「陸王」と「こはぜ屋」のモデルは「きねや無敵(MUTEKI)」

池井戸潤の原作小説「陸王」に登場する足袋製造業「こはぜ屋」とマラソン足袋「陸王」のあらすじや実在のモデルのネタバレです。

原作小説「陸王」のあらすじとネタバレは「陸王-原作のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■「陸王」のあらすじとネタバレ

足袋業界の先細りしていくなか、埼玉県行田市にある足袋製造業「こはぜ屋」の社長・宮沢紘一は、ビムラム社の5本足シューズ「フィンガーファイブ」(実在する)を見て、新規事業としてランニングシューズの開発の開始を決断する。

すると、「こはぜ屋」の大番頭を務める経理・富島玄三は、先代の時にマラソン足袋「陸王」を製造して、一時期は売れたが、ランニングシューズに取って代わられ、経営が悪化したことを教えて止める。

しかし、社長・宮沢紘一は「陸王」の名前を引き継いで、マラソン足袋の開発に取りかかった。

その後、社長・宮沢紘一は、マラソントレーナーの有村融と出会い、「陸王」についての助言を得る。

そして、顧問・飯山晴之と長男・宮沢大地の努力によって、新素材「シルクレイ」の改良を行い、ランニングシューズの命とも言えるソールの開発に成功した。

さらに、アメリカのシューズ大手「アトランティス」と喧嘩別れしたシューフィッターの村野尊彦を加え、アトランティスからサポートを打ち切られたダイワ食品・陸上部の茂木裕人をサポートを開始する。

その後、ベンチャー企業「タチバナラッセル」から生地の提供を受けてアッパー素材(足の甲の部分)を改良した「ニュー陸王」が誕生した。

ところが、アトランティスの妨害により、タチバナラッセルから生地の提供を受けられなくなってしまう。

さらに、新素材「シルクレイ」を製造していた機械が故障し、修理不可能となり、「陸王」は生産打ち切りの危機に陥る。

このようななか、「こはぜ屋」は、アメリカのアウトドア系アパレルメーカー「フェリックス」の社長・御園丈治から、「こはぜ屋」を買収したいという提案を受ける。

社長・宮沢紘一は陸王を生産するためには、フェリックスに買収されるしかないと考えたが、顧問・飯山晴之の助言を受けて、フェリックスに業務提携を持ちかけた。

フェリックスはあくまでも買収を主張して業務提携を断ったが、その後、フェリックスは「こはぜ屋」に対して条件付きの融資を持ちかけた。

フェリックスが「こはぜ屋」を子会社にしようと思えば、子会社にできるというリスクのある条件だったが、社長・宮沢紘一はフェリックスの社長・御園丈治を信じて、融資を受け入れ、「陸王」の販売を続けた。

一方、ダイワ食品・陸上部の茂木裕人は、「こはぜ屋」か大企業「アトランティス」かの選択を迫られていたが、「陸王」を履いて、ライバルの毛塚直之に勝った。

アトランティスのサポートを受けていた陸上選手らは、シューフィッターの村野尊彦を慕って、次々とアトランティスとのサポート契約を解除し、「こはぜ屋」とサポート契約を結び、「陸王」を履いたのであった。

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■陸王のモデルは「きねや無敵(MUTEKI)」

原作小説の中に登場するマラソン足袋「陸王」のモデルは、埼玉県行田市佐間にある足袋製造業「きねや足袋株式会社」が発売するランニング足袋「きねや無敵(MUTEKI)」とされる。

足袋製造業「きねや足袋」は、初代の中澤武男が昭和24年(1949年)に「中澤足袋有限会社」として設立し、昭和27年(1952年)に高級足袋の仕立てを始めた。

そして、昭和39年(1964年)にゴム底の足袋の製造を始め、昭和39年年(1964年)に「きねや足袋株式会社」へと改組し、平成2年(1990年)に2代目の中澤憲二が社長に就任した。

「ゼロベースランニング」を提唱するトレーナーの高岡尚司から裸足感覚で走るシューズの開発を持ちかけられ、ランニング足袋「きねや無敵(MUTEKI)」を開発し、平成25年(2013年)にランニング足袋「きねや無敵(MUTEKI)」を販売した。

