真田幸村(真田信繁)と茶々(淀殿)の関係を史実と実話で解説

NHK大河ドラマ「真田丸」のあらすじとネタバレ解説編「史実の真田幸村(真田信繁)と茶々の関係の解説」です。

実話・真田幸村(真田信繁)の生涯については「真田幸村(真田信繁)の生涯」をご覧ください。

■史実の真田幸村

真田幸村(真田信繁)の父・真田昌幸は、織田信長の死後、本拠地・信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を守るため、上杉景勝→北条氏直→徳川家康→上杉景勝と主を転々とした。

ところが、徳川家康から上杉景勝に鞍替えするとき、父・真田昌幸は以前に上杉景勝を裏切って北条氏直に属した経緯があるため、なかなか上杉景勝に信用してもらえなかった。

そこで、父・真田昌幸は真田幸村(真田信繁)を人質として上杉景勝に送り、なんとか帰属を認められた。

こうして、父・真田昌幸は、無事に上杉景勝の援軍(後詰め)を得て、上田城で徳川家康を撃退することに成功した。これが「第1次上田城の戦い」である。

ところが、その後、父・真田昌幸は人質として上杉景勝の元に送っていた真田幸村(真田信繁)を取り返し、今度は豊臣秀吉に真田幸村(真田信繁)を人質として差し出し、豊臣秀吉に帰属した。

このとき。上杉景勝は怒って豊臣秀吉に真田幸村(真田信繁)の返還を求めたが、豊臣秀吉は真田幸村(真田信繁)を大変気に入っていたので、返還を拒否したと伝わる。

こうして、史実の真田幸村(真田信繁)は豊臣秀吉の元で人質生活を送り、天正18年(1590年)の北条征伐(小田原征伐)の時に真田家に戻り、人質生活を終える。

■史実の茶々(淀殿)

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家が敗れたとき、茶々(淀殿)は豊臣秀吉の庇護を受けたとされる。

その後、豊臣秀吉の側室となり、天正17年(1589年)に捨(鶴松)を出産する。

■史実の真田幸村と茶々の関係を解説

真田幸村(真田信繁)は次男で、人質に出されていたということもあり、この頃の史料はほとんどありません。

一方、茶々(淀殿)は賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉の側室になったのですが、茶々は数多い側室の1人しか過ぎず、捨(鶴松)を出産するまでほとんど史料に登場しません。

ということで、NHK大河ドラマ「真田丸」で描かれるような、真田幸村(真田信繁)と茶々に怪しい関係があったという事実はありません。NHK大河ドラマ「真田丸」は完全はフィクションです。

しかし、茶々(淀殿)については不倫の噂があり、一般的に茶々(淀殿)が産んだ2人目の子・拾(豊臣秀頼)は不倫の子とされているので、そちらも史実から解説します。

■豊臣秀頼の父親

茶々(淀殿)が出産した捨(鶴松)は、天正19年(1591年)に死亡しました。茶々は再び、文禄2年(1593年)に拾(豊臣秀頼)を出産するが、拾(豊臣秀頼)には2つの疑問があります。

1・長年、豊臣秀吉には子供が出来なかったのに、どうして茶々だけはポンポンと子供を産むのか。

2・豊臣秀吉は朝鮮出兵の指揮を執るため名護屋城に滞在しており、時系列的に豊臣秀頼は豊臣秀吉の子供とは考えられない。

では、このとき、史実の真田幸村(真田信繁)は何をしていたかというと、真田幸村(真田信繁)は豊臣秀吉の朝鮮出兵に従い、名護屋城に滞在していました。

真田幸村(真田信繁)は、豊臣秀吉に気に入られており、豊臣秀吉の馬廻衆として、豊臣秀吉が居る名護屋城の警備を担当していたのです。

このため、真田幸村(真田信繁)が茶々(淀殿)と不倫する事は不可能で、真田幸村(真田信繁)が豊臣秀頼の父親という可能性は無いし、そのような説も存在しません。

では、茶々(淀殿)の不倫相手、つまり豊臣秀頼の父親は誰かのかというと、一番有力な説では大野治長です。

大野治長は、茶々(淀殿)の乳母・大蔵卿局の子で、豊臣秀吉の側近として仕えており、大坂冬の陣・大坂夏の陣で豊臣家を指揮することになります。

なお、当サイトでは、真田幸村(真田信繁)がキリシタンだったという「真田幸村(真田フランコ)はキリシタン」など、数々の秘話を紹介しています。

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