

これを聞いた徳川家康は「加増を願い出る前に、抱えている牢人を扶持放し(解雇・追放)しろ」と呆れたが、即答はしなかった。

このころ、京都所司代・板倉勝重が徳川家康に「大阪から人が出て京都に火を掛けている」と報告しており、豊臣家の大野治長は米村権右衛門を派遣して徳川家康に釈明を行った。

こうしたやりとりの結果、徳川家康は、加増を願い出た豊臣秀頼に対し、「大和(奈良県)か伊勢(三重県)への転封」か「牢人の扶持放し(解雇)」を求めた。

■大坂夏の陣の発動-豊臣秀頼の挙兵
慶長20年(1615年)4月、徳川家康は、9男・徳川義直と和歌山藩主・浅野幸長の娘・春姫(高原院)との祝言を口実に、手勢を率いて居城・駿府城を出陣し、名古屋城へと入った。

豊臣家の使者は名古屋城で徳川家康に面会し、豊臣秀頼の国替えの免除を願い出たが、徳川家康は「どうしようもないことだ」と断り、慶長20年(1615年)4月7日に西国の諸大名に大坂夏の陣を発動し、4月15日に京都・伏見城へと入った。

一方、徳川家康から「大和か伊勢への転封」か「牢人の扶持放し(解雇)」を求められた大阪城の豊臣家は、徳川家康との対決は不可能として、慶長20年(1615年)4月4日に軍議を開くと、豊臣秀頼は「諸将と共に討ち死にしよう」と言って開戦を決断していた。

大阪城は「二の丸」「三の丸」が取り壊されて堀も埋められ、丸裸になっていたので、籠城は出来ないため、豊臣家の七手組の意見によって、大阪城南方に出陣して江戸幕府軍を迎え撃つ方針が決まった。

そこで、織田頼長は総大将に名乗りをあげたが、織田頼長は大坂冬の陣の時に女と酒を飲んで戦いもせず、敵に内通している疑いがかけられていたので、誰にも認められなかった。このため、織田頼長は大阪城を出た。

また、大坂冬の陣で豊臣家を主導していた和睦派の織田有楽斎(織田長益)も、主戦派の台頭により、豊臣衆を統治できなくなったので、大阪城を出た。

(注釈:織田有楽斎は徳川家康の指示によって大阪城に入っていたとされる人物。)

こうして、織田有楽斎(織田長益)・織田頼長の親子が大阪城を出たことにより、淀殿(織田信長の姪)の発言力は低下していく。

そして、慶長20年(1615年)4月5日には、豊臣秀頼が諸将を率いて、大阪城外へ出て、江戸幕府軍との決戦の地となる大阪城南方の阿倍野・住吉・茶臼山・天王寺を行軍し、豊臣衆の士気を鼓舞した。

こうした間も、和睦派の大野治長や淀君は、徳川家康との和睦に向けて奔走していたが、慶長20年(1615年)4月9日に和睦派の大野治長が刺客に狙われて負傷する。

犯人は弟・大野治房の家臣の屋敷に逃げ込んだとされ、通説では主戦派の弟・大野治房が和睦派の兄・大野治長を暗殺しようとしたと考えられている。また、犯人は徳川家康という説もあるが、真相は分からない。

■大坂夏の陣の始まり
一方、東北・関東勢を率いて京都の伏見城に入った徳川秀忠は、徳川家康に「大阪城を攻め滅ぼしましょう」と提案したが、徳川家康は応じなかった。

そして、徳川家康は、大阪城の豊臣秀頼に使者を派遣して、牢人を抱え続けている件や戦の準備を始めている件について問いただし、「疑いを晴らすまで、大和の郡山城へと移ってください。大阪城を修復してお返しします」と提案した。

一説によると、これは、豊臣秀頼を大和の郡山城に避難させている間に、徳川家康が大阪城に集まった牢人を討ち滅ぼし、再び豊臣秀頼に大阪城を返すという意味らしい。

徳川家康が問題にしたのは、あくまでも大阪城に居座る大量の牢人で、豊臣家を潰す気はなく、徳川家康は大阪城に居座る牢人を排除してから、大阪城を豊臣秀頼に返還し、豊臣家を豊臣家の家臣と七手組1万という本来の状態に戻そうと考えていたのだという。

しかし、豊臣秀頼は最期まで大阪城を離れる事を拒んだので、徳川家康は京都近郊に集まっていた諸大名を2手に分け、一手は直進して大阪城を目指し、もう一手は大和(奈良県)を経由して大阪城を目指した。

こうして、大坂冬の陣の和睦から、わずか5ヶ月後に、大坂夏の陣が勃発するのである。

大坂夏の陣-塙団右衛門と後藤又兵衛が討死」へ続く。

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