翌年の平成26年(2014年)に3代目の中澤貴之が社長に就任した。

さて、原作者の池井戸潤が埼玉県行田市佐間の足袋製造業「きねや足袋」を取材したことから、小説「陸王」のモデルは「きねや足袋」だとされる。

しかし、原作者・池井戸潤が取材に行ったとき、たまたま「きねや足袋」はランニング足袋「きねや無敵(MUTEKI)」の構想を持っていたというだけに過ぎない。

原作者の池井戸潤は、小説「陸王」の実在のモデルについて、「モデルがなくても書けるのが作家です」と述べている。

それに、あくまでも、実在の「きねや足袋」が販売するランニング足袋「きねや無敵(MUTEKI)」は、足袋の底に厚さ5mmの天然ゴムソールを縫い付けたものであり、新素材「シルクレイ」を利用したソールの開発などは行っていない。

そこで、色々と調べていると、小説「陸王」の本当のモデルは、スポーツ用品メーカー「アシックス」ではないかと思った。

そこで、アシックスについて紹介するのだが、その前に、マラソン足袋の歴史を簡単に紹介しておきたい。

■マラソン足袋の歴史

そもそも、マラソン足袋は埼玉県行田市佐間の「きねや足袋」が開発したものではなく、明治時代末期に誕生していた。

明治時代は国産のランニングシューズなどなかったので、「軽い方が有利」という理由から、長距離走の選手は普通の足袋を履いて走っていた。

そのようななか、日本は、明治45年5月に開催されるストックホルム・オリンピックに初出場することになり、予選を開催した。

その予選に勝ったのが、長距離の金栗四三と短距離の三島弥彦で、この2人は日本初のオリンピック選手である。

金栗四三はマラソンのオリンピック予選で優勝したのだが、足袋は25マイル(約40km)という距離に絶えきれず、底が破れ、最後は裸足でゴールするという有様だった。

そこで、金栗四三は、足袋屋「播磨屋(ハリマヤ)」の足袋職人・黒坂辛作に頼み、底を三重に補強した足袋を作ってもらった。これが「マラソン足袋」の始まりである。

こうして、金栗四三は「マラソン足袋」を履いて、ストックホルム・オリンピックに参加した。

ところが、土道路の日本とは違い、ストックホルムは舗装道路だったため、底を3重に補強しただけのマラソン足袋で練習していた金栗四三は膝を痛めてしまった。

そして、マラソンの本番当日、金栗四三は、様々な悪条件が重なり、26.7キロ地点でコースを外れ、日射病で気を失って倒れ、農家エルジエン・ペトレに介抱されてリタイアした。

このとき、金栗四三は競技本部にリタイアを告げずに帰国したため、「行方不明」という扱いになり、55年後にストックホルムのオリンピック委員会から招待され、通算54年8ヶ月6日と5時間32分20秒3という世界最長記録でゴールすることになる。

さて、ストックホルム・オリンピックから帰国した金栗四三は、次のオリンピックに向けたトレーニングを開始するとともに、足袋屋「播磨屋(ハリマヤ)」の足袋職人・黒坂辛作に頼み、舗装道路に対応するため、マラソン足袋の改良を開始した。

最初は自転車のタイヤを裂いて、足袋の裏に貼り付けていたのだが、その後、適当なゴムが見つかったので、足形のゴムを足袋の裏に貼り付けた。

そして、「こはぜ」と呼ばれる留め金を外して、シューズのように甲の部分を紐で縛るようにした。当然、ベースは足袋なので、指先は二股に分かれている。

こうして、シューズと足袋の中間という感じのマラソン足袋「金栗足袋」が完成し、大正8年(1919年)4月に足袋屋「播磨屋(ハリマヤ)」がマラソン足袋「金栗足袋」の販売を開始した。

このマラソン足袋「金栗足袋」が、大正時代から戦後、しばらくの間まで、マラソン界のスタンダードとなった。

戦後、日本は陸上界は各競技ごとに続々と世界舞台への復帰を果たし、日本マラソンも昭和26年(1951年)4月の第55回ボストン・マラソンで世界復帰を果たした。

しかも、金栗足袋を履いた田中茂樹が2時間27分45秒という記録で優勝した。田中茂樹は広島出身だったことから「原爆ボーイ」として世界を騒がせた。

こうして、日本マラソンは金メダル確実と言われ、オリンピック優勝の期待を背負い、昭和27年(1952年)の第15回ヘルシンキ・オリンピックに出場したが、日本マラソンは惨敗してしまう。

足袋屋「播磨屋(ハリマヤ)」の足袋職人・黒坂辛作は、あくまでも足袋職人であり、足袋の形状に拘っていたが、ヘルシンキ・オリンピックでの惨敗を受けて苦悩した結果、足袋という形状を捨て、シューズ型を採用した。

