田所太郎の生涯

田所太郎(たどころ・たろう)は明治44年(1911年)8月6日に東京都で生まれた。性格は内にこもって、考え込むタイプだったという。

田所太郎は、東京都の京華商業高校を卒業して銀行に就職するが、直ぐに辞めて旧制松江高校(島根大学)に入学する。

旧制松江高校で文芸部に入り、同級生・花森安治と出会い、校友会雑誌の編集に携わる。

花森安治は旧制松江高校(島根大学)をストレートで卒業して東京帝国大学へ進んだが、田所太郎は3年生の時に落第したため、1年遅れて東京帝国大学へと進学した。

そして、田所太郎は東京大学時代に帝国大学新聞に入社し、編集員の花森安治・田宮虎彦・扇谷正造・岡倉古志郎・杉浦明平と共に編集に携わる。

田所太郎は東京帝国大学を卒業後、出版物を検閲する国策機関「日本出版文化協会」に就職する。

その後、日本出版文化協会が日本読書新聞を機関誌として取り込み、田所太郎は機関誌「日本読書新聞」の編集長に就任し、日本読書新聞に入社していた大橋鎮子(大橋鎭子)と出会う。

日本読書新聞は第2次世界大戦中も日本出版文化協会(戦時中に「日本出版会」へと改組)の機関誌として発行を続けていたが、終戦間際に編集長・田所太郎の他、編集員が招集されたため、休刊となる。

昭和20年(1945年)8月15日に昭和天皇の玉音放送が流れ、日本は終戦を迎える。

招集されていた田所太郎は昭和20年(1945年)8月20日に復員。他の編集員も復員したため、日本読書新聞の復刊に向けて動き出し、大橋鎮子(大橋鎭子)も日本読書新聞の復刊を手伝う。

復刊に向けた作業が一段落したある日、田所太郎は大橋鎮子(大橋鎭子)から、「雑誌を出版してお金持ちになり、母親や妹を幸せにしたい」と相談を受ける。

田所太郎は徴兵されていたとき、残された家族が大橋鎮子(大橋鎭子)から疎開先を譲ってもっていた。家族が疎開した数日後に自宅が空襲で焼けており、大橋鎮子(大橋鎭子)のおかげで家族が助かっていた。

田所太郎は、非常に愛妻家だったので、疎開の件で大橋鎮子(大橋鎭子)に感謝しており、日本読書新聞を手伝いに来ていた花森安治に相談する事を強く勧めた。

花森安治は、東京帝国大学の在学中に化粧品会社「伊東胡蝶園」に就職して人気画家・佐野繁次郎に師事し、戦時中は国策機関「大政翼賛会」の宣伝部で戦意高揚の標語「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」「欲しがりません勝つまでは」などのポスターを手がけた宣伝マンである。

当時の花森安治は、一部の間でそれなりのイラストレターとして評価はあったが、まだまだ無名で、編集者としての評価は皆無であった。

しかし、田所太郎は、学生時代に花森安治の編集長としての才能を目の当たりにしていたので、大橋鎮子(大橋鎭子)に花森安治を紹介したのである。

こうして、大橋鎮子(大橋鎭子)は花森安治に雑誌の出版を相談。大橋鎮子(大橋鎭子)は退社し、花森安治と共に出版社を設立し、後に雑誌「暮しの手帖」を発行することになる。

一方、田所太郎は、戦後の出版業界で起きた戦犯出版社粛清事件による混乱に嫌気が差し、昭和24年(1949年)に日本読書新聞を退社して書評新聞の「図書新聞」を創刊する。

田所太郎は戦後の論評新聞・論評ジャーナリズムの確立に大きく貢献した。

しかし、図書新聞は経営不振に陥る。愛妻家だった田所太郎は愛妻の死にショックを受け、図書新聞の資金繰り悪化も重なり、昭和50年(1975年)6月6日の自宅でガス自殺した。63歳だった。

田所太郎は自殺する3日前に出版社「暮らしの手帖社」を訪れ、編集長・花森安治と30分ほど話した。花森安治は、田所太郎の自殺を知り、自殺を察知できなかったことを、非常に悔やんだ。

なお、絵本作家・瀬川康男の妻・瀬川朱々子は、田所太郎の娘である。