宮原満吉(みやはら・まんきち)の生涯

宮原満吉(みやはら・まんきち)は、暮しの手帖を創設した大橋鎭子(大橋鎮子)の母方の祖父です。

宮原満吉の正確な誕生日は不明ですが、明治維新の前年に小倉城が砲撃を受けていた時(小倉戦争)に生まれたというので、戊辰戦争が行われた慶応2年(1866年)6月から8月の間に生まれたと推定できます。

また、小倉城内で生まれたというので、小倉藩士の家系だったと考えられます。

明治維新後、宮原満吉は京都へ出て、徳富蘇峰・徳冨蘆花と共に勉強に励みました。

徳富蘇峰・徳冨蘆花と共に勉強に励んだというので、宮原満吉は新島襄が設立した同志社英学校(同志社大学の前身)に入学したと考えられます。

また、琵琶湖の疎水インクラインを作る時も、宮原満吉が働きかけたというので、同志社英学校と関係のある山本覚馬(山本八重の弟で、新島襄の義弟)ともつながりがあったと考えられます。

(注釈:戊辰戦争から新島襄と山本八重が同志社を設立する経緯については「実話『新島八重の桜』のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

さて、宮原満吉(みやはら・まんきち)が京都時代に、娘・宮原久子(結婚後は大橋久子)が生まれます。この宮原久子(大橋久子)が後に大橋鎭子(大橋鎮子)の母となります。

その後、宮原満吉は新潟県で油田を掘り当て、その資産を持って北海道の小樽へと渡って居を構えて小樽に定住します。

宮原満吉は、羊蹄山の麓で宮原牧場を経営したり、小樽新聞などにも関わったりしていました。かなり手広く仕事をしていたようで、宮原家は常に書生を4~5人抱える裕福な家でした。

やがて、娘の宮原久子(大橋久子)が大橋武雄と結婚して、長女・大橋鎭子と次女・大橋晴子(横山晴子)三女・大橋芳子が生まれ、娘夫婦は幸せな生活を送っていました。

ところが、大橋武雄が結核に感染し、看病の甲斐も無く、大橋武雄は死んでしまいます。長女・大橋鎭子が小学5年生(11歳)のことでした。

父・大橋武雄が亡き後、小学5年生(11歳)の長女・大橋鎭子が「とと姉ちゃん」(家長/戸主)として家族を背負います。

しかし、小学5年生(11歳)の長女・大橋鎭子に収入は無いので、実際に金銭的な援助をしたのは北海道に住む宮原満吉でした。

宮原満吉は裕福な家でしたが、東京に住む宮原久子(大橋久子)ら親子4人の生活を支えるのは大変だったようで、宮原満吉は家作(貸家)を売ったり、宮原牧場を手放したりしたようです。

大橋家は、北海道に住む祖父・宮原満吉の支援と、母・宮原久子(大橋久子)が着物や指輪などを売りながら生活しましたが、とても貧乏な生活でした。

さて、大橋鎭子(大橋鎮子)は貧乏ながらも、祖父・宮原満吉の支援により、第六高等女学校(東京都立三田高校)へと進学することが出来ました。

昭和13年(1938年)、大橋鎭子(大橋鎮子)は日本興業銀行への就職が決まり、第六高等女学校(東京都立三田高校)を卒業します。

学費を支援し続けていた祖父・宮原満吉は、喜んで北海道から上京し、孫・大橋鎭子(大橋鎮子)の卒業式にも出席しました。

そして、祖父・宮原満吉は孫・大橋鎭子(大橋鎮子)の卒業式を見届けると、役目を終えたかのように昭和13年(1938年)4月に突然、脳溢血で死去しました。宮原満吉は推定で行年72でした。

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