こうして、日本初のランニングシューズ「カナグリシューズ(ハリマヤシューズ)」が誕生した。

そして、昭和28年(1953年)4月に開催された第57回ボストン・マラソンで、カナグリシューズを履いた山田敬蔵が2時間18分51秒という驚異的な世界新記録で優勝して日本の雪辱を晴らしたのである。

こうしたマラソン足袋の歴史を踏まえて、陸王のモデルと考えられるアシックスについて説明した。

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■陸王のモデルはアシックス

アシックスは、鬼塚喜八郎が昭和24年(1949年)に「鬼塚」として設立したスポーツ用品メーカーで、当初はバスケットシューズの製造を手がけ、その後、マラソン足袋の製造を開始した。

当初はマラソン足袋がスタンダードだったが、昭和28年(1953年)に、足袋屋「播磨屋(ハリマヤ)」が日本初のランニングシューズ「カナグリシューズ(ハリマヤシューズ)」を開発し、国産ランニングシューズの歴史が始まる。

やがて、アシックスの鬼塚喜八郎は、マラソン選手の職業病とも言える足のマメに着目し、大阪大学医学部の水野洋太郎教授に相談したところ、足にマメが出来る原因は「熱」だと教えてもらう。

そこで、鬼塚喜八郎は、試行錯誤の末、靴に穴を開け、シューズ内の空気を外気と交換する機能を備えた画期的なマラソンシューズを開発し、昭和34年(1959年)に「マジックランナー」を開発する。

この「マジックランナー」が爆発的にヒットし、マラソン足袋の時代が終わり、国産ランニングシューズ時代が到来したのである。

このようななか、昭和42年(1967年)に、三村仁司(陸王-村野尊彦のモデル)がアシックスに入社する。

村野尊彦は、第2製造課と研究室を経て、別注シューズ部門を任せられ、トップ選手の要望を聞いて、選手ごとに別注のシューズを手がけていく。

アシックスは、トップ選手にシューズを履いてもらえば、その宣伝効果により、シェア20%は取れると考え、これを「頂上作戦」と呼んで、トップ選手の獲得に動いた。

そして、アシックスは、東京オリンピックを切っ掛けに、世界進出を図ろうと考え、ローマ・オリンピックの金メダリスト「裸足のアベベ」に靴を履かせる事に成功した。

しかし、当時は専属契約という習慣がなく、アシックスはアベベと専属契約していなかったため、アベベは肝心の東京オリンピックでプーマのシューズを履いて優勝し、アシックスのトラウマとなった。

こうしたアッシックの「頂上作戦」が、小説「陸王」で、アトランティスが有力選手とサポート契約を結ぶエピソードのモデルになっているのだと思われる。

さて、選手は成績を伸ばすために小さいシューズを履いていたが、アシックスの三村仁司は小さいシューズが故障の原因だと考えた。

マラソンを走っている最中に選手の足はむくんで大きくなるうえ、当時のマラソンシューズはアッパー素材(足の甲の部分)が布製だったため、水分を含んで1サイズほど縮んでいたのだ。

そこで、アシックスの三村仁司は、試行錯誤の結果、ポリエステルのラッセル素材をアッパー(足の甲の部分)に使ったランニングユーズを開発した。

(注釈:小説「陸王」では、ベンチャー企業「タチバナラッセル」が素材を提供している。)

ポリエステルは水分を吸わないし、縮みもせず、通気性も良いので、ランニングシューズに大きな革命を起こした。

次に、アシックスの三村仁司は、シューズのソール部分の開発を行った。

これまでは単なるゴムを底に貼り付けていただけだが、アシックスはゴムを網目状に成形し、合成皮革に薄く貼り付けたランニングシューズを開発した。

(注釈:小説「陸王」の場合は、飯山晴之が開発した新素材「シルクレイ」をソールに転用している。)

ソールはランニングシューズの重量の大部分を占めるため、この網目状ソールを開発したことによって、シューズの重さは従来の半分ほどになり、スピードマラソン時代の到来に大きな影響を与えたのであった。

一般的に、小説「陸王」のモデルは埼玉県行田市佐間の「きねや足袋」とされているのだが、アシックスがランニングシューズを開発した経緯を見ると、アシックスこそが小説「陸王」の本当のモデルなのではないかと思う。

なお、原作小説「陸王」の登場人物の実在のモデル一覧については「陸王の登場人物の実在のモデル一覧のネタバレ」をご覧ください。

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