とと姉ちゃん-雑誌「あなたの暮し」のモデルのネタバレ

朝ドラ「とと姉ちゃん」で小橋常子(高畑充希)や花山伊佐次(唐沢寿明)が創刊する雑誌「あなたの暮し」の実在のモデルをネタバレします。

■とと姉ちゃん-雑誌「あなたの暮し」

戦後、小橋常子(高畑充希)は甲東出版を退職し、次女・小橋鞠子(相楽樹)と三女・小橋美子(杉咲花)と共に雑誌「スタアの装ひ」を出版した。

雑誌「スタアの装ひ」の初版は大いに売れ、小橋常子(高畑充希)は一気に1000部を増刷したが、他の出版社にマネされ、似たような雑誌がちまたに溢れており、雑誌「スタアの装ひ」は全く売れなかった。

小橋常子(高畑充希)は、2度とペンは握らないという花山伊佐次(唐沢寿明)の協力を得て、雑誌「スタアの装ひ」の第2号を出版し、大いに好評を得たが、花山伊佐次(唐沢寿明)の協力は1度限りだった。

花山伊佐次(唐沢寿明)から「また直ぐに売れなくなる。マネされない雑誌を作れ」と言われた小橋常子(高畑充希)は、「衣食住の中から大切だと思ったことを実際に体験し、記事にする」ことを思いつき、そういう雑誌を作りたいと花山伊佐次(唐沢寿明)に告げた。

そういう雑誌を作りたいと思っていた花山伊佐次(唐沢寿明)は、「女性の言葉を信じてみたくなった。君は家族思いだから、孝行娘の手伝いをしてやるだけだ。君のためにペンを握ってやる」と言い、編集長を引き受け、雑誌「あなたの暮し」の出版するのであった。

■雑誌「あなたの暮し」のモデル「暮しの手帖」

花森安治は戦後、コーヒーショップを開いていたが、日本読書新聞でイラストを描くようになり、日本読書新聞に出入りしていたとき、日本読書新聞で働いていた大橋鎭子(大橋鎮子)から雑誌の出版を相談された。

花森安治は早くに母親を無くし、親孝行が出来なかったので、大橋鎭子(大橋鎮子)の親孝行を手伝って雑誌作りに協力し、大橋鎭子(大橋鎮子)を社長とする出版社「衣装研究所」を設立する。

そして、花森安治は、伊東胡蝶園(パピリオ)で働いていたときに雑誌「婦人の生活」の編集に携わっており、雑誌「婦人の生活」を踏襲する形で、雑誌「スタイルブック」を創刊した。

花森安治の宣伝が功を奏し、雑誌「スタイルブック」は飛ぶように売れたが、直ぐに類似した雑誌が多数、出版され、雑誌「スタイルブック」は売れなくなり、第5号で廃刊となった。

そして、花森安治と大橋鎭子(大橋鎮子)は、出版社名を「暮しの手帖社」へと変更し、雑誌「スタイルブック」に「食」と「住」を加えた雑誌「暮しの手帖」を創刊することになる。

取次店から「女性が表紙で無いと売れない」と言われ、雑誌名を「美しい暮しの手帖」へと変更して創刊したが、全く売れず、雑誌「美しい暮しの手帖」は第3号で倒産の危機を迎える。

花森安治は、他社の広告を掲載する事を嫌う事で有名だが、雑誌「美しい暮しの手帖」は全く売れず、倒産の危機を迎え、第3号に「ゾートス化粧品」の広告を掲載する事を余儀なくされた。

しかし、大橋鎮子(大橋鎭子)が東久邇成子(照宮)に手記を書いてもらう事に成功し、東久邇成子(照宮)の手記を第5号に掲載。花森安治の宣伝効果も功を奏し、雑誌「美しい暮しの手帖」の第5号は売れに売れ、東久邇成子(照宮)の手記を切っ掛けに出版社「美しい暮しの手帖社」は軌道に乗っていった。

そして、発行部数が伸びて雑誌「暮しの手帖」が一定の影響力を持つと、「暮しの手帖研究室」の発足を切っ掛けに、昭和29年発売の雑誌「暮しの手帖」第26号から「商品テスト」を開始した。

商品テストは、社名を公表してテストを行っていたので、商品テストで評価の悪い会社の商品は売れなくなるという社会現象を起こした。

中でも有名なのが、ストーブの商品テストだった。花森安治は子供の頃に火事で自宅を失っていたので、かなり熱を入れ、家一軒を燃やす「火事のテスト」なども行った。

また、花森安治が「ストーブの火は水で消える」と発表すると、「ストーブ火災には毛布を掛ける」と指導していた東京消防庁が激怒して雑誌「暮しの手帖」の記事を「実験室内の小理屈」と批判した。

このころ、雑誌「暮しの手帖」は約80万部を発行しており、社会的に影響力がだったうえ、週刊誌が「ストーブの水掛け論層」としておもしろおかしく書き立てたので、大きな話題となっていった。

そして、東京消防庁が実験を行った結果、「ストーブの火は水で消える」事が立証され、専門家の東京消防庁が雑誌「暮しの手帖」に敗北するという大失態を犯し、雑誌「暮しの手帖」はさらに知名度を上げていった。

また、暮しの手帖は、ポッカレモンのビタミンC偽装問題を告発し、ポッカレモンが倒産寸前に追い込まれるという社会現象も起こした。

さて、花森安治が高齢になっえいたこともあり、雑誌「暮しの手帖」は100号で区切りに終わるのではないかと噂されたが、花森安治は101号を2世紀1号として発行を続けた。

花森安治は1978年(昭和53年)1月14日に心筋梗塞で死去し、第2世紀53号で花森安治が描いた未使用の絵が表紙に使用された。このとき、雑誌「暮しの手帖」は発行部数90万部を越えるまでに成長していた。

■ネタバレの備考

ニュースでも雑誌「暮しの手帖」はピーク時に発行部数100万部を越えていたと言われるが、私は100万部を越えたという資料を発見できなかった。

ニュースによっては「100万部に近い」「90万部超」という表現もあるので、「100万部越え」は嘘かもしれない。

また、雑誌「暮しの手帖」は社外広告を1度も掲載した事が無い言われるが、これは嘘で「花森安治が雑誌「暮らしの手帖」に広告を掲載した理由」でも紹介したように、花森安治は1度だけ、第3号に「ゾートス化粧品」の広告を掲載してる。

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