陸王-ダイワ食品の茂木裕人の実在のモデルは瀬古利彦

小説「陸王」に登場するダイワ食品・陸上部の茂木裕人の実在のモデルを紹介します。

原作のあらすじとネタバレは「陸王-原作のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■陸王-ダイワ食品の茂木裕人のあらすじとネタバレ

茂木裕人は、東西大学の出身で、東西大学時代に箱根駅伝の第5区を走り、ライバルの毛塚直之と名勝負を繰り広げ、卒業後は「ダイワ食品」の陸上部に入った。

茂木裕人は将来を期待されていたが、京浜国際マラソンで左足を負傷したため、長期の戦線離脱を余儀なくされてしまう。

すると、アトランティスの小原賢治は、活躍の見込みが無い茂木裕人とのサポート契約を一方的に打ち切った。

選手の事を第一に考えるアトランティスのカリスマ・シューフィッター村野尊彦は、これに反発してアトランティスを退社し、足袋屋「こはぜ屋」の社長・宮沢紘一に誘われ、マラソン足袋「陸王」の開発に協力する。

怪我から復帰したダイワ食品の茂木裕人は、「こはぜ屋」のサポートを受け、マラソン足袋「陸王」を履いてトレーニングを再開する。

すると、アトランティスが手のひらを返して、復活した茂木裕人を取得するため、「こはぜ屋」への妨害工作を開始する。

茂木裕人はアトランティスから「こはぜ屋」の信用情報を教えられ、「こはぜ屋」が予想以上に小規模な零細企業で、倒産リスクがあることを知って動揺し、村野尊彦に相談する。

村野尊彦は、「こはぜ屋」に移籍してマラソン足袋「陸王」の開発に加わっていたが、あくまでも選手の事を第一に考えており、アトランティスとの再契約も視野に入れて、十分に考えるように助言した。

その結果、ダイワ食品の茂木裕人はマラソン足袋「陸王」を履いてニューイヤー駅伝の第6区に出場し、ライバルの毛塚直之に勝利した。

これに怒ったアトランティスの小原賢治は、「こはぜ屋」に素材を提供している「タチバナラッセル」と独占契約を結んで、「こはぜ屋」への素材供給を止めた。

このため、「こはぜ屋」はマラソン足袋「陸王」の製造中止の危機に陥るが、アメリカのアパレルメーカー「フェリックス」の融資を受けてピンチを乗りきった。

ダイワ食品の茂木裕人は、アトランティスと「こはぜ屋」の選択に迫られて苦悩するが、最終的に「こはぜ屋」の「陸王」を履いて京浜国際マラソンに出場し、ライバルの毛塚直之に勝利するのであった。

■陸王-ダイワ食品の茂木裕人のモデル

池井戸潤は山崎豊子も実在のモデルの特定が難しいのだが、ダイワ食品の茂木裕人は「ヱスビー食品」の瀬古利彦だと推定する。

陸王に登場する茂木裕人は、「ダイワ食品の陸上部」「駅伝で活躍」「1万メートルが得意」「怪我から復帰して活躍」「アトランティスの村野尊彦のサポートを受ける」などのキーワードがある。

一方、実在の瀬古利彦も、「ヱスビー食品の陸上部」「駅伝で活躍」「1万メートル日本記録」「怪我から復帰して活躍」「アシックスの三村仁司のサポートを受ける」というキーワードが一致するので、茂木裕人の実在のモデルは瀬古利彦で間違いないと思う。

瀬古利彦は三重県桑名市の出身で、最初はプロ野球選手を目指して野球をやっていたが、肩を故障したため、中学生の時に陸上に転向した。

瀬古利彦は、中学・高校時代に陸上で活躍して、方々の大学から推薦の話しがあったが、一浪して早稲田大学に入り、早稲田大学の中村清監督からマラソンをやるように言われ、マラソンを開始する。

こうして、瀬古利彦は箱根駅伝やマラソン大会で活躍して、ライバルの宗兄弟と激闘を繰り広げ、早稲田大学を卒業後は「ヱスビー食品」に入社した。

瀬古利彦は昭和55年(1980年)のモスクワ・オリンピックでメダル確実と言われていたが、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことから、日本はモスクワオリンピックをボイコットしたため、瀬古利彦はモスクワ・オリンピックに出場できなかった。

瀬古利彦は4年後を目指して大会に出場して実績を上げていたが、調整のために行ったヨーロッパ遠征で、ノルウェーの公園で日光浴をしていた全裸の女性に気を取られて足を捻挫してしまう。

この捻挫が発端となり、足の故障や膝の故障へと連鎖してしまい、1年10ヶ月という長期離脱を余儀なくされた。

瀬古利彦は長期離脱中も練習を続けており、故障から1年10月後の昭和58年(1983年)2月の東京国際マラソンに出場し、日本最高記録の2時間8分38秒で優勝して、見事に復活を遂げたのである。

その後も瀬古利彦は順調に活躍し、ロサンゼルス・オリンピックへの出場を決め、金メダル間違いなしと言われていた。

しかし、瀬古利彦は練習のし過ぎで絶不調に陥り、血尿を出し、最悪の状態でロサンゼルス・オリンピックを迎えた。

瀬古利彦のシューズをサポートしていたアシックスの三村仁司(陸王に登場する村野尊彦のモデル)は、シューズの甲の部分をポリエステルに変更したランニングシューズを開発しており、瀬古利彦の別注シューズも用意していた。

しかし、絶不調に陥った瀬古利彦は「綿のシューズを履いて負けた事が無い」と縁起を担ぎ、アシックスの三村仁司が開発したランニングシューズを履かず、従来の綿のランニングシューズを履いてロサンゼルス・オリンピックに出場した。

結局、瀬古利彦は絶不調で本番を迎え、ロサンゼルス・オリンピックは14位に終わったのであった。

ロサンゼルス・オリンピックの後、瀬古利彦はマラソンからの引退を考えていたが、ライバル中山竹通の過激な挑発により、マラソンに復帰し、数々の大会で優勝を果たして輝かしい成績を残し、世界一のマラソン選手として認められた。

しかし、瀬古利彦は、昭和63年(1988年)のソウル・オリンピックも9位に終わり、2度のオリンピックでは成績を残せず、ソウル・オリンピックの後に引退した。

なお、小説「陸王」の登場人物の実在のモデルについては「陸王の登場人物の実在のモデル一覧のネタバレ」をご覧ください。

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